6章1幕(11)第45話 〜地図に無い線〜
訓練場は、朝の光に満ちていた。
石畳はまだ冷たく、空気も乾いている。
内庭を囲む回廊の柱には、淡い陽が斜めに差し込み、砂地の上には長い影が落ちていた。
金属のぶつかる音が、一定の間隔で響いている。
フィーラの足が止まった。
「……いる」
視線の先。
中央の砂地で、二人が向かい合っていた。
エルドウルフとアンリ。
ネレアが小さく頷く。
「朝の剣術稽古ですね」
その言葉と同時に、金属音が強く弾けた。
踏み込み。
砂が跳ねる。
エルドウルフの剣が、まっすぐ走った。
迷いのない速さだった。
だが、アンリは退かない。
受けるのではなく、先に軌道を読んでいる。
剣が届く場所に、すでに刃を置いていた。
高い金属音が鳴り、エルドウルフの剣が横へ流される。
フィーラの肩が小さく揺れた。
ルイーズが息を呑む。
「……今の、見えていたのですか」
サラが小さく頷いた。
「たぶん、来る場所が分かっていたのだと思います」
フィーラは稽古場から目を離さなかった。
次の打ち込み。
今度はアンリが攻める。
低い軌道からの切り上げを、エルドウルフが後退してかわす。
そのまま体を捻り、反撃へつなげた。
剣と剣が交差する。
速い。
重い。
けれど、それだけではない。
アンリの剣は、相手の力を正面から受けない。
半歩ずらし、逃げ場を狭め、次に置く足まで削ってくる。
フィーラの指が、ぎゅっとネレアの袖を掴んだ。
「……こわい」
小さな声だった。
けれど、目は離れない。
稽古場の端で、アストロフが腕を組んだまま見ていた。
何も言わない。
だが、エルドウルフの踏み込みが一度浅くなった時、その緑の瞳だけがわずかに動いた。
アンリも同じものを拾っていた。
次の踏み込みが、一段深くなる。
その刹那、エルドウルフの視線がわずかに揺れた。
朝食の席。
ルーソルの返事。
整いすぎた笑顔。
何も言わない空白。
それが、刃の前に差し込まれる。
遅れは、指先ほど。
だが、アンリ相手には十分だった。
いつものエルドウルフなら、もう一手は残せた。
剣先が肩口を掠める。
布が裂けた。
「っ」
フィーラが半歩前へ出る。
ネレアがすぐに肩へ手を添えた。
「大丈夫です」
フィーラは止まる。
だが視線は、エルドウルフから離れなかった。
エルドウルフは一歩下がり、剣を下ろした。
「……一本」
アンリも剣を下げる。
息は乱れている。
それでも、目だけは鋭いままだった。
「今日は早いな」
エルドウルフは肩の裂け目を見下ろし、短く息を吐いた。
「朝から本気を出すな」
「手加減して勝てる相手じゃねえだろ」
軽い言い方だった。
だがアンリの視線は、エルドウルフの顔を見ている。
いつもより浅い。
いつもより、余計なものを持ち込んでいる。
そう読んでいる目だった。
ルイーズが小さく呟く。
「王太子殿下が負……」
ネレアが視線だけで止めた。
ルイーズは口を閉じる。
稽古場の端で、アストロフが低く告げた。
「次」
砂地に四人が入ると、さっきとは別の緊張が生まれた。
真正面の打ち合いではなく、間合いと視線と位置取りで押し合う稽古だ。
組は、ルーソルとフーガ。
相手は、オリビエとユーグ。
フーガが軽く剣を回した。
「行くぞ」
「うん」
ルーソルは短く答え、剣を構える。
軽い。
無駄がない。
足運びも、視線も、いつも通りに見える。
フーガが先に動いた。
踏み込みでオリビエの視線を引き、ルーソルが横からユーグへ入る。
いつもなら、その流れだけで相手の位置が崩れる。
だが、踏み込む直前。
空の高さが脳裏をよぎった。
落ちる風。
冷えた空気。
胸の奥に残っている、説明できない熱。
そして、赤を含んだ光。
ルーソルは奥歯を噛む。
集中しろ。
自分に言い聞かせる。
しかし、反応がわずかに遅れた。
ユーグの剣が袖口を掠める。
砂が舞った。
「……ち」
ルーソルは低く息を吐く。
フーガがすぐに間へ入った。
ユーグの追撃を受け流し、オリビエの踏み込みを外へ逃がす。
「無理すんな」
低く、フーガが言う。
「してない」
ルーソルは返す。
身体は動く。
目も追えている。
判断もできている。
それなのに、意識だけがどこかで散っている。
オリビエがそれに気づき、攻め筋を変えた。
ユーグも無言で角度を詰める。
狙われている。
ルーソルは受ける。
受けて、返す。
フーガが横から支える。
形は崩れていない。
だが、いつもの滑らかさがない。
「そこまで」
アストロフの声が落ちた。
四人が止まる。
剣を下ろす音が、砂地に重なった。
アストロフはゆっくりと視線を巡らせた。
「本日の総括を申し上げます」
誰も動かない。
「全体としては悪くありません。ですが――」
最初に向いたのは、エルドウルフだった。
「殿下。踏み込みが浅い」
「分かっている」
「分かっていて直っていません。思考が剣に乗っています」
声は平坦だった。
「実戦では死にます」
エルドウルフは否定しない。
「……別のことを考えていた」
「稽古中はいけません」
当然のことだけを、アストロフは告げた。
次に視線が移る。
「ロワール小公爵」
ルーソルの肩がわずかに止まった。
「反応が遅い」
「承知している」
「視線が散っています。集中が切れています」
理由は問わない。
ただ事実だけを置く。
「次はありません」
「……はい」
ルーソルは目を伏せた。
アストロフはそれ以上言わなかった。
「以上。解散」
剣が下ろされる音が重なる。
護衛騎士たちが散開し始める。
アンリが肩を回しながら近づいてきた。
「珍しいな。二人そろって集中切れとか」
フーガが鼻で笑う。
「朝から頭がいっぱいなんだろ」
エルドウルフは何も言わない
ルーソルも黙っている。
アンリがちらりと二人を見た。
「違うか?」
エルドウルフが先に口を開いた。
「違う」
即答だった。
ルーソルはわずかに口元を歪める。
「違わない顔してるぞ」
アンリが笑う。
「まあいい。死ななきゃ問題ない」
言い方は軽い。
だが目は笑っていなかった。
エルドウルフとルーソルの視線が、ふと交わる。
確認のようで、問いではない。
どちらも、すぐに逸らした。
「午後、空けろ」
エルドウルフが低く言う。
ルーソルはわずかに目を細めた。
「了解」
そこで話しは終わった。
遠く、回廊の影。
群青の髪が、朝の光を受けてわずかに揺れた。
エルドウルフは振り向かない。
だが、気づいている。
呼吸が、ほんの少し変わった。
◇◇
午後の陽はまだ高かった。
城門を抜けたところで護衛は止めてある。
人払いも済んでいた。
二人は並んで歩いた。
言葉はない。
石畳が途切れ、足元が草地に変わる。
丘の上は視界が開けていた。クワルノーの街並みが一望できる。
夏の光を受けた屋根。
川港へ続く道。
城壁の影。
遠く、まだ白く霞む山並み。
ルーソルが立ち止まった。
「ここだよ」
背負っていた筒から紙を取り出し、真鍮の重しを並べる。
コンパスを開き、角度を測り、地面の印と紙を繋いでいく。
さらさらと線が走った。
エルドウルフは少し離れて立ち、それを見ていた。
風が吹く。
草が揺れる。
紙の端が小さく鳴る。
「あの山、ここからだと高く切り立って見えるけど、裏側は窪んでた」
ルーソルは顔を上げないまま言った。
「猟師も入らない場所らしい。地図にも載ってなかった」
「……ああ」
「昨日の測量点とも繋がる。思ったより早かった」
「そうか」
返事は短い。
ルーソルは紙の端を押さえ直した。
「昨日、アザンクールの上も飛んだんだけど、フィーラ様、街道の勾配まで見えてた」
少しだけ笑う。
「説明は相変わらず独特だったけど、不思議と分かった」
エルドウルフの口元がわずかに動く。
「子供みたいな表現をする」
「そう。でも、分かる」
ルーソルは紙の山筋を指でなぞった。
「古い地図じゃ分からなかったけど、西の山脈は繋がっていると思うよ」
エルドウルフの視線が地図へ落ちる。
「採掘場の裏山と」
「ああ」
「ニカの山脈も、次、確かめてくる」
「そうか」
風が吹く。
紙の端が揺れた。
「もし本当に同じ山脈なら、石英脈も続いているかもしれない」
ルーソルは静かに言った。
「金も宝石も、西だけの話じゃなくなる」
エルドウルフはしばらく黙っていた。
遠く霞む山並みを見る。
「だから地図が必要だ」
低い声だった。
「どこに道を通すか、どこに街を作るか。どこに兵を置くか、何が埋まっているか」
ルーソルは頷いた。
「全部変わるね」
「そうだ」
風が草を揺らす。
クワルノーはまだ若い領地だった。何があり、何が無いのか正確に知る者は誰もいない。だから今線を引いている。未来の為に。
「……お前が戻る前に決まってたんだ」
ルーソルは話題を変えた。
地面の印を靴先で確かめる。
「数字に強いからって、ゴディエが俺を指した。エランも、お前なら了承するだろうって。ほとんどその場だったよ」
エルドウルフは黙って聞いていた。
「……そうか」
責めてはいない。
だが、納得した声でもなかった。
ルーソルは紙に視線を落とす。
「アザンクールとアンジュールあたりの境界線は、ほぼ引けた。思ったより、ずっと早く」
風が強く吹いた。
紙の端が持ち上がり、真鍮の重しが小さく鳴る。
「すごいな」
短い言葉だった。
ルーソルは紙を押さえたまま、少し笑う。
「うん」
そこから先が続かない。
エルドウルフはしばらく待ったが、問いは置かなかった。
「助かったのは事実だ」
代わりに、そう言った。
ルーソルは目を伏せる。
「……そうだね」
静かな返事だった。
測量の紙に、また線が増える。
さらさらと乾いた音が丘の上に残った。
少ししてから、エルドウルフが問う。
「飛んで見えたのか」
静かな問いだった。
ルーソルの手が、ほんのわずかに止まる。
「……そうだよ」
答えは、いつもの声に戻っていた。
「高かったからね」
嘘ではない。
ただ、それだけではない。
エルドウルフは流さなかった。
「昨夜も言った」
ルーソルが顔を上げる。
「お前が不調になるなら、やめろ」
風が草を倒した。
ルーソルは少し黙った。
「飛行酔いくらいだよ」
「くらい、で済ませるな」
「地図は必要だろ」
「必要だ」
「なら」
「必要なものは、別の方法でも作れる」
昨日と同じ言葉だった。
「時間がかかる」
「かかるな」
「空から見れば早い」
「早いな」
「じゃあ」
「お前の身体を削ってまでやることじゃない」
ルーソルはそこで言葉を止めた。
エルドウルフの声は荒くない。
だが、退かない声だった。
「フィーラの力を使うなとは言わない。今後も使う」
低く、はっきりした声。
「軍事にも、領地経営にも、緊急時にも必要になる。だから頼る。使う。だが、当然にはしない」
エルドウルフはルーソルを見る。
「まして、お前が倒れるならやめる」
「倒れてない」
「晩餐を抜いた」
「戻しそうだったから」
「それを不調と言う」
ルーソルは苦笑しかけた。
軽く流してしまえば終わるはずだった。
けれど、うまくいかなかった。
飛行酔い。
そういうことになっている。
嘘ではない。
実際、身体は空に酔っていた。
だが、本当はそれだけではなかった。
フィーラの光が満ちていたあいだ、寒さも、高度も、速度も、ほとんど苦にならなかった。
空に合わせられていた身体が、城へ戻る頃になって、急に生身の重さを思い出した。
胸の奥にあった熱が薄れる。
繋がっていたものがほどける。
その途端、足元の遠さと風の速さが、一気に戻ってきた。
だから、ふらついた。
飛行酔い。
そう言えば嘘にはならない。
けれど、それだけではない。
血のことも、フィーラの力のことも、身体の奥に残った説明しがたい感覚も、ここでは口にできなかった。
「……本当に、飛行酔いだよ」
エルドウルフはしばらくルーソルを見ていた。
青い目が静かに細まる。
「なら、次は短くしろ」
「うん」
「高度も控えろ」
「分かった」
「休憩を入れろ」
「入れる」
「フィーラにも確認しろ」
「もちろん」
その返事だけは、少し早かった。
エルドウルフの眉がわずかに動く。
ルーソルは、それを見た。
「……なに」
「別に」
「今、嫌そうな顔した」
「してない」
「したよ」
「してない」
いつものやり取りの形だった。
けれど、いつもほど軽くはない。
ルーソルは少しだけエルドウルフを見る。
その顔にあるものを、たぶん自分は分かっている。
けれど今日は、そこを突いて笑う気にはなれなかった。
「……分かったよ」
ルーソルは視線を紙へ戻した。
「次は、ちゃんとフィーラ様にも確認する。俺も無理はしない」
「そうしろ」
「でも、地図は進める」
「ああ」
「必要だから」
「分かっている」
そこでようやく、ルーソルは少し笑った。
「こういう時だけ、ほんとに頑固だよな」
「お前ほどじゃない」
「俺は柔軟だよ」
「無理を通す時だけな」
「ひどいな」
言葉の軽さが、少しだけ戻った。
けれど、完全には戻らない。
ルーソルは地図に新しい線を加えた。
エルドウルフはその横で、山並みを見ていた。
午後の光の中で、二人は同じ地図を見ている。
けれど互いに、地図には描かれていない線をひとつずつ隠していた。
「この先、もう少し西まで取るよ」
ルーソルが言った。
「ただし、短く。高度は控えめ。休憩あり。フィーラ様の確認つき」
「忘れるな」
「忘れないよ」
風が草を揺らす。
エルドウルフは紙の端を一度見てから、先に歩き出した。
「行くか」
「うん」
二人は並んで歩く。
歩幅は自然に揃った。
幼い頃から、何度もそうしてきたように。
けれど、その間にはまだ言葉にならないものが残っている。
二人はそのまま、丘を下りていった。
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