第2話 〜前提を壊す〜
同刻――夜明け。
ハンサン平原北側
ミッドガロン軍本陣では、予定通りの開戦準備が進んでいた。
兵の動きに乱れはない。
陣形も、補給も、想定通り。
この戦は、数の上ではすでに勝ちが見えている。
少なくとも、そう信じるに足るだけの情報は、揃っていた。
――唯一の誤算が、どこにあるのかを除いて。
ハンサン平原南側
夜明け前の本陣には、地図と燭台が並べられていた。
中央の卓を囲むのは、シュバリエ軍の将校たちと、ハンサン王国の指揮官数名。
そこに、腹心五人と王太子エルドウルフが加わっている。
眠気は誰の顔にも残っていない。
兵力は劣勢。
それでも、陣の空気は張りつめ、沈んではいなかった。
「問題は、正面だ」
ハンサン側の将が口を開く。
「ミッドガロンは谷を押さえ、こちらの動きを見切っています。
正面から当たれば、損害は避けられません」
「回り込むには距離がありすぎます」
別の将校が続けた。
「迂回路は険しく、時間もかかる。
その間に本陣を突かれれば――」
誰もが、もっともな懸念だと理解していた。
沈黙が落ちる。
その沈黙の中で、エルドウルフは地図から目を離さなかった。
――ミッドガロンは、俺がここにいるとは考えていない。
王太子が南部オルミーナへ向かったことは、敵の斥候も掴んでいるはずだ。
シュバリエ軍がすでに参戦しているのに、神力は一度も放たれていない。
南の戦が終わったとしても、俺がこの戦場に現れるには早すぎる。
数で勝り、谷を押さえるミッドガロンが、総大将まで前線へ出す必要はない。
だからこそ――。
「斥候」
名を呼ばれ、シュバリエの若い兵が一歩前に出た。
「アルマー渓谷へ抜ける、古い山道があります。幅は狭く、崩れも多いですが、軽装の騎馬であれば通行可能です」
「距離は?」
「アンリ殿の千騎なら、二時間半ほど。隊を細く伸ばして進めば、渓谷側から敵本陣の北へ出られます」
卓上の地図に、細い線が引かれる。
誰かが呟いた。
「だが、気づかれれば終わりだ」
「朝靄が出ています」
別の兵が補足する。
「風下はこちらです。音も、匂いも流れにくい」
エルドウルフは頷いただけだった。
説明はしない。
必要な材料は、すでに卓の上に揃っている。
「ルーソル」
名を呼ばれ、シュバリエの若い将校――ルーソルが顔を上げた。
「白金の甲冑を着けろ。主力の前に立て」
一瞬の間のあと、ルーソルは即座に理解した。
「……陽動、ですね」
「任せる。あれは目立つ」
ルーソルは静かに笑い、頷いた。
「承知しました」
誰も異を唱えなかった。
命令の意味を理解し、それぞれが動き始める。
「アンリ」
「はっ」
「部隊を率いろ。俺も行く」
ざわめきが走る。
だが、エルドウルフはそれを制するように、短く言った。
「敵は、俺が来ない前提で戦っている。その前提を壊すのは、今しかない」
言葉はそれだけだった。
決断は、すでに下されている。
作戦会議は、短く終わった。
エルドウルフは剣を手に取る。
――死ぬために戦うのは、やめた。
会いたい。
まだ、生きていたい。
ならば、生きてこの戦を終わらせる。
「いつも通り、行くぞ」
振り返った先で、腹心たちが膝をついた。
シュバリエの将校たちが、それに続く。
*
戦場の地形は、西の山脈に連なる緩やかな丘陵地を除けば、ほぼ平坦だった。
平野では、単純に数が多いほうが有利になる。
数で押し切るだけなら、ミッドガロンにとって都合のよい場所だった。
だが平坦であるがゆえに、エルドウルフの神力は最大限に生きる。
本来なら、神力を持つ王太子と戦う場所として選ばない。
だが、敵は王太子が南にいると考えている。
だからこそ、ミッドガロンはこの場所を選んだ。
開戦の合図とともに、戦場の空気が一変した。
張りつめていた静寂は、怒号と蹄音、金属の擦れる音に引き裂かれる。
兵と兵が、一斉に前へ踏み出した。
その瞬間、ミッドガロン軍の視線が一方向へ引き寄せられた。
白金の甲冑が、シュバリエ軍の主力の前を駆けている。
ざわめきが走る。
否、声にはならない動揺が、確実に広がった。
――シュバリエ王太子は南方にいるはずだ。
――この戦に参戦するとしても、まだ先だ。
そうした認識は、ミッドガロン軍の中で共有されていた。
それが崩れたのは、開戦と同時だった。
白金の甲冑は、あまりにも分かりやすい。
敵も味方も、その姿を見て同じ名を思い浮かべる。
シュバリエ王国王太子――エルドウルフ。
指揮の声に、わずかな遅れが生じる。
陣の動きに、目に見えぬ歪みが走った。
横に広がった兵と兵が、ぶつかり合う。
白金の甲冑は、戦場を横切った。
芦毛の馬は地を滑るように走り、隊列と隊列の境目を正確に縫っていく。
敵も味方も、無意識にその動きを目で追った。
「シュバリエの王太子だ――!」
叫びが上がる。
その声を合図にしたかのように、ミッドガロン軍の前進が鈍った。
「距離を取れ!」
「神力を警戒しろ!」
命令は正しい。
だが、その正しさが裏目に出た。
芦毛の馬は止まらない。
突撃でも撤退でもない動きを見せながら、白金の甲冑は戦場を走る。
距離を取ろうとする部隊。
前進を続けようとする部隊。
ミッドガロン軍の隊列に、わずかな裂け目が生まれた。
芦毛の馬が主力の前へ戻る。
その背で、ルーソルは前線から目を離さなかった。
「流れが変わる」
誰に向けた言葉でもない。
確認でも、相談でもなかった。
白金の甲冑が走るたび、敵陣に生まれた小さな裂け目は、もはや閉じない。
「今だ」
ルーソルは剣を抜き、敵陣に生まれた裂け目へ切っ先を向けた。
前線の大隊が、その裂け目へ雪崩れ込む。
包囲し、叩き、次へ移る。
戦線は目に見える速度で細切れになっていった。
白金の甲冑は、まだ光を放っていない。
それでも戦況は、すでにこちらのものだった。
*
開戦から二時間ほどが過ぎても、シュバリエ王太子の神力は一度も放たれなかった。
正面は、ミッドガロン二万に対し、シュバリエ・ハンサン連合軍一万八千。
数ではなおミッドガロンが勝る。
だが、乱れた隊列が生まれるたび、連合軍はそこへ食い込み、わずかずつ押し返していた。
それにもかかわらず、あの白金の甲冑の騎士は、ただ戦場を駆け、陣を裂くだけだ。
「……おかしくないか」
誰かが、低く呟いた。
「王太子がいるなら、とっくに神力を使っているはずだ」
「あの甲冑、偽物ではないのか?」
――もし、あれが囮だとしたら。
――そうだ。間に合うはずはないだろう。
――いや、この戦場の別の場所にいるのではないか。
ミッドガロン軍の判断は鈍った。
誰もが同じ疑問を抱きながら、答えを出せない。
判断を下すには、遅すぎた。
*
夜明けから二時間半後。
後方の本陣を叩く。
残るのは、戦を終わらせるための一手だけだった。
アルマー渓谷の山道を抜けた千騎は、朝靄の残る北側へ出ていた。
アンリは、前を見ていなかった。
エルドウルフの背だけを見ている。
速度、間合い、敵の数。
判断は、すでに終わっていた。
敵総大将を討つ。
そのために、エルドウルフとアンリ率いる精鋭隊は、戦場を大きく迂回してきた。
予想していたより、本陣は厚い。
配置されていたのは、五千。
偵察では、ミッドガロン軍は三人の大将が、それぞれ部隊を率いていると報告されていた。
前線に二人。各一万。
そして後方には、総大将ルヴィオン率いる五千。
「……思ったより用心深い。五千も後ろに残しているか」
馬を並べていたエルドウルフが、手綱を引いた。
漆黒の大きな軍馬――エルドウルフの愛馬ノアが短く嘶き、前進を止めた。
千騎の精鋭も、合図を受けて止まった。
「骨が折れるな」
アンリは肩をすくめ、背中の大剣に手をかけた。
「無茶はするな」
一拍置いて、続ける。
「無理はしていい」
「違いは何だ」
エルドウルフは、わずかに口元を緩めた。
剣を引き抜く。
鏡のように磨かれた刀身に、白金の髪と青い瞳が映る。
神力を振るう前、彼は必ずこの言葉を口にした。
言葉そのものに、力があるわけではない。
呼吸を整え、意識を刃の一点へ集める。
幼い頃から、そう身体へ覚え込ませてきた手順だった。
「――闘神の御使の雷よ、月より降る光の粒よ。
我が願いに応え、力を与えよ」
唱え終えると、エルドウルフは静かに息を吐いた。
刀身の周囲に、糸のような光がまとわりつく。
光は柄を握る手から腕へ走り、肩へ、背へ、足元へと一息に広がった。
次の瞬間、白い光がエルドウルフの全身を包み込む。
白金の髪が光を返し、朝靄の中にその姿だけがくっきりと浮かび上がった。
周囲の空気が、細く軋んだ。
「……何度見ても、身震いするくらいだ。綺麗すぎて、戦場に似合わねぇ」
アンリが低く笑う。
エルドウルフは眉を寄せた。
「毎回、戦場で言うことか」
一瞬後、表情を引き締める。
「――行くぞ」
エルドウルフを先頭に、精鋭一隊は一斉に駆け出した。
敵本陣を視界に捉えたところで、エルドウルフはノアから跳び降りた。
一歩踏み込み、剣を振るう。
*
――ありえない。
ミッドガロン軍後方、本陣。
総大将ルヴィオンは、最初の異変を“光”として認識していなかった。
閃いた、という感覚すらない。
ただ、視界の端で、陣の一角が――欠けた。
破壊ではない。
爆発でも、崩落でもない。
兵が散ったのでも、退いたのでもなかった。
そこにあったはずの隊列が、
次の瞬間には、存在しなかった。
「……報告は」
声に出して、ようやく異常を言葉にした。
側近が駆け寄る。だが、口を開き、躊躇いながら伝えた。
「消えました……。」
敵影は確認できていない。
死体も、武具も、悲鳴すらなく
――消えた。
戦場から、切り取られたように。
ルヴィオンは、ようやく理解した。
これは被害ではない。
戦果でもない。
“後方の防衛そのものが、成立しなくなった”
背後から、遅れて風が届いた。
アルマー渓谷の方角から吹き下ろす、乾いた土と鉄の匂いを含んだ風。
その瞬間、
足元の地面が、わずかに鳴いた。
理解よりも先に、本能が告げる。
これは、一度きりでは終わらない。
まだ――
“次”が来る。
同じ頃、正面の戦線では――
退け、という声と、押し返せ、という声が交錯する。
誰の命令か、誰に従うべきか。
判断が揃う前に、部隊はばらけていく。
気づけば、小隊単位で切り離され、
左右の連携は途切れていた。
――後方より敵が現れた。
*
エルドウルフが神力を放った直後、ノアの背へ戻る。
二騎が馬を寄せた。
第二親衛騎士団長アストロフと、副団長オリビエ。
前へ出る主君を止められないなら、せめて左右を空けない。
それが二人の役目だった。
アンリは一度だけ、エルドウルフの背を見た。
左右には、アストロフとオリビエがいる。
ならば、自分は道を開ける。
視線を戦場へ戻す。
崩れかけた部隊。
踏みとどまる部隊。
命令を待つ部隊。
どれを叩き、どれを捨てるか。
判断は、すでに終わっていた。
速度を落とす敵は追わない。
陣を立て直そうとする敵だけを断つ。
乱れた隊列の奥に、まだ崩れていない一角がある。
旗が残り、護衛の騎兵が厚く集まっている。
総大将がいる。
「止まるな。殿下の道を開けろ」
アンリの号令が短く飛んだ。
精鋭隊が、神力の抉った空白へ雪崩れ込む。
散開し、敵の隊列を押し広げ、再び集束する。
無駄な追撃はしない。
足を止める敵。
陣を立て直そうとする敵。
それだけを、確実に潰していく。
アンリ自身は、戦場の中央を割るように進んだ。
大剣は振り回すものではない。
叩き、弾き、崩れた瞬間を断ち切る。
アンリが進む場所が、そのまま突破口になった。
敵の判断が動きに変わる前に、裂け目はもう通路になっていた。
その動きを止めるミッドガロン軍の命令は――もう、届かなかった。
全身を走る痺れが抜けさえすれば、神力は続けて使える。
理屈の上では。
だが、同じ使い方を繰り返す理由はない。
エルドウルフは神力だけで戦う男ではなかった。
ノアを駆り、剣を振るい、戦場の内側へ切り込んでいく。
アストロフとオリビエは、敵の刃が主君へ届くより早く、それを断つ。
逃げ惑うミッドガロン兵の流れの中にも、勇敢に踏みとどまる騎兵はいる。
エルドウルフは、その一人一人を無駄なく、ほとんど一合で制していった。
馬上から斬り、地へ降り、再び駆ける。
動きに迷いはない。
戦いの型そのものが、洗練されていた。
やがて、足裏で大地を捉える。
深く息を吸った。
――ここだ。
剣を振り上げる。
二度目の神力を解き放った。
次の瞬間、アンリも、精鋭隊の誰もが息を呑んだ。
刃に集めたはずの光が、手元に収まらない。
白い奔流が、エルドウルフの全身から一帯へと溢れ出した。
空気が押し返される。
馬たちが嘶き、兵は必死に手綱を抑えた。
それは、もはや一撃という規模ではなかった。
一帯を覆った光が引いたあと、そこには――空白だけが残っていた。
太陽に焼かれたかのような残像。
直後、雷鳴が連なって落ちたかのような轟音が走り、大地が鳴った。
雲の一部が押し退けられ、その向こうに澄んだ青が覗いていた。
エルドウルフの視界の先には、何もない。
――やりすぎた。
神力を通した反動が、予想を超えて全身をさらった。
脚から力が抜ける。
剣を地に突き立てて踏みとどまろうとした。
だが、力を受けきれなかった刃の先は欠け、支えにならない。
体勢が崩れ、片膝をつく。
「……っ」
背の予備剣を引き抜き、今度こそ地面へ突き立てた。
立たなければならない。
背後には、まだ動ける敵兵がいる。
第二撃の衝撃で、アストロフとオリビエの馬も一度、大きくよろめかされた。
二人はすぐに立て直し、主君の左右へ戻ろうとする。
その隙を、敵兵が見逃すはずはなかった。
右から剣。
左から槍。
狙いは同じ――膝をつく白金の王太子の首。
エルドウルフは、視界の端で殺意を捉えた。
まだ、立てない。
地に突き立てた予備剣を支点に、身体を前へ滑らせる。
槍が空を切る。
だが剣は、わずかに遅れた。
そこへ、アストロフの剣が叩き込まれた。
敵兵の斬撃を弾き、馬上からその身体を薙ぎ払う。
オリビエは槍の柄を断ち切り、返す刃で槍兵を落馬させた。
しかし、二人だけでは足りない。
空白の縁から、まだ敵が押し寄せる。
「殿下を下げろ!」
アンリの声が飛んだ。
大剣が、前へ出ようとした敵兵をまとめて押し返す。
その一瞬で、アストロフがノアの手綱を引いた。
オリビエが、力の入らないエルドウルフの腕を掴む。
「ノア」
呼びかけに応え、漆黒の軍馬が身を寄せた。
二人に支えられ、エルドウルフは背へ戻る。
ノアの腹を蹴る力は、もう残っていなかった。
アストロフとオリビエが左右を固め、ノアを戦線の外へ走らせる。
アンリは、視線の端で漆黒の馬が主を乗せ、離脱していくのを捉えた。
――動けている。
それでいい。
背後を振り返ることはしなかった。
今は、前だ。
戦場の奥。
崩れた部隊の、そのさらに向こうに、異様に兵の動かない一角があった。
逃げる兵が自然と道を空ける。
追う側も、そこへは踏み込まない。
倒れず、退かず、まだ戦を握っている場所。
総大将が残っている。
アンリは馬首をそちらへ向けた。
血と砂に濡れた本陣の中央で、一人の将が剣を構えたまま立っていた。
ルヴィオン。
老将ではない。
だが、若さだけで押し切れる相手でもなかった。
「見事だな」
低く、よく通る声だった。
敗走の最中とは思えぬ落ち着きがある。
「この状況を作ったのは、貴様か」
アンリは答えない。
馬を降り、間合いを測る。
足の置きどころ。
剣を振るう余地。
次に踏み込める場所。
見るべきものは、それだけだった。
「白金の王太子に目を奪われていたが……」
ルヴィオンは小さく息を吐いた。
「なるほど。刃はこちらだったか」
剣先が、わずかに下がる。
油断ではない。
目の前の男を、敵将として認めたのだ。
「名を聞こう」
「名乗るほどの者じゃない」
アンリは短く返す。
「そうか」
ルヴィオンは、わずかに笑った。
「ならば覚えておこう。今日、我が軍を斬った刃として」
次の瞬間、二人は同時に踏み込んだ。
火花が散る。
重い。
ルヴィオンの一太刀は、数を率いてきた将の重さそのものだった。
受ければ、腕が痺れる。
アンリは正面から受けない。
刃を滑らせ、力の向きを逸らす。
だが、二撃目は速かった。
横薙ぎの刃を大剣で弾き、半歩退く。
三撃目。
踏み込んだルヴィオンの剣が、アンリの肩をかすめた。
深くはない。
それでも、血が走る。
「……っ」
ルヴィオンは止まらない。
重い刃を、次の一撃へ繋げる。
強い。
戦場で何度も生き残り、数を率いてきた者の剣だった。
――だが。
アンリの目は、もうその剣を読んでいた。
四撃目。
振り下ろされた刃を、アンリの大剣が下から叩き上げる。
ルヴィオンの身体が、わずかに浮いた。
その半歩。
その一瞬で十分だった。
アンリは間合いの内へ入る。
大剣は振り回さない。
叩き、崩し、断ち切るための角度だけを選ぶ。
「むうっ……!」
ルヴィオンの剣が、わずかに遅れた。
アンリの刃が、肩口を深く断つ。
血が走り、ルヴィオンは膝をついた。
「……ここまでか……」
地面を支えにしながら、ルヴィオンは顔を上げた。
悔恨はない。
ただ、納得だけがあった。
「王太子に頼らずとも、戦は終わる……か」
アンリは答えない。
剣を、真っ直ぐに振り下ろす。
ルヴィオンは、そのまま前に倒れ伏した。
周囲の兵が動きを止める。
誰かが叫び、誰かが剣を落とした。
指揮は、完全に断たれた。
アンリは血を払うこともなく、振り返った。
*
ノアが大きく身を翻し、戦線の外縁を駆ける。
その左右を、アストロフとオリビエが固めた。
近づく敵兵を見つけるたび、二人の剣が先に届く。
エルドウルフへ向けられた刃は、一本も通させない。
揺れる馬上から、エルドウルフは後方を振り返った。
戦場の奥。
血と砂に濡れた本陣の中央で、アンリの大剣が振り下ろされる。
ミッドガロン軍総大将、ルヴィオンが倒れた。
その周囲へ、精鋭隊が雪崩れ込む。
――終わる。
だが、まだ終わっていない。
エルドウルフは、ノアの首に身を預けた。
目を閉じる。
身体の奥で乱れたマナの巡りを、呼吸に合わせて整えていく。
早く。
あと一度、剣を振るえるだけの力を。
アストロフとオリビエの剣戟が、すぐそばで鳴る。
ノアの蹄が、乾いた大地を打つ。
戦場はまだ、終わっていない。
もう一度――
更新 月曜日/木曜日 20:00
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