第55話 〜戦の次の話〜
この日、王太子は戦の話をしていた。
だが本当は、国の未来を設計していた。
応接室。
扉が開く音は、思ったよりも小さかった。
それでも室内の全員が同時に顔を上げる。
ロワール太公マティスが入室する。
五十を越えた今も肩は厚い。
戦場を離れて久しいはずなのに、長年国防を預かってきた武人の面影が、その姿勢には今も残っていた。
重い外套が揺れ、杖の先が石床を一度だけ叩いた。
エルドウルフは一歩前へ出た。
迷いのない距離、迷いのない歩幅。
「叔父殿、遠路ご苦労でした。クワルノーの接遇に不足はありませんでしたか」
マティスの視線がゆっくりと下から上へ上がる。
靴、外套、肩、顔。
「王太子殿下にご挨拶申し上げる。ロワールの者にまで過分なお心遣いを賜り、恐悦至極に存じます」
形式通りの礼。
椅子が引かれる音が、やけに大きく響いた。
全員が着席する。
誰もすぐには話さない。
衣擦れだけが小さく続く。
やがてマティスが椅子にもたれ、長く息を吐いた。
「何が静養だ」
その一言に、礼の形だけでは隠しきれない呆れが滲んでいた。
「日に焼けたな。王都にいた頃より、よほど外を歩いている顔だ」
低い声に、わずかな呆れが混じる。
「誰が信じるか。お前は静養に来たのではなく、仕事場を移しただけだろう」
短い沈黙。
アンリが肩を震わせる。
フーガが口元を押さえ、とうとう吹き出した。
笑ってよい空気なのか、まだ判断できないルーソルが小さく咳払いを入れて均衡を戻す。
「否定はしません」
「しろ。建前くらい守れ」
「叔父上には、もう必要ないでしょう」
少しだけ間が落ちた。
「いくつか、進みました」
「確かにな」
じろり、と視線が刺さる。
「壁を作り、街を整え、人を動かし、製鉄の準備を始めたと聞いた」
「報告が早いですね」
エルドウルフの声は穏やかだった。
だが、笑ってはいない。
雑談の形をしているだけだった。
「早馬を何だと思っている」
マティスが小さく笑う。
「……お前は昔から、止まらんな」
言葉のあとに、わずかな沈黙が落ちた。
マティスの視線が、ゆっくりと腹心たちへ向く。
一人ずつ、順番に。
逃げ場のない確認だった。
「で? 誰が止め役だ」
間を置かず、ゴディエが答えた。
「不在です」
即答だった。
エランが頷く。
「全員加担しています」
ルーソルが苦笑する。
「諦めました」
マティスは天井を仰いだ。
「やはりか……」
深い吐息。
そのまま視線が戻る。
空気が変わった。
「表向き、王都は静かだ」
誰も動かない。
「三ヶ月待て。そう言って寄越したのはお前だ」
かつてフーガを通して預けた伝言。
それを、マティスは忘れていなかった。
「期日だ。だから来た」
エルドウルフの瞳が、わずかに細くなる。
表情は変わらない。
「承知しています」
「なら話は早い」
マティスが前へ身を乗り出す。
卓に置かれた指が、わずかに力を帯びる。
「どこまで進めた?」
沈黙。
呼吸すら聞こえそうな間。
「想定より、少し先まで」
軽い。
あまりにも軽い返答。
太公の口元がわずかに歪んだ。
「……やはり来て正解だったな」
指先が卓を軽く叩く。
乾いた音。
「まず王都だ」
誰も口を挟まない。
「貴族は揺れている。だが――動いてはいない」
マティスはそこで一度、杯を置いた。
「お前が王太子であることと、次の王として支持することは別だ。第一王子は健在。第二王子もいる」
アンリが小さく息を吐く。
フーガが腕を組む。
「日和見が大半だ。第一王子派が勢いづく兆しはない。だが、王太子派へ雪崩れ込むほどでもない」
短い沈黙。
「帰る場所は守っている」
マティスの声が、わずかに低くなった。
「だが、お前が何かを成すまで、こちらから無理に動かすつもりはない」
エルドウルフは眉一つ動かさない。
「代わりに、先に動いたのは地方だ」
「どこです」
即答だった。
「北と西。特にリモージュ公爵領周辺」
フーガの目が細くなる。
「……早いな」
「辺境は戦場を見ている。王都より現実が近い」
マティスは静かに続けた。
「お前が何をしたかを知っている。少なくとも、王都の連中よりはな」
室内の空気が、ゆっくりと締まっていく。
エルドウルフは小さく頷いた。
「外交は?」
「セルリアとは偶発的衝突という建前で収めた。相互補償なし。これ以上燃やす気はない」
ゴディエが肩を落とす。
「助かるな、それは」
「ハンサンとミッドガロンは捕虜交換。一時停戦状態だ」
ルーソルが口を開く。
「防衛線は」
「アルマー渓谷、で落ち着いた」
エルドウルフは小さく頷く。
「それで十分です」
そこで初めて、太公が真正面からエルドウルフを見る。
「つまり――今が“静かな時間”だ」
水で割った白葡萄酒に口をつける。
「だが長くは続かん」
エルドウルフの指が、机の上で止まった。
「王都はまだ決めていない。
だが地方は、決め始めている」
低い声。
「次に動くのは、王都だ」
静寂。
「なら、間に合わせます」
迷いのない即答だった。
太公の口元が、ほんのわずかに上がる。
「そう言うと思った」
マティスはエルドウルフの自信ありげな表情を、しばらく黙って見つめていた。
若さゆえの強がりではない。
根拠のある余裕。
深く、ゆっくりと息を吐く。
王都では、クワルノーはいまだ保養地として語られている。
広いだけの、王家の管理地。
王太子が静養するには都合がよい場所。
だが、ここへ来る道中で見た第二城壁は、その認識をあっさり覆した。
「昔、一度この城に来たことがあったが――二番目の城壁は低かったはずだ。中央に黙って、よくここまで建てたものだ」
声は穏やかだ。
だが視線は鋭い。
マティスは静養の様子を見に来たのではない。
言いながら、ほんのわずかに顎を動かす。
エランとゴディエへ向けられた、探るような視線。
賞賛にも、牽制にも聞こえる。
室内の温度が、一段下がった。
「恐れながら、義父上殿の記憶違いでは」
エランが涼しい顔で嘯く。
椅子の背に軽く体を預け、微笑すら浮かべている。
「そこまで耄碌してはおらん」
即座の返答。
声は低く、乾いている。
一瞬、空気が止まる。
アンリの指先が机の縁を軽く叩くのをやめる。
フーガの視線がわずかに動く。
エランはほんの少しだけ首を傾けた。
そして喉の奥で、低く笑う。
「失礼いたしました」
謝罪の言葉に、謝罪の色はない。
その軽さに、フーガが堪えきれず肩を震わせる。
ゴディエは視線を逸らし、口元を押さえた。
マティスも一瞬だけ目を細めた。
この場に他人はいない。
エルドウルフの幼少期からの付き合い。
血縁と戦場と、長い年月で築かれた遠慮のなさだった。
マティスは卓の脇に控える随員へ目を向ける。
「下がってよい」
書記と護衛騎士たちは静かに一礼し、足音を殺して退室した。
扉が閉まる。
だが。
その中心にいるエルドウルフだけは、微動だにしない。
指を組み、ただ静かに座っている。
軽口にも、牽制にも、乗らない。
マティスは指先で卓を、ことり、と一度叩いた。
音は小さい。
だが全員の視線が戻る。
わずかな沈黙。
そして声を落とす。
「……南の件は片付いた」
空気が、重く沈んだ。
誰もすぐには言葉を返さない。
エルドウルフだけが、静かに目を上げる。
「そうですか」
あまりにも淡泊な返答。
感情の色が、ない。
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