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光を背負った王――神力を宿す王太子エルドウルフの戦記  作者: RE:ANNE
8章 有限と無限のあいだ

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第62話 〜一冊の絵本から〜


 昼の街の匂いと音が、まだ身体のどこかに残っていた。


 広場から戻ったフィーラは、侍女たちに浴室へ連れていかれた。


 駆け回ったあとの裾。

 風に乱れた髪。

 子供たちに引かれていた手。


 温かな湯に浸かると、それらが少しずつほどけていく。


 サラが温かな布で、フィーラの腕を優しく拭う。

 ルイーズは長い髪を湯に浸し、指をゆっくりと通した。


「レオナール、本当に速かったですね」


 サラが言う。


「うん。わたし、また負けた」


「姫さまも、ずいぶん本気で走っていらっしゃいましたよ」


 ルイーズが小さく笑う。


「つぎは勝つ」


 フィーラは湯の中で、きゅっと拳を握った。


「では、わたくしたちも応援いたします」


 いつの間にか二人も、広場の子供たちを一人ずつ名前で呼ぶようになっていた。

 姫君に付き添って眺めるだけだった輪へ、心だけはもう混じり始めている。


 フィーラは湯の中で、足の指をゆっくり動かした。


 広場にいた子供たちの顔を思い出す。


 石を積むのが好きな子。

 走るのが速い子。

 土に線を引いて、橋や道を作る子。

 歌が好きな子。


 毎日来る子の名前も、みんな覚えた。


「子供たちの先生になって、読み書きを教えてほしい」


 エルドウルフは、そう言った。


 フィーラはこれまで、言葉も、本の読み方も、人の名前も教えてもらった。

 知らなかったものを知るたび、世界は少しずつ広くなった。

 その自分に、今度は教えてほしいと言った。


 覚えたものは、フィーラの中にあるだけではなく、誰かへ渡せるものになっていた。


「……せんせい」


 小さく呟く。

 湯の表面が、ほんの少し揺れた。


 先生。


 誰かに教える人。

 誰かが知らないものを、知るところまで一緒に歩く人。


 胸の奥が、ふわりと温かくなる。


「せんせい」


 もう一度、フィーラは言った。


 言葉の形を確かめるように。

 それが自分に向けられたものだと、ゆっくり受け取るように。

 

 ◇◇

 

 午後は刺繍の会の日だった。


 付き添う侍女は、ネレアだけだ。

 今日も歩いて向かう。


 丘を降りた先に、ストラス家の屋敷がある。

 門を抜けると、外の喧騒が静かに遠のいた。


 玄関で待っていたストラス家の執事が、フィーラとネレアを奥の部屋へ案内した。


 扉の向こうから、女性たちの楽しそうな声が聞こえる。


「姫さまがお着きになりました」


 執事が扉を開いた。


 すでにジュリアが席についていた。隣には侍女クロエ。

 向かいには、ゴディエの妻アレクシアと、その侍女マルグリッドがいる。

 ちょうどマルグリッドが何かを話していたらしく、アレクシアの顔には笑いの名残があった。


 フィーラの姿を認めると、アレクシアが立ち上がる。

 ジュリアも腰を浮かせようとしたが、フィーラはすぐに首を振った。


「ジュリアは、そのまま」


 ジュリアは困ったように、それでも嬉しそうに微笑んだ。


「ありがとうございます。こんにちは、姫さま」


 アレクシアも礼を取り、顔を上げる。

 先ほどまでの明るい笑みが、そのままフィーラへ向けられた。


「こんにちは、姫さま。今日はとてもご機嫌ね」


 クロエとマルグリッドも、それぞれ静かに礼を取った。


 マルグリッドはフィーラの顔を見るなり、すぐに声を弾ませる。


「何か良いことがあったのですね?」

 

 フィーラは頷いた。


「うん。新しいお仕事するの」


 ジュリアが穏やかに微笑む。


「まあ、どんなお仕事ですの?」


 フィーラは少し胸を張った。


「街のこどもに、字を教える」


 針を持つ手が止まり、

 夫人と侍女たちの視線が一斉に上がった。


 最初に笑ったのはアレクシアだった。


「それは素敵ですわ。夫が聞いたら、きっと喜びます」


「ゴディエ?」


「ええ。学びたいという子に教えるのが、何より好きな人ですもの」


 マルグリッドも大きく頷く。


「読み書きができれば、選べる仕事も増えますものね」


 ジュリアが柔らかく微笑む。


「姫さまの新しいお仕事が、街の未来につながりますわ」


 ネレアは一歩引いて見守っている。

 表情は変わらないが、視線はわずかに柔らいでいた。


 フィーラは椅子に座る。

 針を持つ指が少し震える。


 まだ刺繍は得意ではない。

 それでも糸を通す。


「せんせい……」


 小さく繰り返す。


 アレクシアがくすりと笑う。


「まあ、もう先生のお顔をしていらっしゃいますわ」


 窓の外で木々が揺れ、午後の光がやわらかく差し込む。

 刺繍枠の上で、糸がゆっくり形になっていく。


 アレクシアはよく話した。


 王都で流れている噂のこと。

 最近、社交の場でよく見かける色のこと。

 息子たちが、また庭で泥だらけになった話。


 そのたびにマルグリッドが身を乗り出し、声を弾ませて話を継いだ。アレクシアよりさらに口がよく回り、聞いているだけのはずだったクロエがいつのまにか笑っている。


 ジュリアがルーソルの幼い頃の話を少しこぼすと、マルグリッドは待っていましたとばかりに目を輝かせた。


「まあ、それは詳しく伺わなければ」


 そう言われて、ジュリアは困ったように微笑みながらも、結局もうひとつ話を足した。


 針は進み、糸は重なり、笑い声は何度も小さく弾けた。


 フィーラはその真ん中で、ひとつひとつの言葉を聞いていた。


 噂。

 子供。

 昔の話。

 同じ人を知る者同士だけが分かる笑い。


 そうしているうちに、午後の光は少しずつ傾いていった。


「姫さま、そろそろお戻りになられますか」


 ネレアが静かに声をかける。

 フィーラは名残惜しそうに布を撫でた。


「うん。またね」


 アレクシアが笑う。


「ええ、次は先生のお話をもっと聞かせてくださいませ」


 穏やかな午後だった。


 

  

 ◇◇◇

 


 城門をくぐると、石の空気が戻ってくる。

 街の音が、一歩ごとに遠ざかっていった。


 中央館一階の大扉近くで、サラとルイーズが待っていた。

 二人の襟元には、小さな糸の花。ネレアの胸元にも同じものがある。


 ネルマで買った針結び(イーネオヤ)の花を、三人お揃いのブローチへ仕立てていた。


 フィーラの口元が緩む。


「姫さま、お帰りなさいませ」


 広いホールには、人の出入りが絶えない。

 書類を抱えた官吏、来客を案内する執事、木箱を運ぶ下男。壁際には第三騎士団の衛兵が並んでいた。


 中央館は、今日も行政府として動いている。


 ネレアが静かに一礼した。


「ここからは二人に任せます。私は所用がありますので」


「はい」

「承知いたしました」


 ネレアが人の流れへ消えると、フィーラはサラとルイーズに挟まれて大階段へ向かった。


 三人は華美ではない、日中の装いだった。

 服装だけなら、親しい令嬢たちが連れ立っているようにも見える。


 だが、その数歩後ろには、第二騎士団の護衛騎士が二人続いていた。


 城勤めの者たちは、南館の姫君を見慣れている。

 フィーラの姿を認めると、使用人は頭を下げ、官吏は自然に道を譲った。


 一方、城へ来たばかりらしい商人は、一瞬だけ足を止めた。


 簡素な服装の娘と、二人の侍女。

 その後ろに続く、第二騎士団の護衛。


 身なりと守りの厚さが噛み合っていない。


 商人が怪訝そうに見つめると、護衛騎士の鋭い眼差しが一度だけ向けられた。

 商人はすぐに前を向く。


 誰かは分からない。

 だが、軽々しく詮索してよい娘ではない。


 フィーラは何も気づかず、階段を上がっていった。


「今日は何を刺されたんですか?」


「お花ですか? それとも模様?」


 フィーラは少し考える。


「……まだ、よくわからない」


「ええっ?」


 二人の声が揃った。


「糸、まがった」


 真面目に答えると、サラがくすりと笑う。


「でも、楽しかったんですよね?」


「うん。たのしかった」


「ストラス夫人のお加減はいかがでしたか?」


「元気。でも、あまり動かないでって言われてた」


「お腹が大きいと大変なのですね」


「わたくしたちも気をつけないと……」


 二人が声を潜める。

 フィーラは左右の顔を見比べた。


「なに?」


「いえ、なんでもありません」


 二人は同時に姿勢を正した。

 後ろの護衛騎士たちは、何も聞こえなかった顔を保っている。


 やがて人の流れが途切れ、南館へ続く空中回廊が見えた。


 入口の衛兵が姿勢を正す。

 扉が開くと、外光と風が石造りの回廊へ流れ込んだ。


「そうそう。新しい紅茶が届いていましたよ」


 ルイーズが言う。


「南方のお茶だそうです」


「……いい匂い?」


「ええ、とても」


「たのしみ」


 二人が微笑んだ。


 その先は、限られた者だけが入る南館だった。


 南館二階、サロン前。


 扉の横に、護衛騎士ユーグが控えていた。

 姿勢を正し、一礼する。


「姫さま」


 フィーラは近づく。


「中にルーソルいるの?」


 ユーグは表情を変えず答える。


「はい。ルーソルディア様が在室されております」


 事実のみ。


 フィーラの顔がぱっと明るくなる。


「よかった、ルーソルがいる」


 小さく呟き、振り返る。


「サラ、ルイーズ。お部屋に戻っていいよ」


 二人は一礼した。


「では、後ほどお迎えに参りますね」


 静かな扉が開く。


 午後のサロンへ、フィーラは足を踏み入れた。

 

 ◇◇◇


 サロンには大きな作業机が据えられていた。

 分厚い紙の地図が何枚も広げられ、重し代わりの石や真鍮の道具が整然と並んでいる。


 高い窓から入る午後の光が、大理石の床に柔らかな模様を落としていた。

 風がゆるやかにカーテンを揺らし、静かな紙の匂いが部屋に満ちている。


 ルーソルがペンを走らせていた。


「……フィーラ様?」


 顔を上げる。

「こんにちは。どうしたの?」


「ルーソルに、新しい仕事の相談しに、来たの」


 棚から絵本を引き出し、

 彼の隣へ座った。


 椅子が少し近い。

 膝が触れそうな距離。


 ルーソルは一瞬だけ瞬きをして、ふっと笑う。


「そっか。どんな仕事?」


 フィーラは少し頬を赤らめる。


「エルドウルフにね、せんせいになってほしいって、お願いされたよ。街の子供たちに、読み書きを教えるの」


「ああ、いいね。ぴったりだ」


 即答だった。


「ほんと?できるかな」


「できるよ。子供、好きでしょ」


 フィーラは大きく頷いた。

 少し照れた顔。


――名前を書けるようになること

――文字が読めるようになること

 

「どうしたら、うまく教えられるかな。

 えほんは一冊しかないし。みんなにあげられない」


「うーん」


 ルーソルは腕を組んで少し考える。


「最初はね、いつも歌ってる歌。あれを文字にしてみたら?」


 フィーラの目がぱっと輝く。


「うん!」


「文字に慣れるのが一番大事だから。次は絵本を大きな紙に写して、一枚ずつみんなに見せながら読む。声に出して読むんだ」


 言いながら、自然に絵本を引き寄せる。

 フィーラも身を乗り出す。


「大きな紙は俺が用意するよ。それから、ゴディエにも相談してみよう」


「ゴディエ?」


「宮廷教師の資格を持ってるんだ。俺もエルドウルフも、ずいぶん教わった」


 ルーソルは少しだけ笑う。


「教え方は上手いよ。厳しいけどね」


 フィーラは嬉しそうに笑う。


「すてき!」

 けれど次の瞬間、少し眉が下がる。


「でも……えほんはうつせない。わたし、絵描けない」


 ルーソルはくすっと笑った。


「絵ならアンリがいるでしょ。頼めば喜んで描くよ」


 そして、少しだけ声が柔らかくなる。


「文字はフィーラ様が書こう。気持ちを込めて書いたものはちゃんと伝わるから」


 その時、静かな足音が近づいた。


 サロン専属のバトラーが、音もなく一礼する。

 銀のトレイには、湯気の立つ二つのカップ。


「お茶をご用意いたしました」


 机の端へ、音を立てずに置かれる。

 いつもの配置。いつもの温度。


 二人の会話を邪魔しない完璧な距離感だった。


「ありがとう」


 ルーソルが軽く頷く。


 バトラーは一礼し、静かに去っていった。


 湯気がゆっくりと揺れ、光の中に溶ける。


 フィーラの目がじわっと潤む。


「ルーソル、すごくいい案。わくわくする」


 そのまま、思わず彼の手を取った。

 両手で、ぎゅっと。

 測量のときと同じ、無意識の動き。


「本当にありがとう!」


 ルーソルは一瞬だけ驚いた顔をして――

 すぐに優しく笑った。


「どういたしまして」


 窓の外で、風がもう一度カーテンを揺らした。

 

 

更新 月曜日/木曜日 20:00


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たまにイラストも

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