6章1幕(6) 第40話 〜別の光〜
「あと二箇所、姫さま。まだ飛べる?」
ルーソルがそう問うた時、二人はすでに三時間以上、空を移動し続けていた。
雲の切れ間から、下界が細く見える。
山並みは波のように連なり、その間を縫う街道は、糸を引いたように頼りない。
宿場町の屋根も、荷馬車の列も、今はもう豆粒ほどだった。
クワルノー領の境界線に沿うように走る山脈は、地上から見れば圧倒されるばかりの壁だ。
だが高みから見下ろすと、その流れには癖があった。
岩肌が露出した尖峰、雪を残す窪地、山腹を巻く古い道、川が支流とぶつかって流れを変える場所。
人が歩けば数日かかる距離が、ここではひとつの連なりとして見える。
ルーソルの胸元には、紙を挟んだ薄い記録板が下がっていた。分度器とコンパスには紐を通し、肩には斜め掛けの革鞄。あとで地図へ落とし込むための紙束や筆記具も、そこへ収めてある。地上で使うものをそのまま持ち込めるわけではないが、測量に必要なだけの道具はきちんと整えて空へ上がっていた。
今日の測量は、地形の要所を点で拾い、あとで地図へ落とし込むためのものだった。
標点にしているのは、古い狼煙台跡の残る岩山の頂と、河川が支流と合流して幅を広げる辺り。
街道が山道へ変わる場所。
逆に、山道が宿場へほどける場所。
馬と人がどこで減速し、どこで荷を下ろし、どこで金が落ちるのか。
その流れを読むには、高いところから見るしかない。
けれど、ここは本来、人間の目が届く高さではなかった。
地上にいる人々から、二人の姿は見えない。
見えたとしても、昼の空の薄青に溶ける白い点か、望遠鏡越しにようやく揺らぐ影程度だろう。
フィーラの羽は大きく開いていた。
月明かりを思わせる白い輝きが、初夏の陽の中でも不思議と色を失わない。
光そのものが薄く膜になって広がっているようでもあり、羽ばたいているというより、空へ受け入れられているようにも見えた。
「だいじょうぶ。つぎ、どこ?」
振り向かずにフィーラが言う。
フィーラは、手を繋いだ相手を自分と同じ空の内側へ入れることができる。抱えるのではない。落ちない場所を、相手の足元にも分けるのだ。
移動の間は手を繋ぎ、標点を見る時だけ、ルーソルの背後から肩へ手を置く。
高度を保ちながら向きを変えるには、それがいちばん安定していた。
ルーソルは胸元の記録板を軽く押さえ、風に煽られないよう紙端を指で押さえた。
繋いだ手に少しだけ力を込める。
「北東の稜線を越えた先だ。ほら、あの尖った峰の左。そこから下る道が、たぶん第二宿場に繋がる」
「わかった」
答えは軽い。
だが、その一言で進路が変わる。
翼がわずかに角度を変えただけで、視界の中の山がするりと位置をずらした。
風の流れが変わる。
高度は落ちない。
むしろ、ひとつ上の層へ滑り込んだように、空気が薄く冷たくなった。
ルーソルは指先を擦り合わせた。
吐く息が白い。
初夏だというのに、ここでは季節の感覚が地上のものと違う。
出る前に厚手の外套を選び、冬の手袋までつけてきた自分を少し褒めていたが、それでも寒かった。
「少し寒いね」
言いながら、自分でも声が少し掠れていると気づく。
「高度が上がると、やっぱり気温が下がる」
フィーラは小さく頷いた。
その横顔はいつも通りで、風に髪を流されながらも平然としている。
群青から水色へ移る長い髪が、陽の下では冷たい炎のように見えた。
「さむくなくする」
そう言って、ルーソルの肩から片手を離しフィーラがするりと前に出た。
「え?」
問いかける間もない。
彼女は前に回り込み、空中で向き直る。
距離が急に近づいた。
その場に留まること自体、人間にはあり得ない。
けれどフィーラにとっては呼吸のように自然な動きなのだろう。
揺れもなく、落下の気配もなく、ただそこにいた。
「すこし分けるね」
何でもないことのように言って、フィーラは自分の唇を噛んだ。
痛みを覚えた様子はなかった。
赤いものが、ほんのわずかに滲む。
ルーソルは息を止めた。
それが何を意味するのか、理解するより早く、フィーラは近づいていた。
儀式でも、誘惑でもない。
彼女にとっては、冷えた者に外套を掛けるのと同じくらい自然な行為だった。
赤を含んだ光が、口の中へ入る。
甘い。
血の味ではなかった。
鉄の匂いも、痛みの気配もない。
ただ、光が溶けたように甘かった。
次の瞬間、胸の奥が熱を帯びた。
凍えていた指先に感覚が戻る。
肺へ入る空気が、もう痛くない。
肩や背に張りついていた冷えが、一気にほどけていく。
それだけではなかった。
視界が、急に澄んだ。
山の尾根の傾きが分かる。
風の流れが見える。
谷がどこへ抜けるのか、川がどこで水量を変えるのか、高度差がどう地形を削っているのか――
さっきまで「見えていた」ものが、今は「理解できる」。
世界が近い。
「わたしの光、少しあげたの」
フィーラは離れながら言った。
あまりにも軽い口調だった。
「これでさむくないよ」
ルーソルは言葉を失った。
体が軽い。
思考が速い。
手足の先まで、知らない力が満ちている。
同時に、胸の奥に奇妙な熱が芽生えていた。
守らなければならない。
彼女を。
胸の奥に浮かんだその思いに、ルーソルはすぐ違和感を覚えた。
親愛ではない。忠誠でもない。
まして、恋ではない。
もっと古い、もっと単純な衝動だった。
光を失わせてはならない。
この存在を、地上で壊してはならない。
その思いは、自分の意思だけで生まれたものではないと分かる。
与えられたものだ。
流れ込んできた光と一緒に、何かが心の深いところへ触れている。
それでも、否定できなかった。
否定したくもなかった。
ルーソルはゆっくりと息を吐いた。
白いはずの吐息は、もう震えていない。
目の前では、フィーラがまた何事もなかったように前を向いている。
羽は大きく開いたまま、月を思わせる白い光を細く引いていた。
「つぎ、あそこ?」
指差した先は、支流と本流がぶつかる河岸だった。
地上では小さくしか見えないその場所も、今のルーソルにははっきり分かる。
川音の強さまで想像できるほどに。
「ああ」
答える声が、自分でも驚くほど落ち着いていた。
「そこだ。あの合流点の少し上流に、渡し場を置ける」
「うん」
フィーラは頷き、進路を変える。
その横顔を見ながら、ルーソルはようやく理解した。
これは、先程までの、ただ空から見下ろすだけの行為ではない。
人の手では届かない高さから、
人の営みを見下ろし、
人の未来を選び取る行為だ。
そして自分は今、その隣にいる。
山脈の流れは、もう途切れた壁には見えなかった。
宿場までの距離も、道の繋がりも、河川の交わりも、すべてがひとつの盤上に並べられたように見える。
決して得られない視座だった。
ルーソルは、もう一度だけ指先を握り開いた。
寒くない。
それどころか、内側に静かな熱が灯っている。
彼は隣を飛ぶ少女へ目を向ける。
守らなければならない。
支えなければならない。
この光を、地上へ正しく降ろさなければならない。
それは、自分の役目だと、
なぜかもう疑えなかった。
白い翼が、陽の中でひときわ大きく広がる。
二人はそのまま、さらに高く、さらに北へと進んでいった。
「……ありがとう、フィーラ様」
少し間が空いた。
「でも、これはエルドウルフには言わないでおこう」
フィーラは理由を聞かなかった。
「いいよ」
ただ頷く。
それで話は終わったのだと、疑いもしない顔だった。
ルーソルはもう一度、静かに息を整えた。
これは言えない。
言えば、エルドウルフはすぐに意味を理解する。
フィーラが人へ何を分け与えたのか。
それが、ただ寒さを和らげただけでは済まないことも。
そしてたぶん、二度と自分をこの高さへは連れて来させない。
しばらくして、ルーソルが口を開いた。
「フィーラ様」
声が少し低い。
「エルドウルフにも、こういうことを?」
フィーラは首を振る。
「ないよ。エルドウルフは自分で取り込めるから。ひつようないの」
ルーソルの指先から、わずかに力が抜けた。
「……そう」
風が二人の間を抜ける。
「他には?」
「天界の子たちと……むかし、少しだけ」
それ以上は続かなかった。
沈黙。
やがてルーソルが笑う。
「すごいな、これ」
遠くを見渡す。
「全部わかる。高さも、風も、地形も」
「役に立った?」
「もちろん」
少し間を置いて、
「また頼みたいくらいだ」
フィーラの顔が明るくなる。
「いいよ! なんかいでも」
次の瞬間、何のためらいもなくルーソルの首へ抱きついた。
ルーソルは一瞬、固まった。
拒めなかった。
拒む理由も、突き放す言葉も、すぐには出てこない。
腕を上げることも、離すこともできず、
ただ空を見上げる。
身体はまだ温かい。
けれど胸の奥には、説明のつかない違和感だけが残った。
甘いものを呑み込んだあとのように、
そこだけ熱が引かない。
ルーソルは目を閉じ、短く息を吐いた。
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