第56話 〜国の形が変わるところまで〜
同盟国を落とす。
王太子は、それを“予定”と呼んだ。
「……南の件は片付いた」
空気が一瞬だけ変わった。
エランもゴディエも反応しない。
だが、アンリとフーガの視線がわずかに動く。
エルドウルフだけが、表情を変えなかった。
「そうですか」
短い返答。
マティスは苦笑した。
「随分と淡泊だな。お前が頼んできた仕事だぞ」
フーガが小さく息を吐いた。
アンリも同様だ。
エルドウルフは水差しを持ち、静かにグラスへ注いだ。
「報告は受けています。早かったですね」
「急がされたからな」
マティスの声は低い。
「セルリア終戦と同時に、南の貴族が動揺した。尻尾を掴むには最適の機会だった。独立か、セルリアへの身売り。どちらに転んでも王家を揺らせると踏んだのだろう」
グラスが卓に置かれる音。
ゴディエが静かに言う。
「二月の二正面衝突で、王国は国家転覆寸前でした。そして、王家は把握していなかった」
マティスの言葉は重かった。
「……だからお前は、私に密書を送ったのだな」
部屋が静まり返る。
エルドウルフは答えない。
マティスが続ける。
「セルリアの侵攻が“早すぎる”と。偶発ではない可能性がある、と」
フーガが視線を伏せた。
アンリが小さく息を吐く。
「まさか本当に裏切りが出るとは思っていなかった」
マティスは肩を竦める。
「私も半信半疑だった。だが結果は見ての通りだ」
マティスは右手の指を回した。
「処分は終わっている。名も、家も、残らん」
短い沈黙が落ちる。
誰もグラスに手を伸ばさなかった。
エルドウルフが初めて視線を上げた。
「助かりました、叔父上」
「礼は不要だ。お前の密書がなければ間に合わなかった」
マティスはグラスを傾ける。
窓からの光が水面に揺れた。
「北へ向かう前日だったな」
誰も動かない。
「遺書のような文だった」
アンリが小さく目を細めた。
フーガの肩がわずかに揺れる。
エルドウルフは笑った。
「保険です」
「保険、だと?」
「ミッドガロンを止められなかった場合、王国は確実に崩れます」
あまりに静かな声だった。
「せめて南だけでも片付いていれば、国は延命できる」
マティスは息を止めた。
この青年は、最初から――
死ぬ前提で北へ向かったのだ。
沈黙が長く続いたあと。
マティスは低く呟く。
「……やめたのだな」
エルドウルフは目を細める。
「何をです?」
「死ぬ覚悟だ」
一瞬だけ。
ほんの一瞬だけ、空気が揺れた。
だが、エルドウルフは笑った。
「ええ。予定変更です」
ゴディエが小さく息を吐いた。
エランの口元がわずかに緩む。
「今は死ぬ気はありません」
その声は、穏やかで確信に満ちていた。
ルーソルが、そこでようやく息を吐いた。
誰にも聞こえないほど小さく、けれど長い息だった。
マティスはしばらく黙っていた。
やがて低く言う。
「では、次は何をする」
静かな問いだった。
だが室内の全員が、その意味を理解していた。
――ここからが本題だ。
エルドウルフは椅子の背に体を預けた。
「兄上方には、しばらく動いていただきます」
マティスの眉がわずかに動く。
「ほう」
「王都の貴族は揺れている。ですが、まだ決定打が足りない」
ゴディエが続ける。
「今はまだ、様子を見ている者が大半です。ですが、殿下の不在が長引けば、第一王子・第二王子の勢力が勢いづく余地はある」
ルーソルが、静かにカップを置いた。
「彼らは、兄上方に勝ってほしいわけではありません。勝てる者につきたいだけです」
エランが静かに補足した。
「貴族たちは、見極めているのでしょう。これから数か月、殿下が何を成し、どこまで王都を動かせるのかを」
マティスは鼻で笑う。
「悠長だな。叩くなら今ではないのか」
エルドウルフは首を振った。
「今動けば内戦になります」
空気が、固まった。
「それは最も愚かな選択です」
室内が静まる。
「王国を割るのは最後でいい。外を片付けてからでも遅くありません」
マティスはゆっくり指を組んだ。
「外、か」
エルドウルフは頷いた。
閉じられた窓の向こうでは、風が木々を揺らしている。
だが、その音は厚い硝子に遮られ、この部屋へは届かない。
重い沈黙だけが、卓の上へ静かに積もっていた。
「まず――ハンサン王国を落とします」
マティスの指が止まった。
「……何と言った?」
「来年の初めまでには、終わらせます」
フーガもアンリも表情を変えない。
聞き慣れた口調だった。
マティスだけが言葉を失っていた。
「同盟国だぞ」
「ええ」
エルドウルフは指一本動かさなかった。
「正気か」
エルドウルフは穏やかに答える。
「同盟は“対ミッドガロン防壁”として必要でした」
グラスの水面が揺れる。
「ですが、防壁は内側から崩れます」
マティスの目が細くなる。
「……内部に問題があると?」
「王家が弱い」
即答だった。
「貴族が割れ、軍が分裂し、王権が統制できていない」
ゴディエが静かに言う。
「防衛線として不安定すぎます」
エランが続ける。
「いずれミッドガロンに崩されます」
エルドウルフが結論を置いた。
「ならば、先にこちらが取り込みます」
マティスは完全に言葉を失っていた。
この青年は、同盟国を落とす話をしている。
それも――
まるで治水工事の予定でも語るように。
「ミッドガロンは脅威です。兄上方より、ずっと」
エルドウルフは真っ直ぐマティスを見る。
「戦は長引かせません。兵も民も消耗させない」
沈黙が落ちた。
マティスの眉が動く。
「どうやってだ」
マティスの問いに、エルドウルフは静かに頷いた。
「ご説明します」
エランが卓上へ一枚の地図を広げる。
室内の空気が変わった。
◇◇
――一刻後。
地図の上には幾本もの線が引かれていた。
マティスは長く息を吐く。
「……なるほど」
誰も口を開かない。
「確かに、それならハンサンは落ちる」
その声に、迷いはなかった。
「そしてミッドガロンとの防衛線は、今より北へ移る」
マティスは黙った。
この青年は願望を語っていない。
終わった後の話をしている。
「……お前は」
低い声だった。
「本当に来年の話をしているのか」
「ええ」
エルドウルフは頷いた。
「その次は、東から南へ。不安定な小国群を、こちらの防衛圏へ組み込みます」
アンリが小さく息を吐いた。
フーガが口元を押さえる。
マティスだけが動けなかった。
「……エルドウルフ」
声が低くなる。
「どこまで見るつもりだ」
問いは、責めるものではなかった。
確認だった。
エルドウルフはすぐには答えなかった。
卓上の地図を見ている。
ハンサン。
ミッドガロン。
東から南へ続く不安定な小国群。
そして、その内側にあるシュバリエ王国。
それらをひとつずつ眺めてから、ようやく顔を上げた。
口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
「国の形が変わるところまで」
誰も、すぐには声を出せなかった。
マティスはゆっくり息を吐いた。
――ミレーヌよ。
お前の息子は。
想像以上だ。
マティスはしばらく黙っていた。
先ほどまで語られていたのは、戦の話だったはずだ。
防衛線、周辺国、王都の派閥。
すべては“今”の話だった。
だが目の前の青年は、もう次を見ている。
戦の勝敗ではない。
王位の行方でもない。
国そのものが、別の形へ移る未来を見ている。
視線が、自然とルーソル、エランとゴディエへ流れる。
三人は表情を崩さない。
驚いていない。
つまり――すでに聞いている。
マティスはゆっくり指先で机を叩いた。
「……話が飛ぶな」
「飛んでおりません」
即答だった。
「戦の準備は、戦の前に始まります。国の準備も同じです」
その声音は穏やかで、どこまでも理知的だった。
「国を大きくするなら、戦より先に人材が要ります」
アンリがわずかに口元を緩め、フーガが肩を竦める。
この流れを知っている顔だ。
「貴族だけでは足りません」
エルドウルフは続ける。
「行政、土木、衛生、交易、学問。戦が終わった後、それを担う者たちです」
マティスの眉がわずかに動いた。
戦の話をしていたはずだ。
なのに――この男はもう“戦後”を語っている。
「勝ってから集めるのでは遅い。勝った瞬間から、土地も人も動き出します」
静かな声だった。
だが、その場の全員が聞き逃さなかった。
「叔父上。ロワールの学舎と人脈を動かしてください」
初めて、はっきりと頼んだ。
「貸してほしいのは、今いる者だけではありません。人を選び、学ばせ、使える形にする仕組みです」
マティスの目が細くなる。
「ロワールに、王国のための人材を育てろと?」
「はい」
エルドウルフは迷わず頷いた。
「まずはクワルノーで受け入れます。実地を与え、行政と土木と衛生を覚えさせる。その後、必要な場所へ回します」
部屋が静まり返る。
戦の支援ではない。
政の支援でもない。
これは――国の背骨を作るための要請だった。
「貴族の子弟に限りません。平民でも構いません。読み書きができる者。数字に強い者。地形を読める者。物を運ぶ流れを理解できる者。才能のある者を、早急に集めたい」
マティスはゆっくりと息を吐いた。
「……欲張りだな」
「ええ」
否定しない。
「戦も国も、同時に欲しい」
沈黙。
マティスは小さく笑った。
「ミレーヌによく似ている」
誰にも聞こえないほどの声だった。
やがて顔を上げる。
「ロワールに戻り次第、始めよう」
短い返答。
だが重みは十分だった。
エルドウルフは、ほんのわずかに口角を上げた。
「心強い。頼りにしております、叔父上」
室内の空気が、ゆっくりと動き出した。
――会談は、そこで一区切りを迎えた。
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