第3話 〜祈りにも似た静寂〜
その思考の途切れ目で、ノアがふっと脚を止めた。
「どうした、ノ……」
瞼を開けた瞬間、世界が変わっていた。
羽毛のかたちをした光が、粉雪のように舞っている。それは風に流されるでもなく、重さもなく、ただ――行き先を決められているかのように、静かに落ちてきた。
掌を差し出す。
触れた瞬間――
シャン。
鈴を転がしたような澄んだ音がひとつ鳴り、光はそのまま溶けるように消えた。
消えた、というより、役目を終えたかのように。
「……なん、だ……」
戦場の音が、消えている。
剣のぶつかる音も、馬の嘶きも、怒号もない。耳鳴りすらなく、ただ、処理された後のような静けさだけが満ちていた。
顔を上げると、白い大きな羽が、ノアごとエルドウルフを包んでいる。
その外側で、アストロフとオリビエは同時に手綱を引いた。
白い羽は、主君とノアを中心にして閉じていく。
「殿下!」
アストロフの声は届かなかった。
オリビエが馬を寄せる。
剣を抜きかけたアストロフを、オリビエが制した。
「団長! 中に、殿下がおられる」
斬れない。
何者かも分からない。ただ、目の前で主君だけが、白い羽の内側へ切り離されている。
アストロフは奥歯を噛みしめた。
オリビエもまた、羽から目を離さない。入れないなら、せめて外を守る。
二人は馬を巡らせ、白い羽を背にして剣を構えた。
鳥――ではない。
「……神、さま……?」
六枚の大きな白い羽。
夏の青空を思わせる群青の長い髪。そして、目を奪われ、息を忘れるほど澄んだ黄金の瞳。
夢の中で、何度も見た姿。
闘神フェギスノーラが、すぐ目の前にいた。
羽を羽ばたかせることなく空に浮かび、華奢な腕を広げて、行く手を塞いでいる。
その表情には、静かな悲しみが湛えられていた。
薄桃色の唇が、ゆっくりと動く。
『……これいじょう、力をつかっては、だめ……』
声を聞いた瞬間、胸が詰まった。
会いたかった。
それだけで、涙が滲みそうになる。けれど、なぜ今なのか。
――俺は、ここで死ぬのかもしれない。
それでも。
「嫌だ」
言葉は、はっきりと出た。
「まだ、責務が残っている。成し遂げてからじゃないと、死ねない」
フェギスノーラは、少しだけ目を伏せた。
『……おまえの、のぞみは……?』
「ここに残るミッドガロン兵を、すべて」
即答だった。
フェギスノーラは、微かに微笑んだ。
『……わかった……』
神は空へと手をかざし、円を描く。
空に、百メートルはあろうかという光の輪が、ひとつ、またひとつと生まれていった。
そこから降る光は、音もなく、静かだった。
シュバリエの兵に触れた光は、春の日差しのような温もりだけを残し、地へ溶ける。
ミッドガロンの兵に触れた光は、槍のように貫くことも、爆ぜることもなかった。
ただ静かに降り注ぎ――次の瞬間、兵たちは糸を断たれた人形のように、その場に崩れ落ちた。
叫びは上がらない。
血飛沫もない。ただ、力を失った身体が、音もなく地に伏していくだけだった。
光は、主を失った軍馬には触れなかった。
怯えて身を寄せ合う馬たちは、傷ひとつ負わず、その場に残されている。
戦場には、再び音が戻った。
だがその中心だけは、神の光が通り過ぎた余韻のように、一瞬、祈りにも似た静寂が残っていた。
奇襲から、わずか。
エルドウルフと精鋭隊によって倒れた兵は二千。
残る三千には、神による静かな終わりが与えられていた。
一度に失われた三千の身体から、光の粒が浮かび上がる。
無数の粒は集まり、波をなすように連なって、やがて綿毛のようにふわりと空へ昇り、静かに消えていった。
凄惨であるはずの光景は、なぜか楽園の一場面のように、ただ静かで、美しかった。
その場に残されているのは、主を失ったミッドガロン軍の馬たちと、シュバリエ軍だけだった。
草原には大きな陥没と、数百メートルにわたる深い地割れ。そして、ミッドガロン兵の屍が横たわっている。
アンリと千人のシュバリエ兵は、己が大将の神にも等しい力と、本物の神による奇跡を、その目で見ていた。
しばし夢を見ていたような――いや、悪夢を見せられていたかのような錯覚から抜け出し、アンリは我に返った。
「エルドウルフ……」
主君の姿を探す。
ミッドガロン軍が展開していた陣形の中央。そこに、漆黒の馬に騎乗した王太子と、宙に浮かぶ六枚の白い羽があった。
そのすぐ外側には、アストロフとオリビエがいる。
「殿下!」
アストロフが馬を寄せる。
だが、あと数歩というところで、馬が突然脚を止めた。
オリビエも横から近づこうとする。
手を伸ばした瞬間、何もないはずの空間に押し返されるように、その身体が止まった。
「入れない!」
何度試しても同じだった。
剣で斬ることもできない。
触れることさえできない。
白い羽の内側だけが、戦場から切り離されている。
その中で、エルドウルフはフェギスノーラへと手を伸ばした。
「神さま、ありがとう……」
声は静かだった。
望みは叶えられた。
これで、この戦は勝ち、そして終わる。
フェギスノーラは、差し出された手を優しく握った。
その瞬間、外側の空気が変わった。
アンリの背筋を、冷たいものが走る。
――御伽話の定石ならば。
奇跡の代償として、王子は命を捧げる。
アンリだけではない。
シュバリエの兵士たち全員の脳裏に、同じ予感がよぎった。
駄目だ。
やめてくれ。
俺たちには――シュバリエ王国には、王太子が必要なんだ。
「エルドウルフ! やめろ! 手を離せ!」
アンリが馬腹を蹴る。
「殿下!」
「殿下を連れて行かないでくれ!」
声が重なる。
千人の兵が、一斉に王太子のもとへ馬を走らせた。
だが、白い羽の内側は静かなままだった。
蹄の音も。
悲痛な叫びも。
剣が鞘を鳴らす音さえ届かない。
エルドウルフには、フェギスノーラしか見えていなかった。
そしてフェギスノーラもまた、ただ静かに、彼の手を握っていた。
ところが――
エルドウルフは、つながれたその手を、ためらいなく引いた。
ぐい、と力強く。
白い羽が空気を裂き、神の身体が引き寄せられる。
フェギスノーラは抵抗しなかった。
光に満ちたその存在は、重力を拒むように一瞬揺らぎ、次の瞬間、エルドウルフの腕の中に収まった。
思っていたよりも、小さい。
夢の中で見ていた姿よりも、
神話の中で仰ぎ見てきた像よりも、
ずっと。
――そうか。
胸の奥で、理解が落ちる。
あの夢の中で、この神を抱いていた“誰か”は、
自分よりも小柄だったのだと。
理由もなく、腹が立った。
理屈ではない。
ただ、激しい感情が胸を突き上げる。
当たり前だ。
この腕で抱いたのは、自分ではない。
過去の、誰かだ。
その事実に、男に対してではなく、
過去そのものに、激しい嫉妬を覚えた。
フェギスノーラは羽を畳み、
人の形として、静かにエルドウルフに身を預けた。
逃れようともせず、抗おうともせず。
そのまま、両の手でエルドウルフの頬を包む。
黄金の瞳は柔らかく細められ、
神は、微笑んだ。
「……まにあって、よかった……」
その声は、祈りのように静かで、
鈴の余韻を残したまま、空気に溶けた。
フェギスノーラは目を閉じ、そのまま、意識を手放した。
腕の中に、確かな重みが生まれる。
息遣いが聞こえる。
触れた身体には、確かな温度があった。
――ああ。
本当に、いたのだ。
神は、ここに。
この腕の中に。
エルドウルフは頬を寄せ、
逃がさぬように、強く抱きしめた。
奇跡ではない。
夢でもない。
確かに触れられる存在として、
彼の神は、今、そこにいた。
羽の輪郭はすでに淡く、呼吸だけが確かだった。
白い羽の内と外を隔てていたものが、音もなく消える。
真っ先に馬を寄せたのは、アンリだった。
エルドウルフの顔を見る。
腕の中の少女へ目を落とす。
その胸が微かに上下していることまで確かめて、ようやく声が出た。
「……生きてるな」
「ああ」
短い返事を聞いた途端、アンリの肩から力が抜けた。
「……よかった」
掠れた声だった。
続いて駆けつけた千騎も、次々に手綱を引いた。
歓声は上がらなかった。
神に手を取られた王太子が、まだそこにいる。
その腕の中で、神もまた息をしている。
馬上で顔を覆う者がいた。
剣を下げ、深く頭を垂れる者がいた。
押し殺した嗚咽が、兵の列のどこかから聞こえた。
王太子が生きていたことへの安堵なのか。
地上へ降りた神への畏れなのか。
その時は、誰も分けて考えなかった。
ただ、そこにある二つの命を確かめるように、祈りにも似た静寂が草原へ降りた。
エルドウルフは兵たちを見なかった。
腕の中のフェギスノーラを抱き直し、その呼吸をもう一度確かめる。
「戻るぞ」
それだけを告げた。
*
開戦から三時間余り。
正面の戦線は、すでに大勢が決していた。
ミッドガロンの三人の大将は討たれ、生き残った兵のうち二千は降伏。残る兵は散り散りに逃走し、戦後処理もハンサン軍の将校たちとともに進められている。
その最中、白金の甲冑と兜を身につけ、戦場を駆け回っていたルーソルが本陣へ戻ってきた。
兜を脱ぐなり、その場に腰を下ろす。
「……暑い。これは暑い……ちょっと、気分が悪くなるかも」
荒く息をつきながらも、口調にはどこか冗談めいた響きがあった。
エランから差し出された革袋の水を受け取り、一気に飲み干す。
「……助かった。ありがとう」
残った水を頭からかぶり、ようやく息を整えた。
「あっちは、もう終わったみたいだね。で……エルドウルフは、まだ?」
敵本陣までは、直線にすればおよそ五キロ。
先に戦場を離れた伝令や兵士たちは、すでに戻り始めている。
「アンリからの伝言では、多少の問題はあったようですが……エルドウルフは無事とのことです」
「そっか」
ルーソルは短く答え、ほっと息を吐いた。
南方セルリアの争いも、この地ハンサンでの戦も、エルドウルフがいなければ、これほど短期間で終わることはなかった。
数で不利な戦に立たされても先頭に立ち、必ず勝利を引き寄せる。
「……少しは、休めるといいんだけどね」
独り言のように呟き、ルーソルは苦笑した。
五人の腹心は、すでに怒りを抑えきれずにいた。
病に伏せる国王。
そして、戦場へ出てこない二人の兄王子。
セルリアの動きは、予想より早かった。
本来なら北方ハンサンへの出兵が決まっていたのだ。南方セルリアには兄のどちらかが向かうべきだった。
それでもエルドウルフは選んだ。
「俺が行ったほうが確実だ」
そう言って南の争いを異様なほどの短さで終わらせ、王国の南端から北端まで、ほとんど休むことなく馬を走らせた。
途中、馬は力尽きて死んだ。
それでも彼は、この戦場に立った。
五キロ先の敵本陣で放たれた神力は、ここからでもはっきりと確認できた。
特に二度目のそれは、天変地異と呼ぶほかなかった。
「……また、限界までやったな」
ルーソルは空を見上げ、小さく息を吐いた。
「あの子は英雄です」
エランが静かに言った。
「どのような道を選ばれても、必ず成し遂げ、その先の歴史を動かしてしまう。その資質こそが、英雄の証なのです」
「……分かってる」
ルーソルは頷いた。
「でもさ。英雄でも、人間だ。壊れるまで使うのは……違うよね」
「ええ」
エランも静かに頷いた。
「あの子の選択肢を狭めぬために、我々がいるのです」
その時だった。
「御大将! 王太子殿下の御帰還です!」
歓声が上がり、視線が一斉に向けられる。
主を失った千頭を超える軍馬を戦利品として引き連れ、奇襲隊が本陣へ戻ってきた。
「エルドウルフ、おかえり――」
笑顔で声を上げたルーソルだったが、その表情はすぐに固まった。
馬上のエルドウルフは、漆黒のマントに包まれた小柄な人影を、胸に抱いていた。
「……え? ……誰?」
「ルーソル。天幕に寝床を用意してくれ」
「……寝床?」
理解は追いつかない。
だが、エルドウルフの声色が尋常ではなかった。
その斜め後ろを進むアンリが、無言で「いいから行け」と目で合図する。
「……了解」
エルドウルフは下馬すると、マントに包んだ人物を抱いたまま歩き出した。
ルーソルは一度だけ振り返り、それから先に立って天幕へ向かう。
エランは、すれ違いざまにその人物を一瞥した。
顔は見えない。ただ、マントの裾から覗いた足先で、女性だと察した。
「……どういうことですか?」
低く問う。
アンリは周囲を窺い、声を落とした。
「……神さまだ」
「……は?」
エランの思考も、そこで止まった。
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