第61話 〜小さな先生〜
子供は、毎日同じ時間に集まっていた。
広場に。
決まったように。
当たり前のように。
ロワール太公の一行は、三日後の朝にクワルノーを発った。
出立は早かった。
街が目を覚ますより少し前、城門は静かに開かれる。馬車の列は石畳をゆっくりと進み、見送りは最小限だった。
大げさな儀礼も、長い別れの挨拶もない。
馬車へ乗り込む前、マティスは一度だけ振り返る。
城壁。
整えられた街並み。
遠くに見える、新たな工事の足場。
そして、門前に立つ王太子。
マティスは短く頷く。
エルドウルフも頷き返した。
馬車の扉が閉まる。
車輪が静かに回り始める。
ロワールの旗は角を曲がり、やがて見えなくなった。
クワルノーに、いつもの営みが戻る。
――少なくとも、表向きは。
そして数日がたった。
昼に近い陽光が、第二城壁の広場を明るく照らしていた。
◇◇◇
午前の巡回は終わり、城へ戻る途中だった。
昼過ぎには小会議がある。
遅れるわけにはいかない。
ノアの歩調が、ふと緩む。
風に乗って、歌声が届いた。
子供たちの声。
エルドウルフは顔を上げる。
第二城壁の広場。
――いた。
輪の中心には、フィーラ。
この時間なら不思議ではない。
毎日この頃になると、子供たちと遊んでいる。
エルドウルフは手綱を軽く引いた。
「止まれ」
ノアが静かに足を止める。
オリビエが馬を寄せる。
「殿下?」
「少しだけだ」
短く答え、鞍から降りた。
オリビエが手綱を預かり、護衛騎士たちは自然と距離を取る。
エルドウルフは広場へ視線を向けた。
もうすぐ昼だ。
フィーラはこのあと城へ戻り、時間が合えば刺繍の会へ向かう。
広場。城。刺繍の会。
彼女にはもう、毎日をつなぐ場所があった。
エルドウルフは静かに目を細めた。
(……毎日、こうして過ごしているのか)
広場の中央で、子供たちが一斉に走り出した。
「よーい!」
「どん!」
石畳を蹴る音が弾ける。
笑い声が風に混ざる。
フィーラも走っていた。
夢中だった。
小さな子供たちと一緒に笑い、一緒に駆けている。
先頭は、赤い靴の少年。
「レオナール!はやい!」
誰かが叫ぶ。
本人は振り返らない。
ただ前だけ見て走る。
この中で一番速いのだろう。
そのすぐ後ろ。
小さな女の子が足をもつれさせた。
石畳の段差につまずく。
体が前へ倒れる。
声も出ない、その瞬間。
ふわり、と風が動いた。
倒れかけた体が、空中で緩む。
膝が石に触れる前に、勢いだけがそっとほどけた。
女の子は目を丸くする。
転んでいない。
それを理解するまで、少し時間がかかった。
次の瞬間、フィーラがすぐ隣にしゃがみ込んだ。
「だいじょうぶ?」
小さな手を包む。
「うん…」
頷くと、すぐに笑顔が戻る。
「もういっかい走る!」
立ち上がって、また走り出した。
フィーラは立ち上がり、子供たちの後ろを追う。
何事もなかったように。
誰も気づいてはいない。
――一人を除いて。
エルドウルフは、目を細めたまま動かなかった。
(……神力)
人が使う技ではない。
ただ、世界が“少し都合よく動いた”。
まるで偶然のように。
無意識のまま。
当たり前のように。
守った。
視線が、広場をゆっくりとなぞる。
走る子供たち。
石畳の段差。
転びかけた少女。
そして、その中心で笑うフィーラ。
無意識に使われた神力。
本人は、気づいていない。
ならば、彼女が慌てて手を伸ばさずに済むようにすればいい。
思考が静かに切り替わる。
王太子の顔になる。
広場の中央で、最後の歌が終わった。
「またあした!」
フィーラが両手を振る。
「またねー!」
「おねえちゃん、明日も走るよ!」
子供たちは一斉に散っていく。
レオナールが最後に振り返った。
「つぎも負けないからな!」
フィーラは笑う。
「わたしも!」
その横には、いつの間にかエルドウルフが立っていた。
子供たちが少しだけ足を止める。
「あ、いっしょのひと」
「すきなひとのひとだ!」
ひそひそ声が広がる。
エルドウルフは小さく手を上げた。
「転ばないようにな」
子供たちは元気よく頷く。
「はーい!」
笑い声を残し、それぞれの家へ駆けていった。
広場に残るのは、フィーラとエルドウルフ。
少し離れて、オリビエがノアの手綱を引いている。
護衛騎士が遠巻きに配置を保つ。
さらに後方にはサラとルイーズ。
視線は向けないが、全員が見守っている。
昼に近い光だった。影が短い。
「帰るか」
エルドウルフが言う。
「うん」
並んで歩き出す。
フィーラはすぐ話し始めた。
「きょうね、レオナールがね、すごくはやかったの」
歩きながら身振りが増える。
「いつも一番。みんなのあこがれ」
少し間。
「わたし、毎回負ける」
でも楽しそう。
「転ばないように走るの、むずかしい」
エルドウルフは横目で見る。
「そうだな」
「カリナはね、お花いっぱい知ってる。
お母さんがお花屋さんなの」
指で数を示す。
「きょう三つ覚えた。ひとつ忘れたけど」
「それは二つだろ」
「……三つ」
真顔で言い張る。
少し笑う。
「トマは妹いるの。げんきな子。
お父さんは商家で働いてる」
言葉が前より滑らかだ。短いが、文になっている。
「お歌もね、すぐ覚えるの。みんな、声おおきい」
声が少し弾む。
「きのうね、絵本読んだの。みんな静かに聞いてくれた。最後まで」
小さな誇らしさ。
「トマはね、隣で文字を見てた。指で追ってた。真剣」
エルドウルフはゆっくり頷いた。
「そうか」
城門が見えてくる。
小会議まで、あまり時間はない。
フィーラはまだ続ける。
エルドウルフは歩みを緩めた。
子供たちの名を、自然に口にする。
誰が何を好きで、
誰が何を得意としているのか。
それを当たり前のように覚えている。
「……いつも、来ているのか」
「うん。十時くらいから」
「毎日?」
「うん」
迷いのない返事だった。
少しの沈黙。
エルドウルフは振り返った。
さっきまで子供たちが走り回っていた広場。
その輪の中で笑うフィーラ。
転びかけた少女。
無意識に使われた神力。
毎日。
同じ時間。
同じ場所。
小さく息を吐く。
広場の姿が、彼の中で一つの計画へと変わっていく。
「……いいことを思いついた」
フィーラがぱっと顔を上げる。
「なに?」
少し間。
「お願いがある」
風が止まったような時間。
「詳しい話は、城でするよ」
昼の鐘が遠くで鳴る。
護衛が動く。
オリビエが歩幅を合わせる。
侍女たちも静かに距離を詰めた。
二人は並んで城門をくぐる。
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