6章第2幕壊れて、近づく(14)第48話 〜休日の始まり〜
神が寝室を壊した翌朝、王太子は彼女の脈を測っていた。
カーテン越しの光はやわらかく、昨夜急ごしらえで整えられた三階の仮寝室を、どこかよそよそしく照らしている。四階の寝室に比べれば調度も少なく、整ってはいても、まだ人の気配が馴染んでいない。
エルドウルフはすでに起きていた。窓辺に立ち、外套を肩に掛けただけの姿で、昨夜よりは整っているものの、眠りが浅かった気配は隠せていない。
フィーラは寝台の端に寝そべったまま、じっと彼を見ていた。
「きょう」
小さな声が落ちる。
「やすみ」
エルドウルフは振り返り、短く「ああ」と答えた。そこで言葉は切れたが、沈黙は重くはなかった。ただ、互いに昨夜の続きを胸のどこかに残したまま、まだうまく触れられずにいるだけだった。
やがてエルドウルフが歩み寄る。
「……大丈夫か?」
最初に出たのは、それだった。
フィーラは瞬きをしてから、小さく頷く。
「だいじょうぶ」
「ほんとに?」
間髪入れずに重ねる声は、思った以上に固かった。
「頭痛とか、ない?」
「ない」
「気持ち悪くないか?」
「ない」
「ふらつかないか?」
そこまで聞かれて、フィーラはくすっと笑った。
「ないよ」
それでもエルドウルフはなお迷うように手を伸ばし、そっとその手首を取った。脈を確かめる指先は少しだけ固く、昨夜の緊張をまだ残している。けれど、脈は静かに打っていた。乱れてはいない。肩に触れてみても熱はなかった。
そこでようやく、エルドウルフの息が小さく抜ける。
「……よかった」
本音だった。
フィーラが首を傾げる。
「しんぱいしてた?」
エルドウルフは少しだけ目を逸らした。
「昨日、あれだけやらかしただろ」
ぶっきらぼうな言い方だったが、声は思いのほか柔らかい。
フィーラは少し考えてから、
「もう、へいき」
と答え、さらに続けた。
「ちゃんと飛べる」
エルドウルフの視線が戻る。
「……飛べる?」
「うん」
小さく頷く。
「どこでもいけるよ」
そして、静かな断言のように言った。
「こわれない」
エルドウルフはその言葉をすぐには返せず、しばらくフィーラを見つめた。
視線が揺れる。昨夜のことは、当然引っかかっている。
なぜ自分の血であそこまで力が暴れたのか。あの瞬間、フィーラの内側で何が起きたのか。
理由は、いずれ問わなければならない。
けれど、今はまだその時ではない。無事を確かめたばかりの朝に、すぐ答えを求める気にはなれなかったし、今日は約束した一日でもある。
エルドウルフは小さく息を吐いた。
「……そうか」
そのとき、扉が軽く叩かれた。
「殿下、お目覚めでいらっしゃいますか」
ネレアの声だった。
返事を待って扉が開くと、三階の空気が一瞬で引き締まる。その後ろには、サラとルイーズも控えていた。
二人の視線が、寝台の横で外套を羽織ったまま立つ王太子を捉えて、ぴたりと止まる。
声には出さない。だが、表情がすべてを語っていた。
ネレアは振り返りもせず、静かに言った。
「視線を落としなさい」
即座に下がる視線。
空気が整う。
「姫さま、本日は外出のご予定でございます。お支度を」
フィーラの目が少しだけ明るくなる。
「うん」
ネレアは一礼し、続けた。
「サラ、ルイーズ。姫さまの寝室の整えを命じます」
二人が同時に顔を上げた。
「昨夜、急ぎでお部屋を移しております。本日中に、殿下と姫さまが快適にお過ごしになれるよう整えなさい」
ネレアはそこで、ほんのわずかに間を置いた。
「全力で」
「はい!」
声が揃う。
ルイーズの目が、ぱっと輝いた。
サラも背筋を伸ばす。
昨夜は寝台と寝具を運び込んだだけの仮寝室だった。
そこへ今日中に、布を掛け、鏡を入れ、花を飾り、使い勝手まで整えなければならない。
姫さまに似合う部屋にする。
しかも、殿下までお過ごしになるのだ。
胸の奥で、使命感が一気に燃え上がる。
「私は姫さまのお支度をいたします。二人はリネン室と調度係へ。必要なものはその場で選び、足りなければ私の名で開けさせなさい」
「承知しました!」
今度はルイーズが一歩早く答え、サラがきっちり一礼する。
二人は弾かれたように部屋を出ていった。
廊下へ出た途端、ルイーズが小声で叫ぶ。
「寝室よ、寝室……!」
「声を落として」
サラが即座に制する。
「でも」
「分かってるわ。急ぎましょう」
サラの足取りはもう実務の速さだった。
ルイーズも頷き、今度は本当に走り出す。
扉が閉まる。
静けさが戻った。
ネレアは振り返り、穏やかに言った。
「では姫さま。お召し替えを」
エルドウルフは何も言わず、視線を外す。
支度の時間だと理解している。
こうして、ようやく今日が本当に始まった。
◇◇
朝の食堂には、腰高の窓から淡い日差しが差し込んでいた。
薄いカーテンが風に揺れ、白い布を掛けた長卓の上に、やわらかな影を落としている。
銀のカトラリーが光を受け、焼きたてのパンの香りと、香草をまとった肉の匂いが静かに混ざっていた。
給仕のバトラーが水差しを傾ける。
澄んだ水がグラスを満たし、細い音を立てた。
アンリはすでに二個目のパンをちぎっていた。
フーガは肉を切り分けながら、時おりちらりと入口を見る。
ルーソルだけが、カップを両手で持ったまま、まだ口をつけていなかった。
扉が開く。
入ってきたエルドウルフを見て、三人の視線が揃う。
ただ一人、ルーソルだけが目を上げなかった。
代わりに、少し冷めた茶をひと口含む。
エルドウルフは何も言わず席についた。
バトラーがすぐに皿を寄せ、焼きたてのパンを置く。
エルドウルフはパンを取り、バターを塗った。
その手つきはいつも通りで、だからこそ妙に静かだった。
ひと口。
ナイフが皿に触れる音だけが残る。
誰も何も言わない。
その沈黙を最初に崩したのは、アンリだった。
「で?」
エルドウルフは答えない。
もうひと口、パンをかじる。
フーガがナイフを置いた。
皿の上で、切りかけの肉が湯気を立てている。
「寝室」
エルドウルフはスープに手を伸ばした。
「使えないらしいな」
「そうだな」
アンリの肩がわずかに揺れる。
「事故か」
「事故だ」
「ちょっとした事故で寝室は死なん」
エルドウルフは水をひと口飲んだ。
「死んだ」
ルーソルの手が止まる。
だが、顔は上げない。
フーガが口元を歪めた。
何か言いたそうな顔だったが、今はそこで止める。
バトラーが背後から新しい肉皿を差し出したが、フーガは片手で軽く断った。
「姫さまは」
「無事だ」
そこで初めて、ルーソルの肩から少しだけ力が抜けた。
アンリとフーガが、ほんの少しだけ視線を交わす。
フーガが椅子の背にもたれた。
「理由は聞かん」
拍子抜けするほど、あっさりした声だった。
「聞いて笑える話なら、そのうちお前が勝手に言うだろうしな」
アンリが吹き出しかけて、咳払いでごまかす。
「お前は少し黙れ」
「いや、だって、そこは気になるだろ」
フーガが肩をすくめる。
銀のフォークを指先で弄びながら、少しだけ笑った。
「気になるが、今じゃない」
声の最後だけ、少し低くなった。
「聞きたいのはそこじゃねえ」
食堂の空気が、わずかに締まる。
カーテンが揺れ、窓辺の光だけが静かに動いた。
「どこまで壊れた」
エルドウルフはすぐには答えない。
スプーンを皿の縁に置き、水差しのそばへ視線を落とした。
バトラーが水を注ぎ足そうとして、手を止める。
アンリが軽く指を立てた。
下がれ、という合図だった。
給仕たちは音を立てずに距離を取る。
フーガが指を折る。
「寝台が潰れたのは聞いた。天蓋は」
「支柱ごと折れた」
「天井は」
「天井板が広く落ちた。梁が見えている」
「窓は」
「全部割れた」
「壁は」
「漆喰が剥がれた。下地が出ている」
「柱は」
「化粧柱にひびが入った。二本傷んでいる」
短い沈黙。
フーガが小さく口笛を呑み込んだ。
アンリはパンを皿に戻す。
「……部屋ごと死んでるじゃねえか」
軽い声にしていた。
だが、目は笑っていなかった。
すぐに、アンリが続ける。
「お前は」
エルドウルフが顔を上げる。
「怪我はしてないな」
「していない」
「姫さまも」
「問題ない」
アンリはそこで初めて頷いた。
年長の兄が、ひとつ確認を終えたような頷き方だった。
「ならいい」
フーガも続ける。
「ほんとにそれだけで十分だ。寝台も窓も壁も、替えが利く」
少しだけ口元が緩む。
「お前は替えが利かんし、姫さまはもっと利かん」
エルドウルフはすぐには返さなかった。
指先でグラスの縁に触れ、ほんのわずか目を伏せる。
「……ああ」
ルーソルはその声を聞いて、ようやくカップを置いた。
中身はほとんど減っていない。
アンリが椅子にもたれたまま、しばらく弟分の顔を見る。
「明日は王都からロワール太公が来る」
フーガの表情から、少し笑みが消えた。
「その前に王太子が寝室ごと吹き飛ばされかけたとなれば、冗談では済まん」
「太公が知るのは、お前のいつもの顔だけで十分だ」
アンリが言う。
「昨夜の気配を残すな。余計な火種になる」
フーガが低く笑う。
「ロワール太公が発狂するかは知らんが、王都は騒ぐな」
「“寝室の事故です”で済む話じゃない」
エルドウルフが小さく息を吐く。
「済ませるつもりはない」
アンリが頷く。
「知ってる。だから、規模だけ聞いた」
窓の外で鳥の声がした。卓の上だけが妙に静かだった。
アンリの視線が、エルドウルフの顔色から手元へ落ちる。
指先の動き、食事の減り、呼吸の浅さ。
それから、もう一度目を合わせ低く問う。
「怖かったか」
エルドウルフはすぐには答えなかった。
皿を見たまま、しばらく黙る。
バターの溶けたパンは、半分残っている。
スープにもほとんど手がついていなかった。
「……初めて見た」
フーガが肩を揺らす。
「そりゃそうだ。初見で平然としてたら気味が悪い」
「やめろ」
アンリが低くたしなめる。
「茶化してるわけじゃねえよ」
フーガはすぐに言った。
フォークを置き、今度は真面目な顔でエルドウルフを見る。
「ただ、そういうもんだって話だ。初回で止めたなら上出来だろ」
アンリの視線がエルドウルフへ戻る。
「止めたんだな」
「ああ」
短い返事だった。
それ以上、アンリは問わなかった。
アンリはそこでようやくパンを口に運ぶ。
「ならいい」
フーガが小さく笑った。
「ほんとは色々いじりたいんだけどな」
「やめておけ」
アンリが即座に返す。
「分かってるよ」
フーガは肩をすくめる。
「今日のところはな」
エルドウルフは小さく息を吐いた。
少しだけ、手元のパンをちぎる。
アンリが言う。
「今日は休め」
フーガも頷く。
「剣も会議も忘れろ。昨日の分まで気を張るな」
「分かってる」
「分かってる顔じゃない」
アンリが言った。
「明日は太公の相手だ。今日はちゃんと、約束した一日を使え」
フーガがにやりとする。
「そうそう。弟の初休日だ。兄としては見送ってやらんとな」
「お前は兄じゃない」
アンリが言う。
「気持ちは兄だろ」
フーガは涼しい顔で返した。
そこで初めて、ルーソルが口を開いた。
「従いなよ、エル」
静かな声だった。
軽くない。
けれど責めてもいない。
エルドウルフの口元が、わずかに緩む。
「……従う」
アンリが満足げに頷く。
「よし」
フーガも笑う。
「じゃあ行ってこい。今日はさすがに、まともに遊べよ」
「命令か」
「半分はな」
張っていた朝の空気が、そこでようやく少しだけ緩んだ。
◇◇◇
――休日が始まる。
三階の回廊を抜け、階段を上がる。
屋上へ。
人払いは済んでいる。
巡回の騎士も来ない。
五階へ続く最後の階段を上がると、空気が変わった。
南館五階、屋上。
朝の空はまだ薄く青い。
城壁の向こうに広がるクワルノーの街は、ゆっくりと目を覚まし始めている。
フィーラは外套の紐を解いた。
軽い布地で、飛ぶ時はすぐに脱げるようにしてある。
エルドウルフは短いフード付きのマントを着ていた。
アンリが腕を組んだまま、低く言う。
「戻りは日暮れ前だな」
「そのつもりだ」
ネレアは静かに一礼した。
「どうか、ご無事で」
フィーラは頷き、エルドウルフの手を取った。
「いくよ」
一歩、踏み出す。
次の瞬間、足元が消えた。
風が巻き上がり、屋上が遠ざかる。
空。
二度目の飛行。
ハンサン以来だった。
最初の数秒、エルドウルフの身体はわずかに強張る。
落下とは違う。
けれど、重力が裏返る感覚は、人間の本能を逆撫でする。
フィーラがちらりと横を見る。
「こわい?」
「怖くはない」
即答だった。
だがそのあと、エルドウルフはわずかに息を整えた。
風を正面から受ける感覚にも、地面の遠さにも、まだ身体は慣れていない。
「……慣れていないだけだ」
「つよがり」
「違う」
少しだけ低くなった声に、フィーラの口元がゆるむ。
高度が上がる。
城が小さくなる。
クワルノーの城壁が、白い輪のように見えた。
街道は糸のように細く伸び、畑は織物の継ぎ目のように色を分けている。
エルドウルフは視線を遠くへ向けた。
――早い。
馬なら三日。
それを、ほんのわずかな時間で越えていく。
理屈では理解していた。
けれど、身体が追いつくのはまだ先だった。
ルーソルが、飛行酔いと言っていたことを思い出す。
あれほどではない。
吐き気も、眩暈もない。
ただ、地面から切り離されているという感覚だけが、身体の奥に残っている。
フィーラが速度を少し緩めた。
風の当たり方がやわらぎ、飛行が静かに安定する。
「へいき?」
「問題ない」
フィーラは少しだけ目を細めた。
「でも、ゆっくりにする」
エルドウルフは短く息を吐く。
「……助かる」
フィーラは満足そうに頷いた。
朝の風が、二人の間を抜けていく。
眼下のクワルノーは遠ざかり、街道の先に、まだ知らない休日の景色が広がっていた。
「ネルマ、なんで行きたいとおもう?」
唐突に問われ、エルドウルフは横目で彼女を見る。
「刺繍だろ」
「うん」
素直な返事だった。
「他は?」
フィーラは少し考える。
空を飛びながら、言葉を探している横顔が妙に真剣だった。
「針結び、ほしい」
「……何だそれは」
「ジュリアに見せてもらった。きれいだった。ちいさい、かわいいやつ」
指先で輪を作る。
「糸でつくるの。お花みたい」
エルドウルフは短く息を吐く。
呆れたようで、少しだけ笑っているようでもあった。
「好きなもの、買う。エランにもらったお金、もってきた」
外套の内側をぽんと叩く。
少し得意そうだ。
エルドウルフは横目で見た。
アザンクールで買い物をしたと聞いている。
それでも、まだ残っているらしい。
「そうか」
「ある」
「足りるのか」
「ある」
今度は少し強かった。
エルドウルフは息を吐く。
「足りるかどうかは分からないだろ」
フィーラは黙った。
少し考える。
さらに考える。
そして結論だけ言った。
「……好きなもの、買う」
その答えに、エルドウルフの口元がほんの少し緩んだ。
「分かった」
短く言う。
「足りなければ俺が出す」
フィーラはしばらく考えてから頷いた。
「うん」
風が髪をさらう。
群青の髪が光を受けて揺れた。
空は高く晴れていた。
雲の影が平野をゆっくり流れていく。
二人の下で、夏の土地は静かにほどけた。
今日という一日はまだ始まったばかりだった。
風が少し強くなる。
地形が変わる。
丘が減り、平野が広がる。
遠くに、塔がいくつも立ち並ぶ街が見えてきた。
赤い屋根の海。
丸いドーム。
細い塔。
ネルマだった。
高度が落ちる。
屋根が、少しずつ近づいてくる。
お読みいただきありがとうございます。
『光を背負った王』は通常、毎週月曜日/木曜日の20時更新ですが、六章第二幕につきましては、少しだけイレギュラーにお届けいたします。
47話の余韻のまま読んでいただきたく、今週は更新日を増やします。
【六章第二幕 更新予定】
6/20(土)20時 第48話「休日の始まり」
6/22(月)20時 第49話
6/24(水)20時 第50話
6/25(木)20時 第51話
6/26(金)20時 第52話
その後、6/29(月)より通常の月曜日/木曜日更新に戻ります。
六章第二幕も、どうぞよろしくお願いいたします。




