6章2幕(18) 第52話 〜読みかけの本〜
部屋の空気が落ち着いたあと、しばらく静けさが続いた。
窓の外は、すっかり夕暮れだった。
遠くで鐘が鳴る。
机の上には、リノンで買った三冊の本が置かれていた。
動物の本。神獣事典。薄い物語本。
フィーラがそれを見て、ふと呟く。
「きょう、いっぱい歩いたね」
「歩いたな」
「つかれた」
素直な声だった。
エルドウルフは少し笑った。
「飛んだ距離の方が長いだろ」
フィーラは考えてから頷く。
「それは大丈夫」
「そうか」
また静かになる。
やがて、フィーラが顔を上げた。
「おふろ」
「先に入れ」
「髪、洗う」
「そうだな。ネレアを呼べば――」
「エルドウルフの」
エルドウルフの言葉が止まった。
「……俺の?」
「うん」
「髪を?」
「うん」
「お前が?」
「うん」
フィーラは正面から見上げている。
金の瞳は真剣で、冗談を言っている様子はない。
だからこそ、エルドウルフは余計に返事に困った。
フィーラに含みがないことは分かる。
そこに妙な意味がないことも分かる。
だが、分かることと、すぐに受け入れられることは別だった。
「なぜ、急にそうなる」
ようやく出た声は、少し低かった。
フィーラは自分の髪先を触る。
「昨日、洗ってもらった」
「お前の髪をか」
「うん。サラとルイーズ、きれいって言ってた。ネレアも、丁寧にしてくれた」
フィーラは指先で、群青の髪をそっと撫でた。
「あったかかった。手、やさしかった。うれしかった」
それから、エルドウルフの白金の髪を見る。
「だから、エルドウルフのも、きれいにする」
エルドウルフは黙った。
昨日、フィーラは誰かに丁寧に扱われる心地よさを覚えた。
汚れを落とすだけではない。
きれいにしたいと願う手があることを知った。
そして今度は、自分が同じことをしたいのだ。
理屈としては分かる。
分かるが、そこに至るまでの距離が近すぎる。
「……髪だけだな」
「髪」
「湯には入らない」
「入らない」
「洗ったら終わりだ」
「うん。きれいにする」
即答だった。
エルドウルフは、しばらくフィーラを見下ろした。
金の瞳には、やはり含みがない。
ただ、覚えたばかりの大切なものを、自分にも渡そうとしている顔だった。
エルドウルフは小さく息を吐く。
「分かった」
フィーラの顔が明るくなる。
「きれいにする」
「ああ。任せる」
任せる。
その言葉を、フィーラはちゃんと受け取った。
満足そうに頷き、少し背筋を伸ばす。
大事な仕事を預かった顔だった。
◇◇
浴室には、やわらかな湯気が満ちていた。
エルドウルフは浴槽の縁に後頭部を預け、目を閉じている。
白金の髪だけが、浴槽の外へさらりと流れていた。
その後ろで、フィーラは小さな踏み台に立ち、桶を両手で抱えている。
「うごかないで」
「分かってる」
ぱしゃ、と水音がした。
温かい湯が、白金の髪へゆっくり流れる。
髪が濡れ、湯気の中で淡く光った。
「きれい」
「まだ洗っていないだろ」
「ぬれても、きれい」
迷いのない声だった。
エルドウルフは目を閉じたまま、答えなかった。
フィーラは小さな器から泡をすくい、指先で髪へ広げる。
手つきは拙い。
けれど、乱暴ではなかった。
「♪ かぜがふいて くもがながれて
おひさま おやすみ またあした」
小さな歌声が、湯気の中に落ちる。
指が髪に入る。
泡がゆっくり広がった。
「やわらかい」
「そうか」
「わたしの髪より、やわらかい」
「……そうか」
返事は短い。
けれど、止める声ではなかった。
フィーラは耳の後ろから首の後ろまで、懸命に指を動かす。
髪を洗うというより、預かったものを大事に扱おうとしている手つきだった。
「もう洗えている」
「まだ」
「フィーラ」
「きれいにする」
短い返事は、妙に真剣だった。
エルドウルフは小さく息を吐いた。
それ以上は何も言わなかった。
「♪ ほしがひとつ ふたつ みっつ
よるは やさしく ひかってる」
やがて湯が流れ、泡が白金の髪からほどけていく。
「きれい」
満足げな声が落ちた。
「終わりか」
「うん」
エルドウルフはゆっくり目を開ける。
「長かった」
「きれいになった」
即答だった。
エルドウルフは少しだけ笑った。
「そうだな」
湯気の中、白金の髪がしっとりと光っている。
フィーラはそれを見て、満足そうに頷いた。
「水、のむ?」
「ああ」
フィーラは水差しへ向かい、杯に水を注いだ。
エルドウルフはそれを受け取る。
「ありがとう」
「うん」
フィーラは嬉しそうに頷いた。
◇◇
フィーラは絵本ならすらすら読めるようになっていたが、小説は読み始めたばかりで、まだ少し難しい。
「おうじさまは……まおうの、しろへ……」
少し止まる。
「――むかった」
隣で横になっていたエルドウルフが、静かに口を挟む。
「“向かった”は、もう少し短く読む」
フィーラは頷いた。
「むかった」
言い直して、満足そうに続きを読む。
ページが進むたび、声は少しずつ滑らかになっていく。
王子が剣を取り、姫を助けるため魔王へ向かう――どこにでもある物語だった。
しばらくして、フィーラが顔を上げる。
「王子様、エルドウルフみたい」
「まあ、王子だからな」
短い沈黙。
フィーラは本を胸に抱えたまま笑う。
「かっこいいね」
「そうか?」
「いちばん、かっこいい」
言い終わるころには、声は少し眠そうだった。
まぶたがゆっくり落ちていく。
本が傾き、肩が寄る。
ぺたり、と体重が預けられた。
しばらくして、呼吸が静かに整う。
エルドウルフは動かなかった。
落ちかけた本を片手で支え、そっと閉じる。
灯りはついたままだった。
今動けば、起こす。
そう思って、身じろぎをやめる。
昨日から、あまり眠れていない。
少しだけ休むつもりだった。
静かな寝息が近くにある。
紙の匂いと、湯上がりの髪の匂いが、ゆっくり混ざる。
それでも、眠ることはできなかった。
◇◇
朝の光が、まだ薄く差し込んでいた。
寝台の端には、閉じかけの本。
その横で、フィーラは本を胸に抱えたまま眠っている。
エルドウルフは、彼女を起こさぬように身動きを止めていた。
灯りは、昨夜のままついている。
いつもの起床の刻限になり、扉が静かに叩かれた。
「殿下。お目覚めでいらっしゃいますか」
ネレアの声だった。
返事はない。
少しして、扉が静かに開く。
「失礼いたします」
室内を一瞥し、ネレアはすぐに状況を理解した。
ついたままの灯り。
落ちかけた本。
ぐっすり眠るフィーラ。
その肩を支えている王太子。
ネレアは音を立てずに歩み寄り、まず灯りを消した。
それから、フィーラの頬にかかった髪をそっと整える。
その手つきは、眠りを乱さぬよう、どこまでも慎重だった。
エルドウルフの瞼が、わずかに動く。
ネレアはそれを見て、静かに目を伏せた。
「……お休みになられておりませんね」
エルドウルフは目を開けないまま答えた。
「……動けば起きる」
ネレアは眠るフィーラへ視線を移した。
安らかな寝顔を見つめてから、静かに口を開く。
「本日は午前中、急ぎのご予定はございません」
エルドウルフは静かに息を吐いた。
「……少しだけ」
「かしこまりました」
ネレアは深く一礼する。
静かに扉が閉まる。
部屋には、朝の光と穏やかな静けさだけが残った。
次回新章から通常投稿に戻ります
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