6章1幕(13) 第47話 〜理由は問わない夜〜
夜は、まだ深くなりきってはいなかった。
寝るには少し早い。
けれど、仕事を続けるには遅い。
そういう、どちらにも寄りきらない時間だった。
寝室の灯りは一つだけ。
卓上の燭台が、小さく揺れている。
しゃり、しゃり。
一定の音がする。
エルドウルフは椅子に浅く腰掛け、剣を研いでいた。
湯上がりの白いシャツ。
襟元は少し開き、袖は肘まで捲られている。
濡れていた髪はほとんど乾いていた。
燭台の光を受けるたび、白金が柔らかく光を返す。
鎧もない。
外套もない。
人の前に立つ王太子の顔でもない。
それでも、剣を持つ手つきだけは変わらなかった。
刃の背を押さえる指。
砥石を動かす腕。
肩から背中へ流れる線。
静かなのに、戦う人の身体だった。
フィーラはベッドの端に座っていた。
薄い夜着を着ている。
月の色に近い、淡い布だった。
裸足のまま、足を揃えている。
本は持っていなかった。
今日は、読む気にならなかった。
ただ、見ていた。
剣を研ぐ手。
伏せた睫毛。
刃を確かめる横顔。
エルドウルフは、何かをしている時、あまり喋らない。
それはもう知っている。
仕事をしている時も。
地図を見ている時も。
剣を扱っている時も。
言葉は少ない。
でも、手はずっと動いている。
フィーラは、その手を見るのが好きだった。
昨日の言葉が、まだ胸の奥に残っている。
――もうやるな。
――早すぎるものは壊す。
少し強い声だった。
でも、怒っているだけではなかった。
止めている声だった。
フィーラには、それが少しだけ分かるようになっていた。
朝の稽古も、まだ目の奥に残っている。
アンリの刃が、エルドウルフの肩口を掠めた時。
布が裂けた時。
胸の奥が、ぎゅっと小さくなった。
いやだ、と思った。
エルドウルフが傷つくのは、いやだ。
けれど、剣を持っているエルドウルフは綺麗だった。
強い。
速い。
怖い。
でも、見ていたい。
好き。
いやだ。
好き。
同じ場所に、反対のものが並んでいる。
それが何なのか、まだフィーラにはうまく分からなかった。
しゃり。
刃の角度が、少し変わる。
エルドウルフの指先が、刃元へ近づいた。
次の瞬間。
ち、と赤が滲んだ。
エルドウルフの手が止まる。
指先に、細い赤が滲んでいた。
すぐに一滴になって、刃の上へ落ちる。
その瞬間、世界が静かになった。
昼の光景が、脳裏に重なる。
ルイーズの指。
にじんだ赤。
駆け寄ったサラ。
迷いなく触れた唇。
――これで大丈夫です。
胸の奥で、何かが跳ねた。
そうだ、とフィーラは思う。
傷ついたら、そうするのだ。
人は、そうやって手を差し伸べるのだ。
けれど、それだけではなかった。
赤から目が離れない。
喉の奥が、かすかに熱くなる。
胸の内側で、何かがざわりと波立った。
懐かしいような、
けれど思い出してはいけないような、
遠いところをかすめる感覚だった。
甘い、と一瞬だけ思った。
自分でも意味が分からないまま、フィーラは立ち上がっていた。
音が遠くなる。
視界が、そこだけに集まる。
守らなければいけない色だと分かる。
傷ついたのだと分かる。
なのに、身体の奥では別の何かが静かに騒いでいた。
エルドウルフは気づかない。
ただ傷を見て、軽く眉を寄せただけだった。
「浅いな」
それだけ言って、布を取ろうとする。
フィーラはもう、すぐそばまで来ていた。
自分でも、いつ立ったのか分からない。
近い。
血の匂いが、はっきり分かる。
指先が、わずかに震えた。
どうしたいのか、自分でも分からない。
エルドウルフが顔を上げる。
「……フィーラ?」
フィーラは答えなかった。
血から目を離さない。
その瞳の奥で、何かが揺れている。
エルドウルフの眉がわずかに動いた。
「フィーラ、待て」
手を引こうとした。
だが、フィーラの指はもう彼の手首に触れていた。
熱い。
生きている温度だった。
かすかな脈が、指先に伝わる。
「……それ、だめ」
言葉だけが、遅れて落ちた。
だめ。
傷ついている。
そういう時は、手を伸ばすのだ。
昼に見た。
サラが、そうしていた。
だから、これでいいはずだった。
けれど、視線は傷から動かない。
赤いものが、そこだけ強く見えている。
「フィーラ」
もう一度、低く呼ばれる。
距離が消えた。
「フィーラ――」
止めるより早く、唇が触れた。
温かい。
鉄の味。
その奥に、ひどく鮮やかなものがあった。
味ではない。
けれど、甘い、としか思えなかった。
その瞬間、心臓が大きく跳ねた。
フィーラの瞳が見開かれる。
身体の奥で、何かが弾けた。
流れ込んだのではない。
取り込んでしまった。
熱が光になって、喉の奥から胸へ、胸から背へと一気に駆け上がる。
「……っ」
エルドウルフが息を呑んだ。
フィーラの背から、音もなく白い羽がひらく。
一対。
次の瞬間、もう一対。
さらに、もう一対。
ばさり、と空気が震えた。
天蓋の布が裂ける。
柱に沿って羽が駆け上がり、木が軋んだ。
「フィーラ!」
反射だった。
エルドウルフはその腕を掴む。
だが、暴れたのは身体ではなくマナだった。
空気が歪む。
燭台が倒れる。
カーテンが跳ね上がる。
ベッドが悲鳴を上げた。
「……ちがう」
フィーラの声が震える。
「とまらない」
光が脈打つ。
瞳の金が、白に近づいていく。
「どうしよう……」
呼吸が乱れる。
「どうしちゃったの、わたし……」
柱にひびが走った。
ばきん、と乾いた音がして、ベッドの一部が折れる。
エルドウルフは考えるより先に飛んでいた。
フィーラを抱き込んだまま床へ転がる。
砕けた木片が背中をかすめた。
羽が、もう一度大きく開く。
窓が震え、壁が軋む。
「フィーラ!」
今度は叫びだった。
肩を掴む。揺らす。
「フィーラ、こっち見ろ!」
フィーラの視線が揺れる。
「こわい……」
小さく漏れる。
「止まらない……!」
呼吸が崩れる。
「フィーラ!」
エルドウルフの声も、もう整っていない。
「大丈夫だ、聞け。大丈夫だから――」
言葉が途切れる。
それでも、離さない。
「俺を見ろ!」
その声が、ようやく届いた。
フィーラの瞳が、ゆっくり焦点を取り戻していく。
震えていた羽が、ほどけるように消えた。
光が静かに収束する。
そのあとに落ちた静けさは、ひどく重かった。
部屋は、無残だった。
けれど、エルドウルフはそれを見ていなかった。
腕の中の重みだけを、確かめていた。
「……フィーラ」
声は、思ったより震えていなかった。
返事がない。
胸の奥で、嫌な音がした。
「フィーラ」
もう一度呼ぶ。
「……だいじょうぶ」
小さな声が返る。
その瞬間、全身の力が抜けた。
息が、遅れて落ちる。
「……よかった」
ほとんど吐息だった。
フィーラはまだ、彼の腕の中にいた。
「……ごめん」
小さな声。
「謝るな」
即答だった。
少し強い。
自分でも驚くほど、強い声だった。
「怪我は」
「ない」
エルドウルフは確かめるように背を撫でる。
熱はない。震えも、少しずつ収まっていく。
――生きている。
遠くで、慌ただしい足音が聞こえ始めた。
ようやく思考が戻ってくる。
エルドウルフは小さく息を吐いた。
「……説明が面倒だな」
そのとき、かすかな衣擦れがした。
視線が、ふと止まる。
フィーラの背中だった。
薄い寝巻きは肩の下から大きく裂け、脇腹の方まで布が破れている。
羽が広がった勢いで引き裂かれたのだろう。
夜気が、裂けた布の隙間から入り込んでいた。
フィーラ自身はまだ気づいていない。
壊れた部屋を見たまま、呆然としている。
エルドウルフは何も言わず、床に落ちていた外套を掴んだ。
そっと肩へ掛け、そのまま前を合わせて閉じる。
フィーラが瞬いた。
「……さむい?」
「いや」
短く答える。
それから一度だけ、寝室を見回した。
天蓋は根元から裂け、重い布が無残に垂れ下がっている。
寝台は片側へ傾き、砕けた木枠と羽根枕の中身が床一面に散っていた。
窓はすべて割れ、夜気が吹き込んでいる。
厚いカーテンは留め具ごと引きちぎられ、壁際の小卓は横倒しになり、燭台は潰れ、鏡には大きな亀裂が走っていた。
漆喰もあちこちで剥がれ、化粧柱には蜘蛛の巣のようなひびが広がっている。
城そのものが壊れたわけではない。
だが、この部屋だけは完全に駄目だった。
このままでは、朝までに城中に噂が広がる。
エルドウルフはフィーラを外套で包んだまま、寝室の扉へ向かった。
扉を開いた瞬間、外で当直していた護衛騎士が一歩前に出た。
オリビエだった。
その視線が、外套に包まれたフィーラと、肩に手を添えるエルドウルフを見て、次に背後の寝室へ滑る。
裂けた天蓋。
割れた窓。
崩れた寝台。
オリビエの目が一瞬だけ細まった。
何が起きたかではなく、誰に見せてはならないかを判断する目だった。
「承知いたしました」
短く答えると、すぐに廊下の先へ向き直る。
「この階は封鎖だ。近寄るな。四階で事故があった。殿下と姫さまはご無事だ」
駆けつけかけた兵士と使用人が、その声で止まる。
オリビエはさらに低く続けた。
「執事長と侍女長を。余計な者は下がらせろ」
早かった。
彼が事情を察していることを、エルドウルフは何も言わずに受け取った。
ほどなくして、執事たちの足音が重なる。
最初に現れたのはジョフロア。
続いて、その妻キトリーとネレアだった。
紅茶色の髪をきっちりとまとめたキトリーは、穏やかな顔立ちのまま、ひと目で寝室の有様を見て取った。ネレアの母らしく、騒ぎの中でも目が揺れない。
三人は寝室の中を一瞥する。
裂けた天蓋。
損傷した柱。
吹き込む夜気。
割れた窓。
散乱する寝具と家具。
そして、外套に包まれたフィーラ。
一瞬の沈黙。
ジョフロアが低く言った。
「……承知いたしました」
理由は問わない。
問う必要もない、という顔だった。
代わりに、次の言葉が落ちる。
「原因は、寝室天蓋を支えていた化粧梁の破断といたします」
エルドウルフがわずかに視線を上げる。
ジョフロアは静かに続けた。
「天蓋枠が落下し、寝台と窓側の小卓を巻き込んだ。衝撃で窓硝子が割れ、天井板の一部が落ち、壁の漆喰と化粧柱にも損傷が出た。老朽化による破損。点検不足の責任は、すべて城側に」
キトリーが柔らかく微笑む。
「姫さまは、大きな物音で目を覚まされただけ、ということにいたしましょう」
ネレアはすでに動いていた。
「四階は一時封鎖します。夜間通路を使用いたします」
ジョフロアが振り返る。
「三階南翼、姫さまの居住区の寝室予定室を直ちに整えろ。殿下のお休み所も隣室へ移す」
三階には、もともとフィーラのための寝室があった。だが、まだ空のままだった。
ネレアがすぐに引き取る。
「姫さまの三階の寝室予定室を、今夜お使いいただけるよう整えます。殿下のお部屋もその隣へ。寝台、寝具、衝立、洗面、夜具、すべて急ぎ運び込みます」
キトリーも続けた。
「姫さまのお着替えはこちらで用意します。殿下のお支度も、別室へ運ばせましょう」
ジョフロアの指示がさらに重なる。
「殿下と姫さまの移動経路は東回廊を封鎖。人払いを。目に触れさせるな」
オリビエがすぐに応じる。
「東回廊、封鎖します。当直は私が押さえます」
廊下に足音が走る。
使用人たちは混乱しない。
驚きもしない。
ただ動く。
正確に。速く。
「修繕班を起こせ。音は最小限。日の出前に応急処置、明朝から本格補修に入る」
短い指示が重なり、城が動き出した。
フィーラは目を丸くした。
「……はやい」
キトリーが優しく言う。
「城は、何があっても朝を迎えますの」
エルドウルフは短く頷いた。
「助かる」
ジョフロアはわずかに頭を下げる。
「それが我々の務めでございます」
お読みいただきありがとうございます。
『光を背負った王』は通常、毎週月曜日/木曜日の20時更新ですが、六章第二幕につきましては、少しだけイレギュラーにお届けいたします。
47話の余韻のまま読んでいただきたく、今週は更新日を増やします。
【六章第二幕 更新予定】
6/20(土)20時 第48話「休日の始まり」
6/22(月)20時 第49話
6/24(水)20時 第50話
6/25(木)20時 第51話
6/26(金)20時 第52話
その後、6/29(月)より通常の月曜日/木曜日更新に戻ります。
六章第二幕も、どうぞよろしくお願いいたします。
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