6章1幕(9)第43話 〜起きている、起きていない〜
カーテンの隙間から、朝の光が細く差し込んでいた。
四階寝室には、まだ夜の名残が薄く残っている。
厚い布に包まれた寝台も、磨かれた床も、窓辺の水差しも、目覚めきらない城の静けさの中にあった。
広い寝台の片側で、エルドウルフは眠っていた。
白金の髪が枕の上に散っている。片側だけ、妙に跳ねていた。
呼吸は規則正しい。深く、乱れがない。
戦場であれば、物音ひとつで意識を戻す。天幕の外を踏む靴音、剣帯の金具が触れる音、馬が鼻を鳴らす気配。そうしたものに、エルドウルフは誰より早く反応する。
けれど、ここでは動かない。
城の四階。
閉ざされた寝室。
隣には、フィーラがいる。
それだけで、彼の眠りは少し深くなる。
フィーラは先に目を覚ましていた。
横向きになったまま、じっとエルドウルフを見ている。
寝ているときだけ、少し幼く見える顔。
閉じられた瞼。朝の光を受けて淡く光る髪と睫毛。
その髪の一房が、やはり跳ねている。
フィーラは、そっと指を伸ばした。
押す。
ぴょん、と戻る。
もう一度、押す。
戻る。
フィーラは目を瞬いた。
楽しい。
もう一度。
「……なにしてる」
低い声が落ちた。
けれど、目は閉じたままだった。
「おきてる?」
「起きてない」
返事は早かった。
フィーラは首をかしげる。
「しゃべってる」
「無意識だ」
「うそ」
薄く目が開く。
朝の青い瞳は、まだ焦点が甘い。戦場で見せる冷えた光も、会議の席で見せる硬い判断も、そこにはない。目覚めの底から、まだ半分だけ戻ってきたような色だった。
「……何時だ」
「しらない。ネレアが来ればおきるじかん」
その一言で、エルドウルフの眉がわずかに寄った。
カーテンから差し込む光で、もう起きなければならない時間だと分かる。
分かっている。分かっているが、身体がすぐには動かない。
フィーラは覗き込む。
「おきないの?」
「……もう少し」
低く、眠い声だった。
フィーラはその声を聞いて、しばらく黙っていた。怠惰というより、深いところからまだ戻りきっていないのだと分かる。戦場では許されない遅さ。けれど、この部屋では許されている遅さ。
だから、フィーラは真面目な声で呼んだ。
「エルドウルフ」
片目が開く。
「なに」
「ねぐせ」
沈黙が落ちた。
エルドウルフはゆっくり手を上げ、自分の髪を撫でる。
跳ねている。
「……」
フィーラは堪えきれず、小さく笑った。
「へん」
「……うるさい」
声に棘はなかった。
その時、扉の向こうで控えめなノックが響いた。
「殿下。お目覚めでいらっしゃいますか」
ネレアの声だった。
エルドウルフの意識が、そこで切り替わる。
「入れ」
声が変わった。
寝台の上で身を起こしたときには、もう王太子の声になっている。眠気は残っているはずなのに、言葉の輪郭は戻っていた。
ただし、髪は戻っていない。
白金の片側が、跳ねたままだった。
扉が開き、ネレアが静かに入ってくる。
寝室の入口で一礼した彼女の視線が、ほんのわずかに止まった。
寝癖。
けれど、ネレアは何も言わなかった。
完璧な侍女長だった。
「姫さま、お迎えに上がりました」
フィーラはベッドの端に座ったまま振り向いた。
「もう、朝?」
「はい。準備も整っております」
エルドウルフは片手で顔を覆い、小さく息を吐いた。
「……連れて行ってくれ」
声はまだ低い。
フィーラは素直に頷き、寝台から降りた。裸足が床に触れ、小さな音を立てる。
ネレアは扉のそばに置いた衣装箱を開いた。
四階寝室に入る女は、ネレアだけだ。
だから朝の簡易支度も、彼女が一人で済ませる。
寝室の一角には、薄い布を張った衝立がある。
フィーラがその陰へ入ると、ネレアの手はすぐに動いた。
夜着を外し、柔らかな下衣の上に、背中の大きく開いた薄手のブラウスを着せる。その上から身体に沿う短い胴着を重ね、膝丈のキュロットを穿かせた。動きやすいよう裾を整え、髪を軽く梳き、最後に外歩き用の薄い上着を肩へ掛ける。
手順に迷いはない。
フィーラがまだ半分ほど眠たげに瞬きをしているあいだに、朝の姿は整っていた。
「できました」
「はやい」
「姫さまが動かれないので」
「うごいたよ」
「少しだけです」
フィーラは小さく首をかしげたが、反論はしなかった。
「殿下、本日のご予定は侍従より後ほど」
「分かっている」
短い返事。
すでに思考は切り替わっている。
だが髪だけは切り替わっていない。
片側が、ぴょん、と跳ねている。
フィーラは振り返り、じっと見る。
エルドウルフがその視線に気づく。
「……行け」
「ねぐせ」
「行け」
今度は即答だった。
フィーラは小さく笑い、ネレアに手を引かれる。
寝室の扉が静かに閉まった。
エルドウルフは、少しのあいだその扉を見ていた。
部屋に、静けさが戻る。
窓の外はすでに明るい。
中庭では使用人たちが動き始め、水を運ぶ音や、石畳を掃く音がかすかに届いていた。
鏡を見る。
白金の髪が、片側だけ跳ねていた。
指で押さえる。
戻る。
「……」
エルドウルフは小さく息を吐き、諦めた。
――来週、休みを作る。
自分で決めた。
もう明日のことだ。
その一点だけを確かめる。
ほどなくして、控えていたバトラーが音もなく入ってきた。
寝間着の上からガウンを掛け、洗面と着替えの支度を整える手つきに無駄はない。
「おはようございます、殿下」
「おはよう」
返す声は、もう眠りの中にはなかった。
短いやり取りのあいだに、寝間着は外され、今日の衣服が順に整えられていく。
「本日のご予定を」
差し出された紙を受け取ることもなく、エルドウルフは袖を通しながら顎を引いた。
「言え」
「午前は剣術稽古、その後、小会議。当日請求にて、モルヴィエ伯、ヴィリエ伯との謁見が二件入っております」
「印章は確認したか」
「はい。両家とも家紋印に相違ございません。お時間はいかがいたしますか」
「謁見は夕方の会議後に回せ。午後は外へ出る」
「承知いたしました。そのように手配いたします。では、明日は?」
確認の声に、エルドウルフは目を上げる。
「空ける」
未来形でも予定でもない。
決定だった。
バトラーは一礼した。
「かしこまりました」
衣服が整う。
腰帯が締まり、袖口が収まり、王太子の姿が出来上がっていく。
来訪もある。
調整も必要だ。
だが、それは問題ではない。
空ける。
それだけのことだった。
◇◇
朝食の席には、すでに三人が揃っていた。
パンの籠、温かいポタージュ、焼いた鹿肉と卵、白インゲン豆の煮込み。数種類の果物。
量は多い。誰も遠慮しない食卓だ。
最後に入ってきたエルドウルフは、椅子に腰を下ろすなりパンを一つ掴んだ。
「寝坊か?」
アンリが笑う。
「予定通りだ」
即答だった。
アンリは杯を持ち上げ、愉快そうに肩を揺らした。
「今日は俺が起こしに行く前には起きたからな。偉い偉い」
エルドウルフの目が、わずかに細くなる。
「子ども扱いするな」
「毎朝起こされてる奴が言うな」
フーガが肉を切りながら鼻で笑う。
「寝坊にはかわらんけどな」
「違う。予定通りだ」
ルーソルが小さく笑った。
エルドウルフは白インゲン豆の煮込みに手を伸ばす。
フーガが肩を揺らした。
「まあ、明日も寝過ごしたら起こしてやるさ」
小さな笑いが広がる。
いつもの朝だった。
少なくとも、見た目には。
エルドウルフはパンを噛みながら言った。
「稽古の後、小会議。午後は城下を見る。戻って会議、その後に謁見二件」
アンリが眉を上げる。
「休み前日だぞ」
「だからだ」
全員がわずかに止まる。
エルドウルフは皿に視線を落としたまま続けた。
「明日、街に出る――はずだ」
フーガが、にやりとする。
「ははん。予習だな?」
「違う」
「違わねぇだろ」
フーガがパンを掴む。
「巡視入れて謁見二件だと?無理あるだろ」
アンリが肉を切り分け、エルドウルフの前に置いた。
「豆ばっか食うな。肉も食え」
エルドウルフの視線が、皿の上の肉へ落ちる。
「……」
ほんのわずか、エルドウルフの表情が曇る。
それでも黙って一切れ口に運んだ。
「休む気ねぇな」
「休む」
即答だった。
アンリが吹き出す。
「はいはい」
空気が少し軽くなる。
その中で、ルーソルだけが静かにスープを口へ運んでいた。
笑ってはいる。
声も、表情も、いつも通りだ。
ただ、いつもならそこで一言挟むはずだった。
エルドウルフが「休みだ」と言い張れば、ルーソルはたいてい、穏やかな顔で逃げ道を塞ぐ。
あるいは、もっと上手く、笑い話に変える。
今朝は、それがない。
エルドウルフは肉を噛みながら、ちらりとルーソルを見た。
「体調は戻ったのか」
何でもない声だった。
ルーソルはすぐに顔を上げる。
「ああ。もう大丈夫。昨日は少し酔っただけだよ」
答えは早い。
早すぎるほど、整っていた。
「そうか」
エルドウルフはそれ以上聞かなかった。
ルーソルも、それ以上言わなかった。
アンリが二人を見比べ、何か言いかけて、やめた。
フーガは気づいているのかいないのか、肉を口へ放り込む。
「姫さまの空の旅だからな。慣れるまでは来るだろ」
「そうだね」
ルーソルは笑った。
「次はもう少し、うまくやるよ」
その言い方に、エルドウルフの指がほんの少し止まった。
次。
それは合理的で、当然で、すでに決まったことだった。
エルドウルフは白インゲン豆を口へ運んだ。
いつもの席。
いつもの朝。
いつもの食卓。
ただ、言葉にならないものが、皿と皿の間に薄く残っていた。
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