第4話 〜神の眠りに、人は惑う〜
――ハンサンとミッドガロンの戦争は、終わった。
戦場に残された捕虜の収容や負傷兵の手当て、その後の処理はハンサン軍の将校たちへ引き継がれた。シュバリエ側の将校たちは夕刻には戦地を離れ、そこから南にあるハンサン王都へと移っていた。
滞在先として用意されたのは、王宮の別棟にある貴賓室だった。
戦時であろうと賓客を迎える体面を損なうことを嫌う国王が、ことさら誇りにしている一室である。調度も内装も贅を尽くし、この国が戦の最中にあることを、ひととき忘れさせるほどだった。
戦場を発つ際、エルドウルフはフェギスノーラを抱いたままノアに乗ると言って譲らなかった。
ただでさえ連日の戦闘と不眠で疲弊している。そのうえ、意識のないフェギスノーラを抱えて騎乗させるわけにはいかない。腹心たちが止め、結局は二人のために馬車を用意することになった。
普段のエルドウルフなら、多少の傷や疲労を理由に馬を降りることなどない。馬車を勧めたところで、まず聞き入れなかっただろう。
それがこの日は、フェギスノーラを抱いたまま、何の異論もなく乗り込んだ。
五人の腹心にとっては、それだけでも十分に異様なことだった。
エルドウルフは、ハンサンの軍務官や内務官から申し出のあった謁見も、戦勝を祝う宴も、すべて断った。
本来なら、王太子でありシュバリエ軍の総大将でもある彼が応じるべきものだった。だが今夜ばかりは、五人の腹心がそれぞれ役目を分け、代わって対応することになった。
ようやく一通りの話を終え、全員が貴賓室へ戻った頃には、とっくに空に星が瞬いていた。
エルドウルフは、まだフェギスノーラの傍にいた。
何とか説得して甲冑を脱がせ、傷の手当てをし、身体を拭いて着替えまで済ませた。それでも彼は、ベッドに横たわるフェギスノーラから離れようとしなかった。
食事も運ばせたが、手をつけていない。
ベッドの脇に椅子を寄せ、何も言わず、ただ眠る顔を見つめている。
部屋の扉際には、アストロフとオリビエが立っていた。
王都へ入ってからも二人は警護を解かず、主君と、その傍らに眠る少女を黙って見守っていた。
その少し離れた場所に集まった四人の腹心は、アンリを囲んだ。
「……いいかげん、本当のことを言え、アンリ。あれは誰だ。なぜ連れ帰った」
フーガが訊いた。
至極もっともな問いだった。
エランもゴディエもルーソルも、同じ答えを待っている。
――相手が相手だ。軽々しく言えることじゃない。
アンリは小さく息を吐いた。
奇襲を終え、シュバリエ軍の本陣へ戻るまでのあいだにも、配下の兵たちは口々に、あの戦場で起きたことを語っていた。
「神が降臨されて、我々を救ってくださったんだ」
そう断言する者がいた。
「光の雨が降ったのは覚えている。だが、あれは本当に神だったのか? ……夢でも見ていたような気がする」
首を傾げる者もいた。
「殿下が新しい神力を使われたんだろう。あれほどの力だ。さすがは我らの王太子殿下だ」
そう納得してしまう者さえいた。
見たものは同じはずだった。
天空に現れた巨大な光の輪。
音もなく降り注いだ光。
そして、ミッドガロン兵だけが次々と地へ伏していった光景。
それなのに、兵たちの話は噛み合わない。
奇跡が起きたことそのものは覚えている。
だが、誰がそれを起こしたのかとなると、途端に記憶は曖昧になり、それぞれが自分なりの説明を与えていた。
そして不思議なことに、エルドウルフが戦場から一人の少女を抱いて戻ったことについては、ほとんど誰も口にしなかった。
将校たちも同じだった。
王太子の天幕へ運び込まれた時点で、見知らぬ少女の存在そのものは知られていた。だが時間が経つにつれ、「ミッドガロンの捕虜だったのではないか」「戦火を避けて森へ逃れていた者ではないか」と、もっともらしい話へ収まっていった。
何かがおかしい。
腹心たちもその違和感には気づいていた。
だが、戦の直後に確かめる余裕はなく、誰もあえて触れないまま王都まで来た。
アンリ自身には、記憶の欠落がなかった。
あの澄んだ鈴の音も。
さざ波のように立ち上がった無数の光も。
王太子が神に連れていかれると思った瞬間の、胸のひりつくような恐怖も。
そして――エルドウルフが自らその手を引き、神を腕の中へ抱き寄せたことも。
すべて、鮮明に覚えている。
アンリはちらりと扉際へ視線を向けた。
アストロフと目が合った。
その隣で、オリビエもわずかに頷く。
二人も、同じだった。
アンリは観念したように前髪を掻き上げた。
「……闘神フェギスノーラ様だ」
しばし、誰も口を開かなかった。
最初に反応したのはゴディエだった。
「いや。どう見ても人間だろう?」
視線が、ベッドへ集まる。
横たわる少女は、どこから見ても人の姿をしていた。
珍しい群青の髪を除けば、神話に描かれる神々を思わせるような異質さは、今はどこにもない。
呼吸に合わせて胸が小さく上下し、静まり返った広い部屋には、すう、すう、と微かな寝息まで聞こえる。
脈を確かめた手首は暖かかった。
戦場から運ぶときには、確かな重さもあった。
人と同じように息をし、体温を持つ少女を指して、神だと言われても、にわかには信じがたい。
「アンリは嘘を言ってない」
扉際から、アストロフの低い声が飛んだ。
ゴディエが振り返る。
「……団長まで?」
「ああ。俺も見た」
アストロフは眠るフェギスノーラへ目を向けた。
「六枚の白い羽も、殿下がその内側へ閉じ込められたことも覚えている。近づこうとして、俺たちは弾かれた」
「私も同じです」
オリビエが続ける。
「空に現れた光の輪も、あの方が殿下の手を取ったことも、はっきり覚えています」
今度こそ、ゴディエも何も言わなかった。
戦場にいた兵たちの記憶は、奇妙なほど食い違っている。
だが、アンリ、アストロフ、オリビエの三人だけは、同じものを見て、同じことを覚えていた。
アンリはゴディエを見て、ほんの少し眉を上げた。
「だから言っただろ」
アストロフの口元が、わずかに緩む。
それだけで、アンリは気づいたらしい。小さく鼻を鳴らした。
「それでも信じられないなら、本人に聞け」
アンリはベッド脇へ顎を向ける。
腹心たちの視線が、一斉にエルドウルフへ移った。
エルドウルフは振り返らない。
眠る少女から目を離さぬまま、静かに言った。
「……神さま。俺の神さまだ」
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
エランは黙って考える。
ミッドガロンの間者である可能性は捨てきれない。
アンリたち三人が、何らかの幻術を受けている可能性もある。
だが、説明のつかない事実も残っていた。
「俺は、あんなふうに神力を使えない」
エルドウルフが静かに言った。
あの光が触れたのは、ミッドガロン兵だけだった。
主を失った軍馬は傷ひとつ負わず、荒れた大地には薄く緑さえ戻り始めていた。
その光景についてだけは、戦場にいた者たちの証言が一致している。
誰が起こしたのか――その解釈だけを違えて。
「……分かりました。では、神さまと話はしたんですか?」
会話ができるのなら、目を覚ました本人に直接確かめればいい。
本当に闘神であるなら、それで多くの疑問は解ける。そうでないのなら――必要に応じて、身元を改めなければならない。
エランはひとまず疑念を脇へ置き、話を進めた。
「何と?」
エルドウルフは、眠るフェギスノーラから目を離さなかった。
「これ以上、力を使うな、と言われた。それから俺の望みを聞かれた。最後に……間に合ってよかった、と」
エランは眉を寄せる。
もし本当に神であり、その言葉に偽りがないのなら、フェギスノーラはシュバリエを救うためではなく、エルドウルフのために戦場へ降りたことになる。
「では、もう一つ。あなたの回復が普段より早いのに、神さまのほうがこれほど深く眠っているのは、なぜです?」
「……それを、ずっと考えている」
返ってきた声は静かだった。
エルドウルフはフェギスノーラの手を取り、指先に触れる。
それから、自分の内側を確かめるように目を伏せた。
「俺は二度目の神力で、ほとんどのマナを使い切った。いつもなら、とっくに動けなくなっている」
それなのに今は、身体の奥にマナが戻っている。
「逆に、神さまのマナは弱い。触れていれば分かる。俺と同じ光なのに、ひどく薄い」
そこでようやく顔を上げた。
「だから俺も、最初は神さまが俺に分けたのだと思った」
それは、この場にいる誰もが真っ先に思いつく答えだった。
聖教会は、神力とは神の寵愛を受けた人間へ、神がその力の一部を分け与えたものだと説いている。
だが、神力を宿す者そのものが極めて少ない。
同じ神力を持つ者同士が出会うことさえ稀で、まして神そのものを前にして、神と人とのあいだで何が起きているのかを確かめた者などいなかった。
神が、人へ与える。
それは長く信じられてきた教えではあっても、誰かが確かめた事実ではなかった。
「けれど、俺には何かを受け取った感覚がない」
エルドウルフは淡々と言った。
「神力を使うときも、マナを巡らせるときも、自分の内側で何が動いているかくらいは分かる。だが今回は、それがない」
「では、その回復したマナはどこから?」
「分からない」
短い答えだった。
苛立っているわけではない。
ただ、分からないという事実そのものが、彼を追い詰めている。
エルドウルフは再びフェギスノーラへ視線を戻した。
「俺のマナが戻っている。神さまのマナは減っている。だから、何も関係がないとは思えない」
細い指を包む手に、わずかに力がこもる。
「だが、どう渡されたのかも、なぜ神さまが目を覚まさないのかも分からない」
少しの間を置いて、低く続けた。
「……それが知りたい」
「……神さまも、お前も光を使うんだろう」
フーガが考えながら口を開いた。
「だったら逆に、お前のマナを神さまへ渡すことはできないのか?」
エルドウルフが顔を上げる。
「どうやって?」
「それが分かれば苦労しない」
フーガは眉を寄せた。
マナを他者へ渡す。
そんなことを、エルドウルフは考えたこともなかった。
王宮の占術師も神力を宿す者だったが、扱うのは風だった。幼い頃、彼からマナを身体の隅々まで巡らせる方法は教わっている。
だが、それは自分の内側にあるものを、自分の身体の中で動かすための術だ。
他者へ渡す方法など教わっていない。
まして、同じように光を扱う者に出会ったことさえなかった。
誰も答えを持っていなかった。
ルーソルはしばらく考え込み、やがて口を開く。
「……当てずっぽうでいいなら、一つあるけど」
「言え」
「直接、渡す」
エルドウルフが眉を寄せた。
「今も触れている」
「そうなんだけど……もっと直接というか」
ルーソル自身も、自信があるわけではないらしい。
言葉を探した末、自分の口元へ指をやった。
「息を渡すみたいに。……こういうのは?」
部屋が静かになった。
根拠などない。
そもそも神と人との間でマナがどう動くのか、それすら誰も知らないのだ。手を握るのと、呼吸を重ねることのどちらが近いのか、確かめた者などいるはずもなかった。
だが、他に試せる方法もない。
エルドウルフはルーソルを見たあと、ベッドへ視線を戻した。
フェギスノーラは、変わらず眠っている。
呼吸は浅く、群青の髪が頬にかかっていた。
エルドウルフはそれを指先で避け、頬へそっと手を添えた。
迷ったのは、ほんのわずかな時間だった。
身体を屈め、唇を重ねる。
——何も起こらない。
エルドウルフはすぐには離れず、自分の内側にあるマナへ意識を向けた。
身体を巡るマナを、触れている場所へ集める。
幼い頃から何度となく繰り返してきたことを、今度は自分の内側で止めず、その先へ押し出すように。
そのとき、フェギスノーラの指先が動いた。
ほんのわずかに。
エルドウルフの目が細くなる。
「……反応した」
誰も答えなかった。
エルドウルフはもう一度、今度は先ほどより明確にマナを意識して唇を重ねる。
かすかな光が、二人の触れたところで揺れた。
だが、それだけだった。
フェギスノーラは目を覚まさない。
呼吸だけが、静かに続いていた。
その夜、エルドウルフはフェギスノーラから離れようとしなかった。
他の寝室へ移るよう勧めても聞き入れない。
ならばせめて休めと言っても、ベッドの傍から動こうとしなかった。
結局、五人の腹心たちは貴賓室に衝立を運び込ませ、その向こうに毛布を敷いて休むことにした。
誰か一人は起きている。
夜のあいだは交代でフェギスノーラの様子を確かめ、異変があればすぐに全員を起こすことに決めた。
アストロフとオリビエも警護を解かなかった。
部屋の扉を挟み、交代で内と外につく。
夜は静かに更けていった。
やがて、傾いた三日月が広い窓から見える位置まで降りてくる。
二つのランタンだけが灯っていたベッドの周りにも、淡い月の光が差し込んだ。
眠るフェギスノーラの群青の髪を、黄色がかった光が薄くなぞっている。
エルドウルフは、ずっとその顔を見ていた。
けれど、南方から続く戦闘と、ほとんど眠らずに駆け続けた疲労には抗えなかった。
いつの間にか椅子を離れ、床へ降りていた。
ベッドの縁に片腕を置き、そこへ上半身を預けるようにして伏せていた。
もう一方の手は、フェギスノーラの手を離さなかった。
やがて瞼が落ちる。
張りつめ続けていた身体から、ようやく力が抜けた。
エルドウルフはそのまま、静かに眠りへ落ちていった。
フェギスノーラの手を、握ったまま。
更新 月曜日/木曜日 20:00
X更新情報/活動報告など発信してます
たまにイラストも
https://x.com/REANNEcreative




