6章1幕(10)第44話 〜朝の音〜
階段を降りるたび、城の空気が変わっていく。
四階は静かだった。
三階には、生活の気配がある。
朝の光が廊下の窓から差し込み、磨かれた床に細く伸びていた。
ネレアの一歩後ろを、フィーラは静かに歩く。
三階の角を曲がったところで、ぱたぱたと軽い足音が近づいてきた。
「姫さま、おはようございます!」
元気な声と一緒に、深く頭が下がる。
栗色の髪をきっちりまとめた少女だった。
「おはよう、サラ」
ネレアが短く頷く。
サラは顔を上げると、すぐにフィーラの歩幅を見て、半歩だけ横へ下がった。
邪魔にならず、必要な時には手が届く位置だった。
ネレアはその動きを見て、ひそかに頷く。
フィーラの身の回りには、よく気づく手が要る。
衣服を整え、茶を淹れ、湯浴みを手伝うだけなら、年嵩の侍女でも足りる。
けれど、それだけでは足りない。
フィーラはまだ、人の暮らしを覚えている途中だった。
朝の挨拶。
髪飾りの選び方。
天気の話。
甘い菓子を前にした小さな喜び。
言葉にするほどではない、少女たちの他愛ないやり取り。
そういうものを、教えるのではなく、隣で一緒に分け合える娘が必要だった。
だからネレアは、華やかさではなく、目を選んだ。
姫をよく見る目。
踏み込みすぎず、怯えすぎず、必要な時には自然に声をかけられる目。
サラの半歩は、その条件を満たしていた。
そして――
その背後から、もう一人が顔を出した。
「おはようございます、姫さまっ」
ふわふわした金髪。
目がきらきらしている。
サラより一つ歳下のルイーズ。
ルイーズは、フィーラを見るなり表情を明るくした。
その視線が、ほんの少しだけ上へ泳ぐ。
四階から降りてきた。
つまり、今朝も同じ場所にいた。
考えたことが、ほとんど顔に出ている。
「ルイーズ」
ネレアが名を呼んだだけで、ルイーズの背筋が伸びた。
「はい」
「朝から余計な想像はしないように」
「しておりません」
返事は早かった。
ただ、早すぎた。
サラが隣で、何事もなかったように一礼する。
「朝のお茶のご用意が整っております」
フィーラは素直にそちらを見た。
「おちゃ、のむ」
小さな丸卓には、淡い琥珀色の茶と、小さな焼き菓子が二つだけ用意されていた。
窓から差し込む薄い朝の光が白い湯気をやわらかく透かし、茶葉と花のほのかな香りが静かに漂っている。
フィーラが椅子に座ると、ネレアも向かいへ腰を下ろし、サラとルイーズも控えすぎない位置に着いた。
侍女たちにとって、朝の相伴は役目のうちだった。
茶を淹れ、言葉を交わし、姫の気分をやわらげる。身の回りを整えるのと同じくらい、大事な仕事である。
フィーラは両手でカップを包み、ひと口飲んだ。
「あったかいね。いい匂い。」
立ちのぼる湯気が頬をかすめ、やさしい花の香りが鼻先をくすぐる。
「本日は橙花の入った紅茶ですよ」
サラが穏やかに言う。
ルイーズがすぐに身を乗り出した。
「姫さま、今日はよくお休みになれましたか?」
ネレアの視線が飛ぶより早く、ルイーズは自分で口を押さえた。
「いえ、変な意味ではなく」
フィーラは首をかしげ、それから小さく頷く。
「ねたよ」
「それはようございました」
サラが微笑む。
ルイーズもほっとしたように胸を撫で下ろした。
しばらくは、ほんの軽いおしゃべりだった。
丸卓の上では湯気がゆるやかに揺れ、焼き菓子の甘い香りが茶の香りに溶け込んでいる。
その向こうで、ルイーズがふいにうっとりした顔になる。
「それにしても姫さま、朝からほんとうにお綺麗です……」
サラも静かに頷いた。
「ええ。気だるさもなくて、まるで朝の光そのものみたいです」
フィーラは瞬きをした。
「……そう?」
「そうです!」
ルイーズは力いっぱい言った。
「かわいいし、きれいです!」
ネレアがわずかに口元を緩める。
「寝起きに頬がむくむこともなく、髪も乱れず、肌も荒れず。姫さまは本当に手のかからない方ですね」
フィーラは少し考えて、それからぽつりと言う。
「エルドウルフ、あさ、かみはねてた」
一瞬、空気が止まった。
「えっ」
ルイーズの目がみるみる輝く。
ネレアが静かに目を閉じた。
「姫さま、それを今ここで仰るのは――」
「はねてた。ここ」
フィーラは自分の頭の横をちょこんと押さえる。
ルイーズは両手で口を覆った。
「そんな……そんなことが……!」
「落ち着きなさい」
ネレアが低く言う。
「ですがネレア様、あの殿下の髪が……!」
「整っていない朝くらいあるでしょう」
「でも姫さまがご覧になったということはつまり」
「そこまでです」
ぴしゃりと言われ、ルイーズは背筋を伸ばした。
「……はい」
それでも頬は緩みきっていた。
フィーラは湯気の向こうでそれを見て、小さく笑った。
やがてカップが空になる。
ネレアが静かに言った。
「少し城内を歩きましょうか」
フィーラは素直に頷いた。
「うん。あるく」
サラが一歩前へ出て扉を開ける。
その動きに迷いはない。フィーラが通りやすい幅だけを確保し、自分は邪魔にならない位置へ下がる。
一方で、ルイーズは一歩後ろに控えたまま、何かを必死に胸の内へ押し込めていた。
朝の光。
跳ねた白金の髪。
ご機嫌な姫さま。
考えていることは、見なくても分かる。
「ルイーズ」
ネレアが名を呼ぶ。
「大丈夫です」
返事だけは早かった。
ネレアは追及せず、歩き出す。
サラが扉を押さえ、ルイーズは口を結んだまま続いた。
南館は、動き始めていた。
使用人たちが行き交い、窓から入る風が薄いカーテンを揺らしている。
磨かれた床には水を与えたばかりの鉢植えの花の影が落ち、遠くからは食器の触れ合う小さな音が聞こえた。
フィーラは歩きながら、きょろきょろと周囲を見る。
「この城、あさ、すき」
「静かでございますから」
ネレアが答える。
「昼はにぎやか?」
「はい。とても」
ルイーズが、思わず深く頷いた。
「殿下が起きられると、一気に戦場になりますからね」
ネレアがゆっくり振り向く。
ルイーズは、口を閉じた。
「……比喩です」
「その通りです」
直るのは早かった。
サラが何事もなかったように視線を前へ戻す。
フィーラだけが、少し不思議そうに首を傾げた。
「せんじょう?」
「忙しくなる、という意味でございます」
「エルドウルフ、いそがしい」
「はい。とても」
その答えに、フィーラは小さく頷いた。
階段を下り、内庭へ続く回廊へ出た時だった。
澄んだ金属音が、朝の空気を切った。
カン、と高く響く。
フィーラの足が止まる。
それは、食器の触れ合う音とも、扉の開く音とも違っていた。
朝の城の中で、そこだけ空気が硬くなる音だった。
「……おと」
ネレアは小さく頷いた。
「朝の剣術稽古です」
回廊の向こうから、また音が届く。
今度は少し低い。剣と剣が噛み合い、すぐに離れる音だった。
ルイーズの目が輝く。
「ご覧になりますか?」
フィーラはもう、音のする方を見ている。
群青の毛先が、朝の光を受けて細く光っていた。
「見たい」
決定だった。
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