7章 同じ未来を見る(1)第53話 〜王太子の朝〜
王太子の朝は、戦よりも過酷かもしれない。
朝の光が、三階の寝室に細く差し込んでいた。
昼に近い光だった。
すでに城は目を覚ましている。
遠くで扉が開閉する音。
食器の触れ合う微かな音。
廊下を行き交う足音が、石壁に淡く反響している。
だが、この部屋だけはまだ夜の続きに取り残されていた。
灯りは、つい先ほどネレアが消していった。
その後、少しだけ眠った。
眠ったと言えるほど深くはない。
ただ、次に目を開けた時には、朝の光が少し強くなっていた。
寝台の上では、フィーラが完全に熟睡していた。
エルドウルフの肩に額を預け、本の端を握ったまま。
退かそうとした形跡はない。
正確には、退かそうと考えた時点で諦めた。
気持ちよさそうに寝ていたからだ。
白金の前髪は、いつもの整えられた王太子の姿ではなかった。
◇◇
扉の外。
アンリが扉を叩いた。
「起きてるかー」
返事はない。
もう一度。
「王太子ー」
静寂。
アンリは小さくため息をついた。
「――開けるぞ」
その瞬間。
横から、すっと手が伸びた。
「いけません」
ネレアだった。
「聖域です」
「いやいやいや」
アンリは額を押さえ、小声で抗議する。
「昼近いぞ。休日は終わった。もう直ぐロワール太公が来るんだぞ」
「承知しております」
ネレアは一歩も退かない。
「じゃあ起こせよ」
「起こしております」
「嘘つけ」
ネレアは微笑んだ。
「起きるべき時間には、起きます」
アンリは扉を見上げる。
「今がその時間だろ」
「もう少し後です」
「甘い」
「適切です」
ネレアは扉に背を向けたまま、アンリを通さぬように立っている。
手は取っ手に触れていないのに、そこに線が引かれているようだった。
アンリは小声で言う。
「……お前、どっちの味方だよ」
「殿下の味方です」
迷いなく答える。
「姫さまの味方だろ」
「両方です」
笑みだけが少し深くなった。
「ずるい」
ネレアの横、壁際に控える王太子付き執事、イザークが静かに口を開いた。
「現在、起床から着装完了まで七分四十秒を想定しております」
イザークは腕の銀盆へ視線を落としたまま答える。
アンリが目を細める。
「……何を想定してる」
「寝間着の脱衣に一分二十秒。整容に二分。寝癖の矯正に四十五秒。本日の外套は銀糸が多いため、留め具に一分三十秒。余裕を見て七分四十秒です」
淡々としている。
まるで兵站の報告のようだった。
アンリが呆れる。
「寝癖まで計算に入れてるのか」
「殿下は寝返りが少ないため、右側の跳ねのみ修正で済みます」
ネレアが頷く。
「今朝は、いつもの寝癖はありません」
イザークはわずかに目を細めた。
「では、七分に修正いたします」
「おい」
アンリが思わず声を上げる。
「本人はまだ寝てるぞ」
「存じております」
イザークは外套を整える。
「殿下は、起きた瞬間には王太子であらねばなりません」
少し置いて、
「遅延は、許容されません」
廊下に静寂が落ちる。
アンリは小さく息を吐いた。
「……お前、戦場に向いてるな」
イザークは首を横に振る。
「戦場は不確定要素が多すぎます」
そして、わずかに視線を上げた。
「私は、確定しているものの方が好みです」
ネレアは微笑んだ。
「殿下はご自身の疲労を申告なさいません。姫さまは眠気にお弱い。なら、止めるのは私の役目です」
「役目って言うな。お前、楽しんでるだろ」
「いいえ」
「目が笑ってる」
ネレアは、ほんの少しだけ声を落とした。
「……今朝、灯りを消した時も、殿下は姫さまを起こさぬよう動かずにおられました」
「は?」
「ですから、今日は」
ネレアは扉の前に立ったまま、静かに言った。
「外野は黙っていてください」
アンリは天井を仰ぎ、深く息を吐いた。
「……王太子って大変だな」
「ええ」
ネレアは頷く。
「とても」
◇◇
寝室の中。
最初に動いたのはフィーラだった。
まぶたがゆっくりと開く。
部屋は薄暗い。
閉じられたカーテンの隙間から差し込む細い朝の光だけが、寝台を淡く照らしていた。
その光の中で、白金の髪がきらりと輝く。
「……きれい」
小さく呟く。
昨日、自分が洗った髪だった。
少しだけ嬉しくなって、しばらく眺める。
それからようやく、その髪の持ち主を見る。
「……エルドウルフ」
近い。
どうしてだろう、と少し考える。
本。
音読。
眠くなった。
「……あ」
思い出した。
そのまま寝てしまったのだ。
視線を落とす。
本は落ちていなかった。
エルドウルフの手が、閉じたまま支えている。
昨日、買ってもらった本。
フィーラはそっと受け取り、しっかり胸へ抱えた。
「よかった」
満足そうに、小さく頷く。
「……重い」
低い声だった。
目は閉じたまま。
フィーラは首を傾げる。
「重い?」
「ああ」
少し考える。
「そうなんだ」
エルドウルフは小さく息を吐いた。
それ以上は何も言わない。
フィーラも動かなかった。
肩へ額を預けたまま、本を抱えている。
静かな時間が流れる。
その時だった。
扉の外で、控えめなノックが鳴る。
「殿下。お目覚めでいらっしゃいますか」
ネレアの声だった。
エルドウルフは小さく息を吐く。
「……入れ」
寝起きの鈍さは残っていた。
それでも、その声はもう王太子だった。
扉が静かに開く。
ネレアが一礼して入室する。
その後ろには、王太子付き執事イザークが控えていた。
腕には整然と衣装を載せた銀のトレー。
歩幅も姿勢も乱れがない。
「お着替えの準備が整っております」
エルドウルフは短く頷く。
「頼む」
フィーラはネレアを見て、小さく笑った。
「ネレア、おはよう」
「おはようございます、姫さま」
穏やかな声が返る。
フィーラが寝台を降りる。
エルドウルフはゆっくりと肩を回した。
痺れた感覚が残っていたが、表情は変えない。
ネレアはフィーラの肩へ外套を掛けながら口を開く。
「アンリ様が扉の外でお待ちです」
エルドウルフの目が、わずかに見開かれた。
「……助かった」
「当然でございます」
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