第6話 〜名と理のあいだでー
※戦争・政治要素を含むハイファンタジーです。
※派手な無双よりも、判断と選択を積み重ねて進む物語になります。
※恋愛要素は控えめです。
「すごい。――こんなに、力、戻ってる」
フェギスノーラ自身も、羽に満ちていく力と、その厚みを増した光に、思わず息をのんだ。
その輝きは、神としての存在をはっきりと主張している。
胸の奥を押されるような圧を感じながらも、エルドウルフは腰に回した手の力を、意識して緩めなかった。
離す理由はなかった。離したくもなかった。
フェギスノーラは少しはにかむように目を伏せ、力を緩めるように促した。
手を繋ぎ直し、宙に浮いたまま振り返る。そこには、先程エルドウルフがマナを貰った鉢植えがあった。
体を屈ませ、枯れてしまった薔薇の枝に、そっと指を触れさせる。
彼女の指先から羽の先まで、青白い光の粒が、泡立つように湧き上がる。
その光に包まれた瞬間、力なく項垂れていた花と枝は、まるで時間を巻き戻すように、緑を取り戻した。
次の瞬間、黄色の大輪の花が、音もなく咲き誇る。
息を呑む音が、背後で重なった。
だがエルドウルフの意識は、奇跡そのものよりも、
腕の中にある温もりと、その重みに向いていた。
ゴディエの声が、かすかに震える。
「死んだものを、生き返らせることが出来るのか?」
本物の奇跡だ。
だが同時に――
その奇跡を生み出した存在を、腕の中に抱いているという事実が、
エルドウルフの胸を、静かにざわつかせていた。
焦りは、否定しようのないほどはっきりしていた。
いつもなら、言葉は選ぶ。
だが今は、選ぶ前に、声になりそうだった。
言いたい。
聞きたい。
フェギスノーラは、その気配を読んだのか、ほんの少し微笑った。
「飛ぼう」
腹心たちの視界から、王太子と神の姿が一瞬で消えた。
「エルドウルフっ?!」
誰かが叫ぶ。
次の瞬間、庭には風の音だけが残った。
見回しても、姿はない。
声も、羽音も、気配すらない。
フーガは歯噛みし、低く舌打ちした。
――とんでもない神だ。
「あ、あそこだ!」
ルーソルの声に、全員が一斉に顔を上げる。
首が痛むほどに仰いだ先。
はるか上空。
雲よりも高い場所に、光る何かが浮かんでいた。
点のように小さい。
だが、確かに――王太子と神だった。
視界が一気に引き上げられ、思わず目を閉じた。
耳の奥が詰まり、胃がふわりと浮く。
喉に息が引っかかり、身体が一瞬、重さを失ったような感覚が走った。
「……っ」
次に目を開けた時、フェギスノーラが、すぐ目の前で微笑んでいた。
その向こうには、何もない。
「浮いてる……」
足元がない。
風が頬を打ち、衣が煽られる。
眼下には、芽吹き始めたばかりの緑の大地が、ゆっくりと広がっていた。
セシール河は南北に細い光の帯のように流れ、
北にはアルマー渓谷の切れ込みが見える。
さらに遠く、南の向こうには、祖国シュバリエの山脈が、青く霞んでいた。
繋いだ手から、温かな何かが流れ込み、身体の輪郭を包んでいるのがわかる。
――これが、神のマナか。
羽で飛んでいるのではない。
空間そのものに、支えられている。
そんな感覚だった。
「お前の――」
言葉を遮った。
「名前を呼んで」
フェギスノーラは、きょとんとした顔で瞬きをした。
「『お前』じゃない。俺の名前を」
一度、息を吸う。
「俺は、エルドウルフ。
エルドウルフ=アンドレース・ド・シュバリエだ」
ほんの一瞬、胸の奥で何かが張りつめた。
――呼ばれたら、何かが起きる。
そんな確信にも似た期待があった。
フェギスノーラは、嬉しそうに微笑んだ。
「エルドウルフ」
それだけだった。
あっさりと。
風に乗せるように、何の引っかかりもなく。
胸の奥で、力が抜けた。
――もっと、何かあると思っていた。
魂の奥に触れるような。
世界が少し揺れるような。
そんな“何か”を、勝手に期待していた。
胸の中に残った空白を、どう扱えば良いかわからなかった。
そのままにしておくしか無かった。
「私はフェギスノーラ。破壊と再生を司る神」
繋いだ左手はそのままに、
空いた右手が、自然に彼の背に回される。
距離が、ぐっと近づいた。
「エルドウルフ。良い名」
そう言って、悪びれもなく続ける。
「――厚い胸、とても逞しい」
胸の奥が、わずかに軋んだ。
褒められているはずなのに、
どこか、誰かと比べられているような感覚がした。
「エルドウルフは、マナが強い。とても大きい」
フェギスノーラは、少し困ったように言った。
「でも、加減を知らない。あのままだと……壊れてしまうところだった」
ほんの一拍、間を置く。
「……もう、しないで」
だから、止めてくれたのか。
『間に合って良かった』と、そう言っていたのか。
胸の奥に、静かに落ちる。
「わかった。気をつける」
短く答えた。
それ以上、何か言えば、声が揺れそうだった。
胸に埋めていた顔を上げると、
向けられた笑顔が、あまりにも眩しい。
直視できず、思わず視線を逸らした。
――神さまのはずなのに。
その笑顔は、あまりに人のものだった。
さっき唇に触れた時の彼女は、今ここにいるフェギスノーラだった。
体温も、呼吸も、腕の中の重みも、確かに現実のものだ。
だが――
夢の中で、胸に頬を寄せてきたときの表情は、それとは違っていた。
懐かしさに似た感情。
胸の奥を静かに締めつける、理由のわからない親密さ。
それは、目の前の彼女と重なりながらも、どこか別の存在のように思えた。
成人した女神の姿。
月の名を持つ、もうひとつの顔。
それでも、なぜか――同じだと、直感してしまう。
説明のつかない感覚が、胸の内に残る。
「闘神フェギスノーラは……月神フェルスジークなのか?」
昨日、夢の中で呼んだ神の名を、確かめるように口にした。
フェギスノーラは、すぐには答えなかった。
繋いだ手に、ほんのわずかな力がこもる。
「……月神も、私」
視線が、少しだけ逸れる。
「でも、私は……夢に干渉する力は、ない」
言葉の端が、わずかに揺れた。
「神は、一つの姿だけじゃないことがある。
同じ存在が、違う役目を持つこともある」
フェギスノーラは空を見るふりをして、言葉を選んだ。
「それを決めるのは……父。創造神」
その名を出した瞬間、
それ以上は踏み込ませない、
という意思を示すように、
フェギスノーラは口を閉ざした。
「……マナの渡し方、あれは?」
沈黙に抗うように、エルドウルフは問いを継いだ。
足下には、白い薄雲が静かに広がり、
澄んだ高空の風が、フェギスノーラの群青の髪を揺らした。
「マナは……生きているものにある」
短い言葉のあとに、わずかな間が置かれる。
「天界は――マナで満ちている。
羽で受け取る。羽の数で、使える量が決まる」
創造神は十枚羽。
生命の女神は八枚羽。
その子らは六枚、さらに四枚、二枚――役割に応じて。
「でも、人界では――命あるものからしか、マナを得られない」
視線は、雲の裂け目の向こうへ落ちる。
春の色が、遠い大地に淡くにじんでいた。
「最初にマナをくれて――七回、死なせた」
数を口にしたところで、ほんの一瞬、声がかすかに止まる。
「必要な分だけ、受け取った」
それ以上は説明せず、ただ遠い地平を見つめた。
「それに……――言われたから」
言葉の続きを探すように、わずかに唇が動く。
だが、音にはならない。
手の力が、ほんのわずかに強まる。
その震えが、動揺だけを正直に伝えていた。
高空の静けさの中で、言葉はそこで途切れた。
語られなかった想いだけが、雲の下へ沈んでいくようだった。
視線を上げ、フェギスノーラは肩をわずかに震わせた。
声は途切れがちで、言葉を探すようだった。
「……力、使わなくても……居るだけで……私、マナ、必要で」
渡り鳥の隊列がゆるやかに空を横切っていた。
「だめ……だから……枷、かけた」
視線は下の景色を追う。
言葉は途切れ、息がわずかに詰まる。
――私は、マナを、ただ一人からしか得ない。
大切に思う人だけ。
その人のくれた“証”と、マナを交換する。
「……証? 交換?」
胸の奥が、風に揺れる葉のように微かに波打つ。
意味は完全には掴めない。それでも、ざわめきだけが広がった。
「理……変えた。――変えて、結び直した」
拙い声が、重く胸に落ちる。
「あなたから……――エルドウルフだけ」
その言葉と同時に、ほんの数十秒前の感覚がよみがえった。
――唇に触れた、あのわずかな温もり。
それだけで、フェギスノーラのマナが満たされたことが、今になって腑に落ちる。
理由は理屈では説明できない。
ただ胸の奥で、何かが静かに動き出した感覚だけが、確かに残っていた。
赤らむ顔を隠すように、エルドウルフはそっと腕を回した。
真ん中の羽が、はたはたと小さく揺れる。
その微かな振動が胸に伝わり、温かさがじんわりと滲んだ。
理由はわからない。
ただ、自然と視線が彼女を追い、
腕がほんの少しだけ強く回る。
――助けられた。
戦争を終わらせてくれた。
それ以上に、
自分を“必要だ”と言われた。
その重みが、胸の奥に静かに沈んでいく。
恋なのか、救済なのか、
それとももっと別の何かなのか――
エルドウルフ自身にも、まだ判別がつかなかった。
「神さま……」
言葉の続きが、喉の奥で詰まった。
理屈ではない衝動が、胸の内側からせり上がる。
「……キス、したい」
その言葉を口にした瞬間、
自分でも早すぎるとわかった。
それでも、もう止められなかった。
けれど、フェギスノーラはわずかに身を引いた。
小さく首を振る。
「……今は、いらない」
声は淡々としていた。
拒絶ではない。ただ、必要がない、というだけの言い方。
胸に灯った熱が、行き場を失って宙に散る。
――拒まれたのではない。
だが、満たされることもなかった。
その曖昧さが、かえって胸に残った。
「……皆が心配しているから、――戻ろうか」
言葉は落ち着いていたが、
内側では、感情の整理がまるで追いついていなかった。
「承」
フェギスノーラは、何も知らないように微笑った。
次話は、数日以内の更新を予定しています。




