6章2幕(17)第51話 〜神を生かす理〜
フィーラが手を引いた。
「つぎ、いこ」
噴水の音を背に、二人は人通りの少ない路地へ入った。
石壁に囲まれた小さな中庭だった。
「いくよ」
「ああ」
次の瞬間、足元が消えた。
石畳が離れ、屋根が下へ流れていく。
ネルマの赤い屋根の海が、少しずつ小さくなった。
エルドウルフは小さく息を吐く。
もう驚かない。
少しだけ慣れた。
「次は?」
風の中で問う。
「本が欲しい」
短い答えだった。
「だったら――」
高度が上がる。
街の色が淡くなり、ざわめきが遠ざかる。
ネルマはやがて地平の向こうへ沈んだ。
その後は空だった。
雲と風。遥か下を流れていく森と街道。
ときおり小さな村が見える。
馬なら何日もかかる距離を、二人は音もなく越えていった。
太陽は少しずつ西へ傾く。
空の色が変わる。
そして。
石造りの大きな街が見えてきた。
城壁。白い塔。整然と広がる街並み。
――王都・リノン。
石造りの街並みが静かに広がる。
通りは整い、建物の色も落ち着いていた。
人の声はある。
けれどネルマの市場のような呼び込みではない。
低く交わされる会話と、石畳を踏む靴音。
遠くで馬車の車輪が鳴っている。
「……しずか」
フィーラが小さく言った。
「学問区だ。書店と学院が多い」
エルドウルフはフードを少し深く被る。
この辺りは城の目に近い。
並ぶ看板のひとつを指す。
扉を開けると、小さな鈴が鳴った。
外の音が遠ざかり、紙の匂いが満ちる。
棚の奥で、誰かが頁をめくる音がした。
壁一面の本棚。
高い梯子。
窓から落ちる柔らかな光。
フィーラは入り口で立ち止まったまま、しばらく動かなかった。
「……いっぱい」
小さく呟く。
「好きなものを選べ」
エルドウルフは短く言った。
「全部読めるわけじゃないだろ」
「うん」
素直に頷く。
それでも棚へ向かう足取りは迷いがない。
最初に手に取ったのは、薄い本だった。
動物の絵が描かれている。
「……かわいい」
ページを開く。
ゆっくり、文字を追う。
「読めるか?」
「ゆっくりなら」
真剣な顔。
ページをめくる指がとても丁寧だった。
子供が膝に乗せて読むような本。
角が丸く、紙が厚い。
「これ、すき」
「買う」
即答だった。
フィーラが顔を上げる。
「え」
「迷うな」
それだけ言って棚へ視線を戻す。
フィーラは少しだけ止まり、そして小さく笑い頷いた。本を胸に抱える。
しばらく歩いて、足が止まる。
高い棚の下段。
厚い本が一冊だけ、重そうに置かれていた。
深い紺色の装丁。金の文字。
『世界神獣大全』
フィーラが首を傾げる。
「しんじゅう?」
エルドウルフが手に取りページをめくる。
巨大な鳥。
翼の生えた獅子。
角を持つ白い獣。
フィーラが息を止めた。
「……きれい」
小さく言う。
触れないように、ぎりぎりの距離で指が、紙の上の翼をなぞる。
どこか懐かしそうな顔だった。
エルドウルフはその表情に気づいたが、何も言わない。
「それも買うか」
フィーラがゆっくり頷く。
「ほしい」
短い返事だった。
棚を離れかけて、フィーラの足がまた止まった。
今度は小さな棚。
物語の本が並んでいる。
一冊だけ、表紙に目が留まる。
星空。王冠。黒い城。
『眠れない姫と夜の王』
フィーラが本を持ち上げた。
「これは、おはなし?」
表紙を見つめた。
「そうだろうな」
フィーラはしばらく考え、言った。
「ほしい」
「分かった」
会計の前。
三冊が並ぶ。
動物の本。
神獣事典。
物語の本。
店主が微笑む。
「贈り物ですか?」
エルドウルフは首を振った。
「自分たち用だ」
銀貨が静かに渡った。
外へ出ると、午後の光が柔らかかった。
フィーラは本を抱えて歩いている。
ぎゅっと、落とさないように。
少し歩いてから言った。
「よもうね」
「今日か?」
頷く。
少し考えてから続ける。
「いっしょに」
エルドウルフの口元がわずかに緩んだ。
「わかった」
「うん」
本を抱えたまま並んで歩く。
王都の静かな通りを、ゆっくりと進んでいった。
◇◇
リノンからクワルノーへ戻る空は、どこまでも高かった。
地上には、細い街道が伸びている。
川は陽を受けて白く光り、森の影がゆっくりと流れていた。
フィーラとエルドウルフは、手を繋いで空を渡っている。
指先が触れているだけで、二人の周りの空間はひとつに繋がる。
風は強いはずなのに、エルドウルフの体は落ちない。 ただ、白金の髪だけが、時折ふわりと揺れた。
しばらく、フィーラは何も言わなかった。
エルドウルフも急かさない。 地上を見下ろしたまま、隣にいる。
やがて、フィーラがぽつりと言った。
「昨日の血」
フィーラは繋いだ手を見た。
「あれ、多かったみたい」
「多かった?」
「うん。いつものは、ちょっとだけ」
言葉を探すように、フィーラはゆっくり続ける。
「エルドウルフから、ちょっとだけ、もらう。だから、だいじょうぶ」
「血は違ったのか」
「うん」
フィーラは眉を寄せた。
「血は、いのちに近かった」
風が、白金の髪を揺らす。
「わたし、ほんとうは、大勢のいのちからもらうものだった」
エルドウルフは黙って聞いていた。
「せんそうとかで人が死んで、めぐって、また生まれるもの」
拙い言葉だった。
けれど、意味は届いた。
神が力を動かすために、世界が差し出す代償。
戦場で失われ、マナとなり、巡り、やがて新しい命へ戻るもの。
それを、フィーラは受け取るはずだった。
「でも、むかし、だめって言われた。たくさんのひとの命、だめ」
フィーラの声が、少しだけ小さくなる。
「だから、エルドウルフだけにした」
エルドウルフは、地上を見下ろした。
川が光っている。
森の影がゆっくり流れ、街道が細く伸びている。
その途中に、小さな村がいくつも見えた。
人の暮らしだった。
そのすべてから差し出されるはずだった代償を、フィーラはエルドウルフひとりへ結び直したのだ。
「エルドウルフから、もらう。いつも、ちょっとずつ。くちびるが触れると、少しだけ」
フィーラは繋いでいない手の人差し指を、エルドウルフの唇に当てた。
「血では多すぎた?」
フィーラは小さく頷いた。
「うん。重かった。血は、エルドウルフの命に近かった」
繋いだ手に、ほんの少し力がこもる。
「だから、止まらなくなった」
少し遅れて、声が小さくなる。
「心配させて、ごめんね」
エルドウルフは、すぐには答えなかった。
ただ、遠くを見ていた。
クワルノーへ続く道。
畑。
屋根。
まだ名前も知らない人々の暮らし。
考える。
昨夜、フィーラのマナが制御を離れた理由。
自分の血が、彼女にとって重すぎる代償だったこと。
血を失った感覚はない。
傷が深かったわけでもない。
だがフィーラにとっては、あの一滴でさえ、戦場で失われる無数の命に匹敵する重さを持っていたのだろう。
そして、彼女を生かす理が、自分ひとりに結ばれていること。
考えて、考えて。
それから、エルドウルフは小さく笑った。
怒っていないと、分からせるためだけの笑みではなかった。
「フィーラ」
「うん」
「もうするな」
声は静かだった。
けれど、譲る余地はなかった。
フィーラは目を瞬く。
「おこってる?」
「怒っていない」
エルドウルフははっきり答えた。
「お前が悪いわけでもない」
「でも」
「だが、もうするな」
もう一度、同じ言葉を重ねる。
「俺が血を流しても、口を近づけるな」
フィーラは小さく息を止めた。
「でも、けが」
「俺は大丈夫だ」
短い言葉だった。
けれど、フィーラを安心させるためだけの声ではなかった。
「浅い傷なら、布で押さえればいい。深い傷なら、別の方法で止める。お前が触れる必要はない」
「……うん」
「約束しろ」
「やくそく」
フィーラは繋いだ手を見て、それからもう一度頷いた。
「もう、しない」
「ならいい」
エルドウルフはそう言って、前を向いた。
雲の切れ間から、クワルノーの方角へ光が落ちている。
風は冷たいのに、繋いだ手だけは温かかった。
その手を、離すつもりはない。
けれど、昨夜の光景は忘れられなかった。
ほんの少しの血だけで、あれだった。
ならば――。
取るべき答えは、もう決まっている。
フィーラに告げた言葉は、風の中で静かに形を変え、エルドウルフ自身の胸にも沈んでいった。
もうするな。
それは彼女への言葉であり、自分へ向けたものでもあった。
隣で飛ぶフィーラは、まだそれを知らない。
ただ、約束を守るように、繋いだ手を大事そうに握っていた。
クワルノー城の上空に戻ったころ、空はもう夕方の色だった。
昼の明るさが少しだけ薄れて、街の輪郭が柔らかくなる。
足が石床に触れた瞬間、重力が戻った。
フィーラが小さく息を吐く。
「ついた」
エルドウルフは一度だけ城壁の外を振り返った。
今日歩いた街は、もう見えない。
屋上には、アンリとネレアが待っていた。
灯りは最小限、階段口の向こうにも気配はない。
アンリは二人の顔を見て、何も茶化さなかった。
ただ、少しだけ口元を緩める。
「おかえり」
ネレアも一礼する。
「おかえりなさいませ」
その声音はやわらかかった。
フィーラの表情を見て、ほんの少しだけ微笑む。
ネレアはすぐにフィーラの旅装のマントへ手を伸ばした。
留め具を外し、あらかじめ用意してあった城内用の外套を肩へ掛ける。
軽く整え、襟元を指先で直す。
「お部屋へ参りましょう」
促され、二人は階段へ向かった。
その時間、階段にも三階の廊下にも、人の姿はなかった。
使用人の足音すら遠い。
完璧に人払いされている。
ネレアが先に立ち、扉の前で足を止めた。
開けるのは、彼女の役目だった。
静かに扉が開く。
――空気が違った。
朝とは違う、柔らかな光。
窓辺のカーテンが薄い色に変わっている。
寝具も整え直され、仮寝室の気配は消えていた。
本来の寝室として整えられた部屋だった。
フィーラの足が止まる。
ゆっくりと、部屋を見渡した。
枕。カーテン。小さなクッション。
淡い色の布が夕方の光を受けて、静かに揺れている。
整えられた寝台の脇には、花を挿した小瓶まで置かれていた。
「……きれい」
小さな声だった。
部屋の中を少し歩く。
指先でカーテンの端に触れ、今度は寝台の上のクッションをそっと押した。
「かわいい」
その声には、わずかに弾んだ色があった。
ネレアが静かに微笑む。
「サラとルイーズが整えました」
フィーラが振り返る。
「ふたりが?」
「ええ。姫さまに似合うようにと、朝からずっと張り切っておりました」
フィーラはもう一度、部屋を見渡した。
今度はさっきより、少し嬉しそうに。
「……かわいい」
今度は、はっきりそう言った。
街を歩いて戻ってきたばかりの頬には、まだ外気の明るさが残っている。
今日はよく笑い、よく見て、よく心を動かした一日だった。
そのやわらかく開いた感情のまま、この部屋も受け取っているのがネレアには分かった。
「お湯の支度は、いつでも整えられます」
ネレアは部屋の様子を確かめながら続ける。
「本日のお食事は、お部屋にお運びいたしましょうか」
フィーラは迷いなく言った。
「エルドウルフと一緒にいるの」
あまりにも無防備な言い方だった。
アンリが一瞬だけ視線を逸らし、口元を押さえる。
ネレアは何も言わない。
ただ、そのままエルドウルフへ視線を向けた。
エルドウルフはわずかに間を置いてから、短く答えた。
「ああ。部屋へ運べ」
「承知いたしました」
ネレアが一礼する。
アンリはそれ以上何も言わなかった。
ただ、「では俺はここで」とでも言いたげに軽く肩をすくめ、静かに身を引いた。
ネレアもまた、静かに一礼して退いた。
エルドウルフは何も言わず、部屋を一度見渡す。
そして短く言った。
「似合ってる」
部屋ではなく、彼女を見て。
フィーラが振り向き嬉しそうに頷いた。
窓の外では、日が沈み始めている。
フィーラはベッドの端に腰掛け、部屋をもう一度見渡した。
朝とは違う。
昼とも違う。
今日一日の終わりの部屋。
「エルドウルフ」
「ん?」
「ただいま」
一瞬、言葉が止まった。
「……ああ」
小さく息を吐いて言った。
「おかえり」
部屋の空気が、静かに落ち着いた。
六章2幕はイレギュラーで連続更新中
第52話は6/26に更新します
【新章七章 第53話から通常通り】
更新 月曜日/木曜日 20:00
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