6章1幕(12) 第46話 〜手の温度〜
――少しだけ、時を戻す
エルドウルフとアンリの打ち合いが終わっても、訓練場の空気はまだ張っていた。
その向こうでは、別の組が続いている。
砂を蹴る音。短く弾ける金属音。間合いを測る足運び。
「まだいる……!」
ルイーズが小さく息を呑んだ。
次の瞬間には、もう身を乗り出している。
「朝からこんなに見ていいんですか……!」
「ルイーズ」
サラが小声でたしなめる。
「声」
「だって」
ルイーズは両手を胸の前で握りしめた。
「朝の稽古って、もっと地味だと思ってました……!」
その目はきらきらしていた。
「豪華ですよね」
サラも息をつくように言う。
声音は抑えていたが、目までは隠せていない。
侍女たちの視線が剣先を追う。
砂が跳ねるたび、ルイーズの肩も一緒に揺れた。
その隣で、フィーラがぽつりと言う。
「……すき」
ネレアが振り向く。
「何がです?」
フィーラは訓練場を見たまま答えた。
「たたかうの、こわい。でも、すき」
ネレアは何も言わなかった。
否定もせず、ただ静かに前を向く。
そのとき、訓練場の向こうでエルドウルフがふと顔を上げた。
視線が流れる。
回廊の影。
群青の髪。
ほんの一瞬だけ、目が合う。
すぐに外れた。
「サラ、見ました……?」
ルイーズが声を押し殺して震えた。
ネレアが即座に言う。
「静かに」
ルイーズは両手で口を押さえた。
けれど目だけはまったく静かではなかった。
フィーラは何も言わなかった。
ただ、少しだけうれしそうだった。
やがて訓練場の空気がゆるみ始める。
ネレアはそこで静かに言った。
「姫さま、今日もお外に行きますか」
「うん、ひろばにいく」
歩き出す。
後ろではルイーズがまだ名残惜しそうに振り返っていた。
「毎朝これがあるんですか……心臓がもちません」
「ルイーズ」
サラが小声でたしなめる。
けれど、自分も少しだけ頬がゆるんでいた。
ネレアは小さく息をついた。
◇◇
訓練場を離れたあと、フィーラはそのまま城外へ出た。
朝の日課になりつつある、広場の子供たちとの時間だった。
第一城壁を抜けると、空気が変わる。
柱を叩く小槌の音。
木箱を積んだ荷馬車の車輪が回る音。
店先で客を呼ぶ声。
パンや肉の焼ける匂い。
城の中とは違う音が、あちこちから立ち上がっていた。
街が動き出している。
フィーラは迷わず、第二城壁の方へ向かった。
まだ舗装されていない土の広場。
雨のあとには少しぬかるみ、晴れた日には砂ぼこりが立つ。けれど子供たちにとっては、そこが一番広く走れる場所だった。
広場には、十人ほどの子供がいた。
走っている子。
地面に石を積んでいる子。
木の枝を剣に見立てている子。
棒で土に線を引き、何かの道を作っている子。
「あ」
一人が顔を上げた。
「おねーちゃん!」
「今日も来た!」
「きたー!」
次の瞬間、子供たちが一斉に走ってくる。
ルイーズが思わず半歩下がった。
サラも目を丸くする。
貴族の屋敷で見る子供とは、まるで違っていた。
礼をするより早く駆け寄ってくる。
裾に土をつけ、髪を乱し、笑いながら手を伸ばしてくる。
フィーラは少しも身構えなかった。
「みんな、こんにちは」
手を振ると、子供たちの声がさらに大きくなる。
「きょう、走る?」
「お歌、うたう!」
「石積みも見る?」
「橋できた!」
「おねーちゃん、鬼ごっこしよう!」
フィーラは真剣に考えた。
「ぜんぶ、する」
子供たちが歓声を上げる。
そのまま、一番小さな子に手を引かれて広場の真ん中へ連れて行かれた。
「じゃあ、まず走る!」
「はしる」
「おねーちゃん、あそこまで!」
子供が指差したのは、広場の端に置かれた古い木箱だった。
フィーラは頷く。
「わかった」
レオナールが当然のように前へ出た。
「こっち」
そう言って、フィーラの手を取る。
「転ぶなよ」
フィーラはその手を見て、それから小さく頷いた。
「うん」
「よーい」
誰かが大きく息を吸う。
「どん!」
子供たちが一斉に駆け出した。
フィーラも走る。
レオナールに手を引かれ、広場の端へ向かう。
裾が揺れ、砂ぼこりが跳ねる。
子供たちの笑い声が広場に弾けた。
「おねーちゃん、遅いぞ!」
「おそい?」
「もっと走れるだろ!」
レオナールが振り返って笑う。
フィーラは瞬きをして、それから少しだけ足を速めた。
「はやいね」
「だろ!」
古い木箱の前で、レオナールが勢いよく止まる。
フィーラも隣で足を止めた。
「もう一回!」
「もう一回やろ!」
子供たちが声を上げる。
フィーラはレオナールの手を見て、それから子供たちを見る。
「もう一回」
真剣に頷いた。
その顔を見て、レオナールがにっと笑う。
「じゃあ次も行くぞ」
「うん」
ルイーズは呆然としていた。
「……姫さまが、走っていらっしゃる」
「ええ」
サラも目を離せないでいる。
土の広場。
平民の子供たち。
乱れた髪と、砂のついた小さな手。
そこに、姫と呼ばれる人が何のためらいもなく混ざっている。
袖を引かれても、手を握られても、土の上にしゃがみ込んでも、フィーラは嫌がらない。
むしろ、子供たちと同じ目の高さで、同じものを真剣に見ていた。
「見て!石、五つ積めた!」
「昨日は四つ」
「今日は五つ!」
「すごい」
フィーラは真剣に頷いた。
それだけで、子供の顔がぱっと明るくなる。
「もっとできる!」
「みる」
別の子が、フィーラの袖を引いた。
「こっち!橋つくった!」
「はし」
フィーラは土の上に描かれた線を見下ろす。
細い枝で引かれた川。
石を並べただけの橋。
その横には、小さな葉が何枚も置かれていた。
「ここ、まち?」
「うん!こっちがお城!」
「すごいね」
フィーラはしゃがみ込む。
子供たちも一緒にしゃがみ、土の上の小さな世界を囲んだ。
少し離れたところで、ルイーズがサラの袖をそっと引く。
「……姫さま、全然いやがらないのね」
「ええ」
サラも小さく頷いた。
子供の手は土で汚れている。
声は大きい。
距離も近い。
身分の線など、そこには一つも引かれていない。
それなのにフィーラは、当然のようにその輪の中にいた。
「普通は……できませんよね」
ルイーズが小さく言う。
「ええ」
サラは静かに答えた。
「でも、姫さまはなさるのですね」
その声には、驚きだけではないものが混じっていた。
ネレアは二人の少し前で、広場を見ていた。
止めない。
急かさない。
ただ、フィーラと子供たちの距離を静かに見守っている。
「姫さまは、あの子たちを子供として見ていらっしゃいます」
ネレアが言った。
「身分ではなく、ただの子供として」
ルイーズは言葉を失った。
サラも背筋を伸ばす。
広場では、また走る声が上がっていた。
「次、鬼ごっこ!」
「おねーちゃんが鬼!」
「つかまえられるかな!」
フィーラは立ち上がった。
「つかまえる」
金の瞳が、きらりと光る。
子供たちが笑いながら散っていく。
フィーラは少しだけ腰を落とし、本気で追いかける姿勢を取った。
「いくよ」
次の瞬間、広場に歓声が弾けた。
フィーラが走る。
子供たちが逃げる。
砂ぼこりが舞い、笑い声が空へ抜けていく。
ルイーズは胸の前で両手を握った。
「……すごい」
小さな声だった。
サラも頷く。
「ええ」
剣の音とは違う。
金属の光とも違う。
土の上に描かれた、すぐ消える線。
何度でも作り直せる橋。
笑いながら走り回る子供たち。
その真ん中に、フィーラがいる。
胸の奥が忙しい。
そして軽い。
「楽しいね」
フィーラは、子供たちに囲まれて笑った。
◇◇
広場から戻るころには、フィーラの裾にも靴にも、うっすらと砂埃がついていた。
髪にも、頬にも、細かな土の粒が残っている。
子供たちと走り回った証だった。
ネレアはそれを見て、すぐに決めた。
「姫さま。まずは湯浴みでございます」
「おふろ?」
「はい。今日は全身が砂埃です」
フィーラは自分の袖を見下ろした。
確かに、薄い布地の端が少し白くなっている。
「いっぱい走った」
「ええ。よく走っていらっしゃいました」
ネレアは穏やかに答えたが、視線だけでサラとルイーズへ指示を出した。
「湯の用意を。髪も洗います」
「はい」
「はい!」
ルイーズの返事だけが、少し弾んでいた。
浴室は白い湯気で満ちていた。
扉の外と内を、メイドたちが静かに行き交っている。
湯を満たした桶を運ぶ者。
乾いた布を棚へ積む者。
使い終えた布を籠へ下げる者。
濡れた床に膝をつき、音を立てずに拭う者。
けれど、フィーラのすぐそばに立つのは侍女たちだけだった。
ネレアが髪をほどき、サラが湯を受け、ルイーズが清潔な布を差し出す。
メイドたちは必要なものを整え、侍女たちの手元が途切れないよう支えていた。
フィーラは小さな腰掛けに座らされ、まずは頬や手足についた砂埃を拭われた。
それから、ぬるめの湯を張った浴槽へ入る。
土の匂いが薄れ、代わりに花と薬草の香りが近づいてくる。
「きもちいい」
フィーラがぽつりと言った。
ルイーズの顔が明るくなる。
「姫さまのお肌は、本当にお綺麗ですね」
「ルイーズ」
ネレアが静かに名を呼ぶ。
「はい。手を動かします」
返事は早かった。
けれど、目は輝いたままだった。
次に髪を洗う。
ネレアが群青の髪を丁寧にほどくと、濡れる前から光を含むように揺れた。
サラが桶を持ち、ルイーズが思わず息を呑む。
「……本当に、きれい」
「声」
「申し訳ありません。でも、細くて、光っていて……全然、傷んでいません」
「だからこそ、丁寧に扱いなさい」
「はい……!」
返事はほとんど感動に近かった。
サラが静かに湯を流した。
温かな湯が髪を伝う。
群青の色が深くなり、毛先の淡い水色が湯気の中でやわらかく光った。
後ろで、メイドが新しい湯をそっと置く。
別のメイドが使い終えた桶を下げる。
その間も、フィーラに触れる手は侍女たちのものだけだった。
サラは泡を手に取り、慎重に髪へ広げる。
指が地肌に触れ、ゆっくりと髪の間を通っていく。
フィーラは目を細めた。
「これ、すき」
「髪を洗われるのが、ですか?」
「うん。あったかい。手、やさしい」
ルイーズの表情が溶ける。
「姫さま……」
「ルイーズ」
「はい、手を動かします」
泡が髪全体に広がり、細い指が丁寧に梳いていく。
絡むところは一つもない。
水を含んだ群青の髪は、絹糸の束のようにまっすぐ流れた。
ネレアは慣れた手つきで髪を支え、余分な泡が顔へかからないよう押さえる。
「姫さま、少し前を向いてください」
「うん」
「目を閉じて」
「うん」
湯が流れる。
泡がほどける。
髪が背へ落ちる。
サラが乾いた布で毛先を包み、ルイーズが別の布を差し出す。
ネレアが最後に櫛を通すと、濡れた群青の髪が一筋ずつ整っていった。
「……きらきら」
フィーラが小さく言った。
「はい」
サラが微笑む。
「とても綺麗です」
「きれいにしてくれた」
フィーラはそう言って、サラとルイーズを見た。
「ありがとう」
二人の動きが止まった。
先に持ち直したのはサラだった。
「恐れ入ります」
ルイーズは少し遅れて、勢いよく頭を下げた。
「もったいないお言葉です……!」
ネレアは静かに息を吐く。
「落ち着きなさい」
けれど、サラもルイーズも、どこか嬉しそうだった。
フィーラは濡れた髪を布越しにそっと触る。
自分の髪を、誰かが丁寧に洗い、整えてくれる。
それはただ汚れを落とすだけではなかった。
あたたかい手。
優しい声。
きれいになった、と喜ぶ顔。
胸の奥が、ふわりと軽くなる。
「たのしいね」
フィーラが言うと、ルイーズがすぐに頷いた。
「はい。とても」
サラも静かに微笑む。
「私たちにとっても、大切なお役目です」
ネレアは最後に髪を整え終え、布を外した。
「では、お部屋へ戻りましょう。髪を乾かしながら、少し休んでいただきます」
「うん」
フィーラは素直に頷いた。
湯気の向こうで、群青の髪がまだ淡く光っていた。
南館三階、フィーラの部屋の居間。
開け放たれた窓の先には中庭が広がっていた。
光が小径の石畳を白く照らしている。
低く整えられた生垣の内側には、淡い色の花がまとまって植えられていた。白と、わずかに紅を含んだ花弁が、風に触れるたび静かに揺れる。
その向こうには、背の高い木が一本。
枝を大きく広げ、薄い影を地面へ落としていた。葉擦れの音がかすかに続き、庭全体に同じリズムを与えている。
侍女たちは静かに作業をしている。
フィーラは窓辺のテーブルで刺繍の練習をし、サラは茶器の支度をしていた。
ルイーズは庭師から届いた薔薇の枝を揃え、ネレアは書類の整理のため執務室へ下がっている。
静かな部屋だった。
けれど、フィーラの頭の中は少しも静かではなかった。
朝の訓練場の音が、まだ耳に残っている。
重い衝突音。
火花。
砂の跳ねる気配。
怖かった。
喉元で止まった刃を思い出すと、胸が少し縮む。
けれど同時に、あの瞬間の光も思い出してしまう。
踏み込む姿。
朝日に照らされた白金の髪。
剣を構えたときの、迷いのない横顔。
目が合った、あの一瞬。
仕事の顔のままだったのに、ほんの少しだけ呼吸が変わった。
それが分かった。
怖い。
でも、きれいだった。
そのあとには、広場の声が重なる。
レオナールに手を引かれて走った。
遅いぞ、と笑われた。
砂ぼこりが跳ねて、子供たちの声があちこちから飛んできた。
石を積む手。
土に描かれた橋。
葉っぱで作られた小さな街。
もう一回、と何度もせがむ声。
楽しかった。
胸の奥が忙しくなるくらい、にぎやかで、あたたかかった。
誰かに手を引かれることも、袖を掴まれることも、声の中に混ざることも、まだ少し不思議だった。
けれど、嫌ではなかった。
城へ戻ると、すぐ湯浴みだった。
髪を洗われることは、もう初めてではない。
ネレアの手はいつも丁寧で、温かい湯が髪を伝う感覚も知っている。
けれど今日は、少し違った。
サラが慎重に湯を流し、ルイーズが布を差し出しながら、何度も目を輝かせていた。
後ろではメイドたちが音もなく動き、たくさんの手が流れるように支えていた。
その中で、フィーラに触れる侍女たちの手は、どれも優しかった。
汚れを落とすだけではなかった。
きれいにしたい。
心地よくしてあげたい。
そう思っているのが、なんとなく分かった。
それが、嬉しかった。
フィーラがありがとうと言うと、サラもルイーズも嬉しそうにした。
差し出される。
受け取る。
ありがとう、と言う。
そうすると、相手も少し嬉しそうになる。
今は、刺繍の布が目の前にある。
針。
糸。
小さな花の形。
サラの静かな手つき。
ルイーズの明るい声。
新しいものが、次々と増えていく。
フィーラは針を持ったまま、布の上で手を止めていた。
どれもまだ胸の中に残っていて、ひとつずつ思い出すたび、気持ちの置き場所が少しずつ変わる。
サラが白磁のティーセットを運び、テーブルに置いた。
「温かいハーブです」
「ありがとう」
フィーラはカップを両手で包んだ。
温かさが指先へ広がる。
香りを確かめるように、小さく息を吸った。
そのすぐ近くで、
「いたっ」
小さな声がした。
ルイーズだった。
花ばさみを握ったまま、指先を見つめている。
赤い点がひとつ、にじんでいた。
「もう、ルイーズ」
サラがすぐ駆け寄る。
「見せてください」
「大丈夫よ、これくらい――」
言い終わる前に、サラがルイーズの手を取った。
そして迷いなく、指先を口に含む。
ほんの一瞬。
すぐに離した。
「……これで大丈夫です」
自然だった。
迷いも、躊躇もなかった。
ルイーズがぽかんとする。
「え、あ、ありがとう……?」
「消毒代わりです。小さい頃、妹がよく怪我をしていましたので」
何でもないことのように言う。
ルイーズの顔がふわっと緩んだ。
「優しいのね、サラ……」
その声は、少しだけうれしそうだった。
「普通です」
照れたように視線を逸らすサラ。
フィーラは、カップを持ったまま動かなかった。
じっと見ている。
さきほどまで見ていた剣の光とは、まったく違う。
広場の子供たちの笑い声とも違う。
こちらは静かで、小さくて、やわらかい。
でも、胸の奥は同じように温かくなった。
「……いたいの?」
不思議そうで、少しだけ心配そうな声だった。
ルイーズが笑う。
「ちょっとだけ。でももう平気です」
サラも頷く。
「すぐ治ります」
フィーラは小さく頷いた。
カップの中の湯気が、静かに揺れる。
レオナールが手を引いたこと。
サラがルイーズの指を取ったこと。
エルドウルフが剣を構えていたこと。
どれも違う。
なのに、胸の奥に残る温度は少し似ていた。
フィーラの視線は、二人の指先からしばらく動かなかった。
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