6章1幕(7) 第41話 〜均衡のほころび〜
ルーソルとフィーラは定刻通り、クワルノー城の屋上に降り立った。
高空から一気に高度を落とし、石床すれすれで速度を殺す。
巻き上がった風が、待っていたエルドウルフの白金の髪を揺らした。
屋上には、エルドウルフとアンリだけがいた。
フィーラはルーソルの手を離して着地させると、迷いなくエルドウルフの前へ進んだ。
「次も、はこべる」
当然のように差し出された手を、エルドウルフは取る。
「ああ」
フィーラは満足したように彼を見上げた。
「ルーソルも、ご苦労」
声をかけられたルーソルは、肩の鞄を押さえたまま小さく息を吐いた。
「うん。……少し、酔ったみたいだ」
一歩踏み出した足元が、わずかに乱れる。
「おい、大丈夫か」
アンリが手を伸ばす。
「大丈夫。ありがとう」
ルーソルは軽く笑って、その手をやんわり避けた。
高いところを長く飛んだのだ。
馬車酔いのようなものだろうと、二人は受け取った。
フィーラだけは、すぐにルーソルのそばへ戻った。
「ルーソル、だいじょうぶ?」
「大丈夫だよ。少し休めば戻る」
フィーラはもう一度ルーソルの顔を見た。
それから手を取った。
「階段、いっしょに行く」
そう言って、フィーラはルーソルの袖を掴む。
つい先ほどまでエルドウルフの前で誇らしげに手を差し出していたのに、もう意識はルーソルの足元へ向いていた。
ルーソルは少し困ったように笑う。
「助かる。さすがに少し足元が怪しい」
「うん。ゆっくり」
フィーラは真剣にうなずき、ルーソルの手を取った。
二人はそのまま並んで、階段へ向かう。
エルドウルフは、その背中を見ていた。
フィーラにとっては、ただ順番が変わっただけなのだろう。
報告を終えた。
次は、酔ったルーソルを階段まで連れて行く。
それだけだ。
だが、エルドウルフの手には、離された温度だけが残っていた。
階段の扉が開き、二人の姿が消える。
屋上に、風だけが戻った。
隣で、アンリが顔を伏せる。
肩が、ほんのわずかに揺れた。
「……三時間だろ」
笑いを噛み殺したまま、低く言う。
「初めてで平気な方が珍しい」
返事はない。
エルドウルフは、階段の扉を見たままだった。
「あとで様子を見てくる」
少し間を置いて、低い声が返る。
「……頼む」
風が屋上を横切り、白金の髪を静かに揺らした。
◇◇
夕方の報告会でのエルドウルフは、表面上はいつも通りだった。
声は落ち着いている。
視線もぶれない。
書類の束を手元で揃える癖まで変わらない。
ただ、空気だけが違った。
本来のエルドウルフは、役人に完璧を求めない。
数字が多少荒くても、方向が合っていれば通す。
報告に穴があっても、致命傷でなければその場で詰め切らない。
足りないところは、あとで自分が拾えばいい。
エランに回す。
ゴディエに確認させる。
ルーソルに線を引かせる。
必要なら自分で机に残って、実務の上から補えばいい。
それが一番早い。
役人には役人の限界があり、領地には領地の速度がある。
すべてを王太子の基準で削れば、書類は整っても、人が先に折れる。
だから普段は、及第点でよかった。
締めるところは締める。
流すところは流す。
足りない分は、王太子宮の内側で補う。
それで回してきた。
だが今日は、その寛容さが影を潜めていた。
「――計算が違う。再計算しろ。この傾きでは、水が流れない」
「中央四区の出入りの登記が、先月の記録と食い違っている。理由を出せ」
「河口桟橋付近の市場の入札申請。締切はどうなった」
指摘が、淡々と、しかし途切れなく飛ぶ。
声を荒らげるわけではない。
机を叩くわけでもない。
それでも、紙が一枚めくられるたび、会議室の空気は小さく硬くなっていった。
エランは一瞬だけ目を見張り、それから口元をわずかに緩めた。
予定通りだ、と言わんばかりの顔だった。
他方、役人たちは戦々恐々としていた。
汗がにじむ者もいれば、言葉の端が上ずる者もいる。
視線を落としたまま、次に自分の資料が開かれないことを願う者もいた。
会議室の空気は、静かなまま、叱責より重くなっていく。
小休憩に入った頃には、場の空気はすっかり擦り減っていた。
エルドウルフは、それを分かっていた。
怖がっている者。
頼っている者。
自分の報告が崩される前に、言い訳を探している者。
どれも、見れば分かる。
それでも今日は、そこに合わせて指摘を緩めるところまで意識が戻ってこない。
数字が違えば、備蓄が足りなくなる。
工期がずれれば、人が死ぬ。
報告の穴を見逃せば、次に崩れるのは現場だ。
だから拾う。
だから切る。
だから決める。
そこに、優しさや厳しさの名前をつける必要はなかった。
役人たちの目の前にいるのは、ただの若い王族ではない。
幼い頃から優秀だと知られた王子。
十二で初陣を果たし、戦場で名を上げた者。
十六で兄二人を差し置いて立太子した、シュバリエの王太子。
その経歴は、役人たちにとって圧だった。
若すぎる。
鋭すぎる。
そして、あまりに隙がない。
だが、エルドウルフ自身にとって、それは特別なものではなかった。
王家に生まれた。
継承権があった。
国境には戦があり、王になる可能性がある者には満たすべき条件があった。
だから準備した。
だから学んだ。
だから鍛えた。
だから戦場に出た。
十二で初陣を迎えたのも。
十六で立太子したのも。
戦場で勝ち続けるしかなかったのも。
すべては、その立場にいたから起きたことだった。
必要な順に並べただけの人生だった。
学び、鍛え、戦い、決める。
それが王になる条件なら、そうするしかない。
誇ることでも、嘆くことでもない。
選択ですらない。
前提条件だ。
休憩の間、エルドウルフは左手で炒ったアーモンドを掴み、口に放り込んだ。
机に脚を乗せ、椅子を揺らす。
会議室の視線が集まっているのが分かった。
期待。
信頼。
安堵。
それから、少しの畏れ。
全部、理解できる。
この場の者たちは、自分に決めてほしいのだ。
見落としを拾い、曖昧なものを切り分け、進むべき方向を示してほしいのだ。
それも分かる。
だが、別に重くはない。
重責だと思えば重責なのだろう。
期待だと思えば期待なのだろう。
けれど彼にとっては、ただの事実だった。
王太子である。
人より先に見なければならない。
人より早く決めなければならない。
決めた以上、責任を負わなければならない。
そういう立場なのだから、そう振る舞う。
それだけのことだった。
ただ、今日は――少しだけ均衡が悪い。
椅子を揺らす足が、わずかに強くなる。
思考はすでに次へ移っていた。
来年の人口推移。
水路の延伸。
セシール川の砂。
第二城壁の建材の搬入順。
西の採掘場から切り出した安山岩の残量。
次の瞬間、揺らしていた椅子がふいに均衡を失った。
「――っ」
身体が宙に浮く。
どさり、と鈍い音。
少し遅れて、
「痛っ!」
その場にいた全員が目を見開き、次の瞬間、笑いが弾けた。
戦争の英雄であり、王太子の、あまりに締まらない姿だった。
床に仰向けになったまま、エルドウルフは天井を見つめる。
やがて視線が窓の外へ流れた。
夕焼けの近い空。
その下に、完成した城壁の端が見える。
灰黒い石肌。
クワルノーの城壁に使われている安山岩だった。
それを見た瞬間、数日前に見た採掘場の光景が不意に蘇る。
フィーラが山肌に入れた切り込みは、遠目にも分かるほど大きく正確だった。
まるで巨大な刃で断たれたあと、さらに線を引いたかのように、安山岩の壁面はきれいに割れていた。
その奥に、白い筋が一本走っていた。
石工は、質の違う石が混じったとしか見ていなかった。
建材としてはむしろ嫌がる場所だ。
硬さが違う。割れ方が違う。積み石には向かない。
だが、あれが石英層なら話は別だった。
石英そのものを城壁に使う気はない。
けれど、山の奥に別の鉱が眠っている可能性はある。
第三城壁まで見越すなら、いずれ確かめる価値があった。
そのうえで、思考はさらに別の方向へ落ちる。
山を割る。
石を裂く。
砕くのではなく、狙った線だけを通す。
自分には神力がある。
伐採も、採掘も、破砕も――やろうと思えばできる。
問題は、力の加減だった。
出力の調整が、致命的に下手だ。
――フィーラに教わろう。
糸のように細く、鉄のように折れない光の使い方を。
思考はそのまま沈んでいく。
周囲の気配が遠くなる。
「エルドウルフ、頭を打ったのか?」
「殿下、お怪我は?」
声が飛ぶ。だが届かない。
意識は、すでに内側へ潜っていた。
身体を巡るマナの流れをなぞる。
太い道、細い道。長い道、短い道。深い道、浅い道。
――整っている。ひどく分かりやすい。
貯蔵する器官はない。
必要な時に、必要な分だけ絞り出す。
枯渇すれば倒れる。単純な理屈だ。
幼い頃、光の玉を作れた。
ただ光るだけの、意味のない光。
だが――違う。
光に力を与え、形を持たせる。
出力を下げるより、その方が扱いやすい。
刃にも、糸にも、膜にも――
「殿下」
エランの声が、静かに落ちた。
「戻ってください。ここは会議室です」
その一言で、沈んでいた意識が引き上げられる。
エルドウルフは床に仰向けのまま、瞬きをした。
すぐ上にエランが覗き込んでいた。
「……ああ、悪い。考えごとが止まらなかった」
いつの間にか、すぐそばまで来ている。
その後ろで、役人たちが青ざめた顔をして固まっていた。
エルドウルフは小さく息を吐き、何事もなかったように起き上がった。
自分で椅子を戻し、机の上のアーモンドに手を伸ばす。
呆然とする役人に、エランが軽く言った。
「王太子殿下は集中が深すぎるんです。ぼんやりしていたら、まず場所を伝えてください」
「場所、でございますか……?」
役人が青ざめた声で答える。
エランは肩をすくめた。
「ええ。今どこにいるのか。誰がいるのか。何の途中なのか。意識を外へ戻すには、それが一番早い」
エルドウルフがアーモンドを噛みながら反論する。
「人を寝起きの子どものように扱うな」
「似たようなものです」
「違う」
「では、床で会議をしますか?」
エルドウルフは黙った。
役人たちは言葉を失った。
腹心たちが口々に文句を言い始める。
フーガが腕を組んで鼻を鳴らした。
「井戸の配置を考えてた時な。一時間、呼んでも返事しなかった」
アンリが続ける。
「肩を揺すっても反応なし。息をしているか確認した」
ゴディエが淡々と言う。
「書類を三回落としましたが、瞬き一つしませんでしたね」
エランが苦笑する。
「最終的にどうしたか知っていますか?図面の井戸の位置に、アーモンドを一粒置きました」
役人たちが一斉にエルドウルフを見る。
本人は眉を寄せた。
「……覚えていない」
「食べましたよ」
「そうか」
「起きただろ」
「起きたんだろうな」
「結果よし」
小さな笑いが広がった。
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