第60話 〜晩餐は戦場〜
「ロワール閣下並びに随行の皆、貴族、官吏諸君に創造神の祝福があらんことを。――今宵は肩の力を抜いて過ごしてほしい」
極端に短い挨拶だった。
その一言で晩餐は始まる。
同日午前の案内にもかかわらず、クワルノーのタウンハウスに常駐する子爵や公子のみならず、周辺領地の代理人までもが席に着いている。
忠誠と情報網は、数字より雄弁だ。
(悪くない)
エルドウルフは隣席の重鎮へ酒を注ぎ、静かに杯を掲げた。
同じ卓のフーガが低く呟く。
「“シュバリエ”の安寧も“陛下”の健康も、“守護神”への感謝も無しか」
アンリが苦笑する。
「今日はだいぶ削ったな」
「削ぎ落としただけだ」
エルドウルフは杯を傾けた。
卓には、マティス、ジュリア、エラン、ルーソル、ゴディエ、フーガ、アンリ。
身分順に整然と。
「姉上、お加減はいかがですか。子は順調ですか」
エルドウルフの問いにジュリアが柔らかく微笑む。
「ええ、殿下。私もこの子も健康ですわ。毎日姫さまにお腹を撫でていただいているからかしら。食事がとても美味しくて」
その整然を、崩す言葉だった。
ぴくり、と、複数の手が止まった。
「……姫さま?」
マティスが逃さない。
豪傑たちが一瞬で静まる中、ジュリアは穏やかに続ける。
「殿下が保護している姫君です。花のように可憐な方。今夜はいらっしゃらないの?」
時間が、止まった。
エルドウルフの思考も一瞬、空白になる。
(朝、会わないと言われた)
そこから先は考えていなかった。
「ジュリア。その姫君とは、どこの姫だ」
どうせエルドウルフは躱す。
ならば娘から聞く。
マティスの狙いは明確だった。
「ジュリア、その話は――」
エランが制止する。
しかし。
「亡国の姫君だそうです。遠縁と伺っています。ハンサンで再会なさったとか。いまは殿下を頼ってクワルノーに」
流れるように語る。
事実と虚構を混ぜた、完璧な布石。
「そうか」
マティスの視線が鋭く細まる。
「ぜひお会いしたいものだ。姫君の御名は?」
逃げ場はない。
視線が、エルドウルフに集まった。
長卓の上には銀器が整然と並び、燭台の炎が揺れている。
楽師の弦は、いつの間にか音を止めていた。
周囲の貴族たちも、会話をやめている。
ワインを注ぐ音すら、やけに遠い。
全員が――王太子を見ていた。
杯の縁に触れた指が、わずかに止まった。
逃げ道はいくらでもあった。
だが――選ばなかった。
「……フィーラです」
周囲の貴族たちが、わずかにざわめいた。
王太子が、認めた。
隣に置く姫君の名を、隠さず口にしたのだ。
短い沈黙のあと、マティスが眉を上げる。
「珍しい名だな」
「天界の花にちなむ名だと聞いております」
さらりと続ける。
マティスが頷く。
「ほう。縁を感じる良い名だ」
その言葉に、卓の緊張がほんのわずか緩む。
マティスは続けた。
「それほど大切に匿う姫君なら、ただの遠縁ではあるまい」
視線が、再びエルドウルフへ戻る。
エルドウルフは杯を置いた。
「母上の実家、オリオンツォーナの遠縁です」
一瞬、マティスの表情がほどけた。
辺境伯オリオンツォーナ。
そして――ミレーヌ。
それだけで足りた。
「……なるほど」
だが、エルドウルフはそこで終わらせなかった。
「今は素性を伏せ、私の庇護下に置いています。」
静かな声だった。
「ですから、姫君について軽々に噂されることは望みません」
卓の空気が、わずかに締まった。
命令ではない。
脅しでもない。
だが、王太子の庇護下にあると明言された以上、誰も軽く扱えない。
マティスはゆっくり杯を揺らした。
「よかろう。ならば、いずれ正式な場で披露してもらおう」
「その時が来れば」
エルドウルフは杯を取り直した。
視線が少しずつ離れていく。
晩餐の音が、ゆっくり戻ってきた。
会話が再び流れ始めると、止まっていた楽師が静かに弦を鳴らした。
張り詰めていた空気が、ゆっくりと解けていく。
その瞬間を待っていたかのように、扉が静かに開いた。
給仕たちが一斉に動き出す。
足音も、衣擦れも、皿の触れ合う音すらない。
白手袋の手が、影のように卓上を滑っていく。
最初の皿が置かれた。
湯気の立つ白いスープ。
淡い香草の香りが、張り詰めていた空気をゆっくりと解いていく。
遅れて、まだ温かなパンが運ばれる。
給仕たちは視線を上げないまま卓全体を見渡し、誰にも意識させぬ速さで杯を満たしていった。
卓の端で、フーガが小さく呟く。
「相変わらずだな」
アンリが小声で返す。
「戦場より統制が取れてる」
銀蓋が同時に持ち上がり、香ばしく焼かれた肉の匂いが広がった。
止まっていた楽師の弦も、静かに音を取り戻す。
重苦しかった晩餐は、ようやく宴の姿へ戻っていった。
ロワール太公マティスがゆっくりと杯を回す。
「西への拡張は聞いた。秋の前に動いたのだな」
軽い口調。
だが視線は鋭い。
エルドウルフは頷いた。
「夏の終わりは嘘をつかない。
飢えるか、備えるか。どちらかが見える。そうでしょう?」
「備えているか?」
「半分は」
短い返答。
マティスは小さく笑った。
「正直でよろしい」
ワインを一口。
「国境は静かだ。
静かすぎて、少し不気味だがな」
領地を持つ貴族たちの姿勢が、わずかに正された。
静かな年は、次の嵐の前触れになりやすい。
エランが静かに口を開く。
「交易量は昨年比で微増。
ただし香辛料だけは流入が減っています」
ゴディエが続ける。
「海路ではなく、陸路に切り替えている可能性があります」
マティスの眉がわずかに動く。
「戦の準備か?」
誰も否定しない。
代わりにエルドウルフが言った。
「まだ“噂”だ。
だが噂は、放置すると事実になる」
マティスは満足そうに頷いた。
「だから、西へ伝令を出したか」
「はい。王太子派には、警戒を。
商人には、物流の変化を注視するよう伝えました」
ルーソルが静かに続けた。
「ロワールからも街道沿いの領主へ知らせています。兵を動かせば余計な警戒を招くため、今は商隊と宿場から情報を集めています」
マティスが息子を見る。
「早いな」
「遅れてからでは、殿下の役に立ちませんので」
給仕たちは料理を滞りなく運び、卓の空気はいつしか和らいでいた。
「南西境界の橋、修繕を始めたと聞いた」
「老朽化していました。」
「金は?」
「もちろん、出しました。」
短いやり取りに、周囲の貴族が小さく笑う。
アンリが肉を切りながら呟く。
「この二人、会話が短すぎる」
フーガがワインを飲みながら返す。
「分かる奴にだけ分かればいい」
卓の笑いが少し広がった。
酒が進む。
声が少しだけ大きくなる。
警戒の糸が、ほんの少し緩んだ。
その瞬間だった。
マティスが何気ない声で言った。
「ところで」
ナイフとフォークが止まる。
太公は穏やかに微笑んだ。
「フィーラ殿には、いつ紹介してもらえるのかな」
完全に油断した場に投げ込まれた言葉だった。
エルドウルフは小さく息を吐いた。
「……機会があれば」
ジュリアが楽しそうに笑う。
「私も気になります」
静かな波紋が、卓の上を広がった。
マティスは肉を切り分ける手を止めることなく言った。
「では、早く子を儲けろ」
一瞬、卓の音が消えた。
グラスが止まる。
ナイフが止まる。
そして次の瞬間、フーガが盛大にむせた。
「ぶっ……!」
アンリは目を伏せ、額に指を当てる。
ルーソルは飲みかけたワインを危うく止め、静かに咳払いをした。
エランの手は、皿の上でぴたりと止まる。
ゴディエは視線を逸らし、口元を押さえた。
周囲の貴族たちも、微妙に姿勢を正す。
笑ってよい話ではない。
だが、完全に真面目な話として受け取るには、あまりにも無造作に放り込まれた。
ジュリアが目を丸くする。
「お父様」
周囲の貴族たちも、息を呑んだまま王太子と太公を見比べている。
だがマティスは豪快に笑った。
「王太子だぞ。十八だ。若い若いと言っているうちに、あっという間だ」
ワインを揺らしながら続ける。
「血筋は、早く繋いでおくに越したことはない。
戦も政治も、後継がいれば話が早い」
声は軽い。
だが、完全な冗談でもない。
視線がゆっくりとエルドウルフへ向いた。
当人はしばらく沈黙し、杯を静かに置いた。
「……叔父上」
低いが、怒ってはいない声。
「順序というものがあります」
マティスは肩をすくめる。
「順序?——はは。
子が生まれれば、それが順序になる」
ゴディエはゆっくりと目を閉じ、フーガは無言でワインをあおった。
「乱暴だな」
エルドウルフが言う。
「王家の話は、だいたい乱暴だ」
即答。
しかし、口元はわずかに緩んでいた。
マティスは少しだけ間を置き、声を落とした。
「まあ、急げとは言わん。
だが――名を出した以上、形にしておけ」
完全な命令ではない。
助言でもない。
揺さぶりだ。
そして、太公は再びワインを口にした。
凍りついた卓は、やがて小さな笑いとともに溶け始める。
マティスの言葉の余韻が、まだ卓の上に残っている。
ほんのわずかの静寂。
それを破ったのは、やはりジュリアだった。
「まあまあ、お父様ったら」
にこやかに笑い、わざと大きくため息をつく。
「そういう話題は野暮ですよ。老婆心が剥き出しです」
周囲から小さな笑いが漏れる。
マティスが眉を上げた。
「老婆心だと?」
「ええ。可愛い甥が心配で仕方がない、という顔をしていらっしゃいますわ」
くすり、と。
何人かが肩の力を抜いた。
マティスはわずかの間ジュリアを見つめ、それから低く笑った。
「……そうかもしれんな」
グラスを揺らす。
「年を取ると、どうも口が先に出る」
「存じております」
ジュリアは優雅に杯を傾けた。
空気が完全に戻る。
止まっていたナイフが再び動き、楽師の音も自然に重なった。
エランが静かに笑う。
「義父上。殿下は順序を違える方ではありません」
マティスは目を向けた。
「今は、その順を見守るのがよろしいかと」
「……そうだな」
マティスはあっさり頷いた。
「若い者には若い者の順がある。
急かすつもりはない」
言葉は軽い。
だが、先ほどの一石が完全に消えたわけではない。
エルドウルフはそれを理解したまま、杯を持ち上げた。
宴は、何事もなかったように続いていく。
◇◇◇
華美ではないが、よく整えられた晩餐会で、主役のエルドウルフが退席したのを機に、身重のジュリア・ド・ストラスも帰宅のため馬車に乗り込んだ。
妻の体を気遣い、エランは同乗する。
「しかし驚きました。貴女が姫さま――フィーラ様を話題に出すとは思いもしませんでした」
隣に座り、そっと手を取って語りかける。
咎める声ではない。ただ、本心からの驚きだった。
妻の実家は太公家。二人の関係は元より対等だ。
そしてエランは、誰よりも妻を愛していた。
ジュリアは穏やかに微笑む。
「姫さまがあの場にいらっしゃらなかったとしても、旦那さまも殿下も、まるで存在しないかのように振る舞っていましたでしょう?少し腹が立ったのです」
才色兼備な太公の一人娘は、柔らかな声でそう言った。
「神の存在は、軽々しく口にしてよいものではありません」
エランは苦笑する。
フィーラの存在に、彼自身も頭を抱えているのだ。
顕現した神。
――だという事実を忘れてしまうほど、あの少女は無垢で可憐だった。
今、彼女は自由に動き回っている。
城下町だけではない。やがて領地、そしてシュバリエ全体へと知られる日が来るかもしれない。
ジュリアが静かに続けた。
「気づいていらっしゃいますか?旦那さまは姫さまを“手に余る存在”のように仰ることがあります。でも姫さまは私たちの理解が及ぶ御方ではありません。最初から、私たちがどうこうできる存在ではないのです」
言葉は正しい。
それでもエランは首を振る。
「ですが私は、エルドウルフと国民を守る立場にあります。あの天真爛漫の神が、彼にどんな影響を与えるのかを案じるのも仕事です」
「旦那さまのお気持ちは分かります。」
ジュリアは握られた手に、もう片方の手を重ねた。
「ですが、その役目と、姫さまを恐れることは別です」
馬車の歩みは緩やかだった。日が沈み、藍色が空に広がっていく。
「旦那さまは、殿下を“英雄”と呼びますよね。彼の進む道が歴史になると。ならば姫さまも同じではありませんか?姫さまが示した道を、私たちは進めば良いのです」
少し間を置き、続ける。
「たとえ苦難があったとしても、それは神がお与えになった試練でしょう」
エランは息を吐いた。
確かに――二人は大きな特異点だ。
ジュリアはクスリと笑う。
「……もっとも、そうではないのかもしれませんが」
「えっ?」
あまりに早い手のひら返しに、思わず声が漏れる。
ジュリアはにこやかに笑った。
「殿下に甲斐性がなければ、姫さまが見限って別の方を選ぶかもしれませんし。逆に殿下が姫さまを失望させれば、大陸が消し飛ぶかもしれません」
エランは天を仰いだ。
「……物騒なことを平然と言いますね」
「だからこそ、私たちに出来るのは、御しようとすることではありません」
ジュリアは優しく続けた。
「姫さまが普通の女の子として笑えるように、普通に接することです」
「……普通に、ですか」
エランは難しい顔をした。
「顕現した神を相手に?」
「今だって、決まらないエンブレムに悩んでおられるでしょう?」
「それとこれとは別です」
「同じです」
即答だった。
エランは黙る。
「姫さまは未来を見通しているわけでもなさそうです。迷って、悩んで、楽しいことがあれば笑う。普通の女の子なのです」
ジュリアは握られた手を、指先で軽く撫でた。
「だから私たちも、普通に接すればいいのです」
馬車が石畳を踏み、ゆるく揺れる。
エランはすぐには答えなかった。
窓の外を、夜の街灯りが流れていく。
「……案じるな、とは言わないのですね」
「旦那さまに申し上げても、無駄でしょう?」
あっさり返され、エランは妻を見る。
ジュリアはにこやかに笑っていた。
「それは、そうですが」
「なら、せめて姫さまを御しようとはなさらないで」
エランは少し黙った。
馬車の揺れに合わせ、重ねられた手がわずかに動く。
「私たちが、どうこうできる御方ではない」
「はい」
「……それは認めます」
ジュリアの目がやわらぐ。
エランは小さく息を吐いた。
「普通に接する、……ですか」
「難しいですか?」
「非常に」
即答だった。
ジュリアがくすりと笑う。
「では、まずはエンブレムのお話からなさっては?」
「……努力しましょう」
馬車は夜のクワルノーを、静かに進んでいった。
「ふふ。あら、坊やが安心したのかしら」
ジュリアは腹部に手を添える。
「動きましたよ。触ってください」
導かれた手の下で、確かな胎動があった。
「本当だ……」
「男の子ですって。姫さまが教えてくださいました」
エランは固まった。
「……そうか」
嫡男。
その二文字が胸に深く落ちた。
ストラス家を継ぐ者。
そして、自分とジュリアが未来へ残す命。
込み上げる喜びを押し隠そうとしても、口元はどうしても緩んでしまう。
「髪と瞳の色も教えてくださったのだけれど、聞きたい?」
エランは少し考え、首を振った。
「楽しみは取っておきます」
ジュリアは満足そうに微笑んだ。
そうして妻を自邸まで送り届け、エランは馬車を降り、そのまま宮廷へ蜻蛉返りした。
夜の王都は静かだった。
灯りの残る窓は少ない。
だが――城の灯は、まだ消えないだろう。
エランは小さく息を吐き、手綱を握り直した。
守るべきものは、確実に増えている。
更新 月曜日/木曜日 20:00
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