6章2幕(15)第49話 〜色の街〜
空から見た街は、宝石箱みたいだった。
色のついた屋根。
川沿いに並ぶ荷車。
白く光る石畳。
広場へ向かって流れる人の群れ。
その中へ降りても、エルドウルフは彼女の手を離さなかった。
裏路地を抜けた瞬間、音が増えた。
呼び込み。
笑い声。
荷車の軋み。
水タバコと香辛料の匂いが混じり、
布を広げる音と硬貨の触れ合う音が重なる。
誰かが子供を呼ぶ声も聞こえた。
ネルマの市場は、朝から満ちていた。
人の波が、道いっぱいに動いている。
籠を抱えた女が横を抜け、果物を積んだ荷車が軋み、少年が焼き菓子の包みを抱えて走っていく。
フィーラが立ち止まった。
視線が止まらない。
布。果物。刺繍。硝子玉。小さな花飾り。
陽を受けてきらきら光る金具。
「……すごい」
小さな声が漏れる。
次の瞬間、フィーラは歩き出していた。
一歩、二歩。
目の前の屋台に近づこうとしただけだった。
けれど人の流れは早い。
肩と肩の隙間がすぐに閉じ、色と音が彼女をさらうように動いた。
その瞬間、手首が軽く引かれた。
「離れるな」
低い声。
エルドウルフは周囲を見たまま、手を離さない。
叱るでもない。
慌てるでもない。
ただ、人の流れの中でフィーラを自分の側へ戻し、そのまま歩き出す。
フィーラは自分の手を見た。
握られている。
少し考えてから、指を絡め直した。
エルドウルフの歩幅が、ほんの一瞬だけ止まる。
だが何も言わない。
「まいごになる?」
「そうだな」
「さらわれる?」
「あり得る」
フィーラはもう一度、絡めた指を見る。
「だから?」
「離れるな」
雑踏の中で、二人の歩幅が少しずつ揃っていく。
しばらく歩いたところで、フィーラの足が止まった。
「……あれ」
露店の端だった。
細い木枠に吊るされた、小さな糸飾りが風に揺れている。
花の形。
雫の形。
三角。円。葉。
細い糸が朝の光を拾い、色を変えながら揺れていた。
人の波が横を流れていく。
荷車の車輪が石畳を鳴らし、呼び込みの声が重なり、焼いた肉と香辛料の匂いがふわりと鼻先をかすめる。
その中で、フィーラの目だけが露店に吸い寄せられていた。
「エルドウルフ」
袖を引く。
「これ」
露店の上に並んでいたのは、色とりどりの針結びだった。
小さな糸の花が、耳飾りやスカーフの縁、細い紐飾りに縫い付けられている。
フィーラの目が、完全に見開いた。
「ちいさい」
一歩近づく。
「かわいい」
店主の女性が、目尻を下げて微笑んだ。
「手仕事だよ。全部ね」
フィーラは顔を近づける。
「これ、きぬ糸?」
「絹糸と銀糸さ。硝子玉を使っているものもあるよ」
店主はひとつを摘まみ、光にかざして見せた。
「針結びっていうんだ。針一本で糸を結んで、花や葉の形を作る。編むんじゃない。結ぶのさ」
「むすぶ」
「そう。結び目がそろわないと、花びらが歪む。緩すぎればほどけるし、強すぎれば糸が痩せる。小さいけど、気の長い仕事だよ」
フィーラの指先が、空中で止まる。
「さわっていい?」
「もちろん」
店主が頷く。
フィーラは、淡い青の小花をそっと指先で触れた。
触れた瞬間、表情が変わる。
「軽い……」
「絹糸だからね。つけても重くない」
フィーラは別の花を見る。
白。青。金。淡い緑。
赤い硝子玉を抱えた小さな実の形。
次の瞬間、顔がぱっと明るくなった。
「いっぱいある!」
声が弾む。
「これも。これも」
次々と手に取る。
色が増えていく。
青。
白。
金。
淡い緑。
月の色に近い銀。
夜明け前の空のような薄紫。
エルドウルフが腕を組んだ。
「選べ」
「むり」
即答だった。
「ぜんぶちがう」
真顔で言う。
店主が声を立てて笑った。
「いい目をしてるね、お嬢さん。これは同じ花でも、結び方が少しずつ違うんだよ」
「ちがう」
フィーラは頷いた。
「こっちは、丸い。こっちは、先が細い。こっちは、音が軽い」
「音?」
店主が不思議そうに瞬く。
フィーラは答えず、白金の小さな花を手に取った。
「これ、すごい」
「どれだ」
エルドウルフが覗き込む。
「これ」
細い白金の糸で結ばれた、小さな花だった。
花びらは五枚。
中心には、ごく小さな透明の硝子玉が入っている。
派手ではない。
だが近くで見ると、結び目が驚くほど細かい。
店主が少し誇らしそうに言った。
「それは時間がかかったね。糸が細いし、結びが多い。失敗すると最初からやり直しだ」
フィーラは真剣に頷く。
「わかる」
それから、手元の花飾りを見下ろした。
たくさんある。
欲しいものも、たくさんある。
腰の小さな巾着に手を伸ばしかけた、その時だった。
「いくらだ」
エルドウルフが静かに言った。
フィーラが顔を上げる。
店主も一瞬目を丸くし、それから並べられた飾りを見て、指を折り始めた。
「ええと、絹糸だけの小花が四つ。硝子玉つきが二つ。銀糸入りが三つ。白金糸の花が一つ……」
店主は少し考え、控えめに言った。
「全部で、銀貨八枚と銅貨二枚だね」
フィーラは瞬きをした。
高いのか安いのかは分からない。
けれど、そこで前の会話を思い出した。
――足りなければ俺が出す。
フィーラは少し考える。
そして結論だけ出した。
「……好きなもの、買う」
そう決めると、急に楽しくなった。
「エルドウルフ」
「何だ」
「俺が買う……って、いってくれてる」
確認するような、誇らしげな声だった。
エルドウルフはほんのわずかに目を細めた。
「似たようなことは言った」
「うれしい」
「まだ買ってない」
そう返しながら、エルドウルフは店主へ視線を戻す。
「銀貨八枚は高いな」
店主はにこりと笑った。
「お兄さん、見る目が厳しいね。白金糸の花が入っているんだよ。これは細い糸で、結びも多い。まけられないよ」
「わかる」
フィーラが真剣に頷く。
「結びが多い」
「そうなんだよ」
店主が思わず笑った。
「すごい。これは高い」
「ほら、お嬢さんは分かってくれてる」
「だが、まとめて買う」
エルドウルフは露店の上に並ぶ飾りを見た。
「絹糸の小花は四つで銅貨十二枚。硝子玉つきは二つで銀貨一枚。銀糸入りは三つで銀貨三枚。白金糸の花は銀貨二枚。合わせて銀貨七枚と銅貨二枚」
店主の笑みが少し深くなる。
「計算が早いね」
「さらに、まとめ買いだ」
「おや」
「銀貨六枚」
「それはさすがに泣くよ」
「では銀貨六枚と銅貨五枚」
店主は少しだけ考えるふりをした。
フィーラは、エルドウルフと店主を交互に見る。
値段が下がっている。
たぶん。
そういうことらしい。
「……やすく、なってる?」
「なってる」
エルドウルフが答える。
店主は楽しそうに笑った。
店主の女は、値を口にしかけてから、ふとエルドウルフを見た。
言葉が止まる。
それから、まじまじと顔を見てしまった。
「……あんた、お兄さん、ずいぶんいい男だね」
エルドウルフは何も言わない。
女店主はすぐに口元を上げた。
「その顔で商人だったら、稼げただろうに」
「商人ではない」
即答だった。
店主は吹き出した。
「だろうね。商人なら、もう少し愛想よく笑う」
エルドウルフは何も言わなかった。
店主は肩をすくめる。
「いいよ。銀貨六枚と銅貨五枚。こんなに嬉しそうに選んでくれたんだ。今日はそれで持っていきな」
フィーラの目が輝いた。
「ぜんぶ?」
「今、選んだ分だけだ」
エルドウルフが釘を刺す。
「ぜんぶ」
フィーラは小さく言い直した。
「選んだ分、ぜんぶ」
「ああ」
エルドウルフは銀貨を取り出し、店主に渡した。
フィーラは包まれていく小さな糸の花を、宝物を見るように見つめている。
店主は淡い蒼の糸で結ばれた小さな葉飾りをひとつ、包みの端へそっと添えた。
「これはおまけだよ」
店主は包みを結ぶ。
「大事にしておくれ」
市場の音は変わらず満ちている。
人が行き交い、荷車が軋み、どこかで笑い声が上がる。
その中で、フィーラは包まれた小さな糸の花を、大事そうに抱えていた。
露店を離れても、手はまだ繋がったままだった。
フィーラは包みを少し持ち上げる。
中で、糸飾りがかすかに揺れた。
「いっぱい」
「満足か」
「うん」
返事は早かった。
少し歩いてから、フィーラはもう一度、市場を見た。
布の色。
果物の匂い。
焼き菓子の甘い香り。
人の声と、笑い声と、荷車の音。
どれも軽い。
人間たちが動いている音だった。
「ネルマ、すき」
ぽつりと言う。
エルドウルフは人波を見渡した。
喧騒。色。匂い。雑多で、整っていない。
それでも街は生きている。
「……俺も嫌いじゃない」
そう言ってから、少しだけ間を置いた。
「結構、好きだ」
フィーラが顔を上げる。
そして、笑った。
今度は引かれない。
人の流れにさらわれそうになるたび、エルドウルフの手が少しだけ強くなる。
フィーラはそのたびに、指を絡め直した。
並んで歩く。
同じ速さで。
二人は、ネルマの光の中へ溶けていった。
お読みいただきありがとうございます。
『光を背負った王』は通常、毎週月曜日/木曜日の20時更新ですが、六章第二幕につきましては、少しだけイレギュラーにお届けいたします。
47話の余韻のまま読んでいただきたく、今週は更新日を増やします。
【六章第二幕 更新予定】
6/20(土)20時 第48話「休日の始まり」
6/22(月)20時 第49話「色の街」
6/24(水)20時 第50話「刺繍と噴水」
6/25(木)20時 第51話「神を生かす理」
6/26(金)20時 第52話
その後、6/29(月)より通常の月曜日/木曜日更新に戻ります。
六章第二幕も、どうぞよろしくお願いいたします。




