6章1幕(4)第38話 〜未完成な街〜
朝の南館四階には、まだ夜の名残のような静けさが残っていた。
窓掛けの隙間から差し込む光が、寝室の床を細く這っていく。けれど、その光が寝台の端まで届いても、ベッドの上の王太子はぴくりとも動かなかった。
珍しいことではない。
エルドウルフは朝に弱い。
戦場では夜明け前に起きる。
行軍中なら、誰より早く馬具を確かめる。
敵襲の気配があれば、眠っていたとは思えない顔で剣を取る。
けれど、城の寝室で迎える朝だけは別だった。
ほとんど毎日、誰かが起こしに来る。
アンリの時もあれば、ルーソルの時もある。
急ぎの書類がある日はエランが来るし、訓練に遅れそうな日はアストロフが扉の外で待っていることもある。
王子宮の頃から、それは朝の段取りのひとつだった。
返事がなければ、もう一度呼ぶ。
それでも起きなければ、アンリが寝台のそばまで来るか、ルーソルが苦笑しながら窓掛けを開ける。
誰が来るかは日によって違う。
けれど、エルドウルフが一人で気持ちよく起きる朝は、ほとんどなかった。
やがて、扉が開く。
「……おい」
今日の担当は、アンリだった。
返事はない。
「エル」
静かだった。
「エルドウルフ」
やはり、沈黙しか返ってこない。
アンリは腕を組んだまま、布団の山を見下ろした。
「起きろ。朝だ」
それでも、動かない。
扉の奥では、銀のトレーに着替えを載せたバトラーが、控えめに立っていた。
白いリネンのシャツ、濃紺の上衣、黒の稽古用ズボン。傍らには、磨かれた革の剣帯も添えられている。
朝食を取り、そのまま剣の稽古へ向かうための支度だった。
飾りは少ない。
だが、生地も仕立ても上等で、実用の中に王太子の品位があった。
肝心の主だけが、まだ布団の中だった。
「お前なぁ……」
小さくため息をつき、アンリは窓辺へ歩いた。
窓掛けを一気に開ける。
朝の光が、寝室いっぱいに流れ込んだ。
それでも、起きない。
ただ、布団の向こうで、わずかに眉だけが動いた。
アンリの口元に、勝ちを確信したような笑みが浮かぶ。
「フーガ、入っていいぞ」
呼ばれて扉が開き、焼きたてのパンを山ほど載せた皿を持ったフーガが顔を出した。
その後ろには、薄く切った肉と温野菜の皿を持った侍従も控えている。
「起きろ、エルドウルフ。今日はパンが五種類もあるぞ」
フーガが、わざと楽しげに言った。
「白パン、胡桃入り、香草の丸パン。ライ麦。それから、料理長が朝から張り切って焼いた新作だ」
温かな香りが、たちまち部屋に満ちる。
布団が、小さく動いた。
「……蜂蜜か」
「あたり」
フーガが即答する。
「料理長が、エルドウルフは肉よりそっちだろうとさ」
「……余計な気遣いだ」
「布団の中から言う台詞じゃねえな」
アンリが呆れたように言う。
「匂いでしか起きんのか」
エルドウルフはまだ目も開けないまま、低く返した。
「……起きている」
「起きてない」
「目を開けていないだけだ」
フーガが吹き出す。
「腹は起きてるな」
沈黙が返る。
それからようやく、エルドウルフが片目を開けた。
白金の前髪が、額の上で少し乱れている。
いつもなら隙なく整えられている顔立ちも、今だけは眠気のせいでわずかに幼く見えた。
本人だけが、それに気づいていない。
「……何時だ」
「とっくに朝食の時間だ」
その言葉を聞いても、エルドウルフの動きは鈍いままだった。
けれど、眠気の残る声がふいに問う。
「フィーラは?」
アンリとフーガが顔を見合わせた。
それから、揃ってにやりとする。
「もう城の外」
アンリが答えた。
「刺繍教室だとよ」
フーガが続ける。
「置いて行かれたな」
エルドウルフは、ようやく上体を起こした。
乱れた前髪をかき上げる。
眠気はまだ目元に残っている。
けれど、さっきまで布団の山だった王太子は、もう半分だけ執務室の主の顔に戻っていた。
「……先に言え」
「起きなかっただろ」
否定できない沈黙が落ちた。
扉の奥で、バトラーが静かに一礼する。
銀のトレーの上で、カフスが朝の光を小さく返した。
フーガは皿を軽く持ち上げて見せる。
「ほら、飯。冷めるぞ」
◇◇
四階の私的食堂には、すでに朝の光が満ちていた。
大きな窓が開けられ、夏の風がカーテンを揺らしている。
長卓の上にはパン、果物、卵、肉。
完全に男所帯の量だった。
ルーソルが椅子を傾けたまま言う。
「おはよ、寝坊王太子」
「うるさい」
席に着くと同時に皿が置かれる。
アンリも椅子にどかっと座る。
フーガが肉を切りながら言う。
「今日は井戸と運河だろ?」
「ああ」
「途中、城壁も見に行く。足場外れる前に」
ルーソルがパンをちぎる。
「忙しいね、王太子さま」
「お前も来るだろ」
「もちろん」
短い沈黙。
皿とカトラリーの音だけが続く。
やがてアンリが言った。
「下が静かだな」
フーガが頷く。
「姫さまいないからな」
ルーソルが笑った。
「さっきすれ違った。これから刺繍だってネレアと出て行った。」
エルドウルフは何も言わず、パンを一口かじった。
少しだけ間を置いて。
「……怒ってたか?」
三人が同時に顔を上げた。
そして、笑った。
◇◇
食後、四人は一時間ほど体術と槍術の稽古を行い、それぞれの持ち場へと散っていった。
「先月設置したポンプのある井戸から見て回るぞ」
六月半ば。午前の空気はまだ涼しい。
エルドウルフは濃紺の実務服に剣帯を締め、視察へ出る支度を終えていた。
礼装ではないが、現場に降りる王太子として、必要なものだけが隙なく整えられている。
「中央八区からだね。了解」
ルーソルも、書き留め用の書類束を入れた鞄を斜めに掛け、同じく実務向きの装いで歩き出す。
城を出ると、朝の街がすでに動いていた。
石を積んだ荷車が坂を軋ませながら上り、井戸の前では子どもがポンプを押して水を飛ばしている。
足場の上では石工が声を張り上げ、遠くでは槌の音が絶え間なく響いていた。
未完成の街は、止まることを知らなかった。
人々は王太子の姿に気づくと、自然に道を空け、気軽に声を投げる。
「殿下、壁は順調です!」
「上水路、昨日つながりましたよ!」
エルドウルフは歩みを止めず頷くだけで応じる。
丘の頂には第一城壁に守られた城。
その外側では、第二城壁の石積みが中腹をぐるりと取り囲み始めていた。
まだ足場だらけだが、輪郭はすでに街を抱き始めている。
坂を下ると、上水路工事の現場が見えた。
石の溝に澄んだ水が流れ始めている。
「水は先に整えたい」
エルドウルフが言う。
「人が増えれば、最初に困るのはそこだからな」
「井戸、貯水池、水路、運河。全部同時進行。欲張りすぎじゃない?」
ルーソルが笑う。
二人の馬が並んで歩く。
丘の下では、平野が広がっていた。
新しい畑の区画が白い杭で区切られ、さらに遠くでは水車の骨組みが空に突き出ている。
街は、まだ途中だ。
だが、止まる気配はない。
「……小さくてもいいから、早く学舎を作りたいな」
ぽつりとエルドウルフが言った。
「色々と欲張りだね」
「必要なものを並べているだけだ」
ルーソルが肩をすくめる。
「お前の頭の中じゃ、この街、もうリノン超えてるだろ。第二王都にでもするつもり?」
エルドウルフは歩みを止めなかった。
視線は、建設途中の城壁の向こうへ向いている。
「何言ってるんだ」
さらりと言った。
「ここを王都にするんだよ」
足が止まったのは、ルーソルの方だった。
「……は?」
「俺はそのつもりでリノンを出た。お前は違うのか?」
言葉を失うほど、背筋が粟立った。
腹心たちは、どうやってエルドウルフをその気にさせるか、密かに頭を悩ませてきた。
いずれ古い仕組みを壊す。
リノンを中心とした王国の形を、別のものへ組み替える。
そのために、この街を育てる。
誰も、まだ口にはしていない。
できるはずがなかった。
王家は一つの塊として、貴族や教会との均衡を保っている。
第一王子派、第二王子派、王太子派。
その名で語られるものはあっても、国はまだ割れていない。
だが、割れるかもしれない。
いつか本当に、剣を抜く日が来るかもしれない。
その時、リノンを奪うのか。
それとも、新しい中心を立てるのか。
腹心たちは、まだその問いを胸の奥に隠していた。
けれど。
本人は、最初からその覚悟でここに立っていたらしい。
ルーソルは思わず笑った。
「……はは。やっぱすごいな、エルは」
エルドウルフは、建設途中の城壁を見たまま答えた。
「そのために来た」
あまりにも平然とした声だった。
だからこそ、ルーソルは笑うしかなかった。
◇◇
フィーラとネレアがストラス邸からの帰路、丘を半分ほど登ったところで、螺旋の街道と交わる小さな分岐に差しかかった。
舗装用に積み上げられた石のそばに、一頭の馬が繋がれている。
中央道路の視察帰りなのだろう。
アンリがその横に腰を下ろし、薄い板に紙を挟んでペンを走らせていた。
文字ではない。
道の形を、そのまま写すような線だった。
顔は上げないまま、低い声が落ちる。
「……お帰りですか、姫さま」
フィーラは足を止め、首を傾げた。
「アンリ。なに、してるの?」
近づいて、手元を覗き込む。
ネレアは半歩後ろで足を止めた。
止めはしない。
ただ、道を行き交う荷馬車と人の流れを静かに見ている。
紙の上には、まだ整いきらない街の輪郭が描かれていた。
丘。
城壁。
道。
荷を運ぶ人影。
途中のはずなのに、今にも動き出しそうな線だった。
「……すごい」
ぽつりと漏れた声に、アンリはほんのわずか口の端を上げる。
「記録です。あいつに、描いておけと言われまして」
ペン先は止まらない。
「私が一番ましだそうです」
淡々としている。
けれど、声にはどこか諦めたような親しさがあった。
フィーラはその横にしゃがみ込んだ。
「見てて、いい?」
「構いません」
短い返答だったが、声は固くない。
ネレアが少しだけ目を細める。
「では、私はこちらに」
そう言って、すぐ近くの石積みの脇へ控えた。
フィーラはもう一度、紙の上へ目を落とす。
アンリの線は、迷わず街を拾っていく。
けれど、ただ正確なだけではなかった。
人が通る場所は少し濃く。
荷車が曲がる角は広く。
まだ何もない空地には、余白が残されている。
フィーラには、それが不思議だった。
「アンリは、街も描けるのね」
「見えるものなら、だいたいは」
「見えないものは?」
アンリの手が、ほんの少しだけ止まった。
それから、また線が動く。
「あいつが置きます」
フィーラは瞬きをした。
「エルドウルフ?」
「はい」
アンリは紙の端に、まだ建っていない塔の位置を小さく記した。
「私は、見えているものを描く方です。あいつは、まだないものを置く方です」
フィーラは、アンリの言葉を半分くらいしか理解していなかった。
見えているものを描く。
まだないものを置く。
たぶん、とても大事な話なのだと思う。
けれど今は、紙の上に街が少しずつ増えていくのを見る方が楽しかった。
今日は、ストラス夫人に刺繍を教わった。
九月七日。
エルドウルフの生まれた日に、刺繍を刺したマントを贈る。
そのために何を用意して、どこから刺し始めて、どれくらい練習すればいいのか。
そう考えるだけで、胸の奥が明るかった。
だから、機嫌はよかった。
フィーラはアンリの隣に腰を下ろし、じっと手元を見つめた。
「絵、ならったの?」
「習っておりません。独学です」
迷いのない線が続く。
「風景しか、かかない?」
「いえ」
ペンが短く止まった。
「本当は、人物の方が好きです」
フィーラは顔を上げる。
「ひと?」
「はい」
アンリは紙の上から目を離さないまま、少しだけ言葉を選んだ。
「動かないものより、表情のあるものの方が面白いので」
「ひょうじょう」
フィーラは小さく繰り返した。
自分にはまだ、少し難しいものだ。
けれど、アンリがそう言うなら、きっと線にできるものなのだろう。
少しして、アンリが言った。
「……よろしければ、姫さま」
「なに?」
「今度、描かせていただけませんか」
フィーラの目が丸くなる。
「わたし?」
「はい。ご無理でしたら、構いません」
「ほんと?」
声が明るくなった。
「うれしい」
アンリのペン先が、ほんのわずかに止まる。
それから、何事もなかったようにまた線が動いた。
「では、今度」
「うん」
フィーラは頷き、紙の上の街をまた覗き込んだ。
朝まで胸の奥にあった怒りは、もうどこかへ行っていた。
九月七日。
刺繍を刺したマント。
少しずつ増えていく街の線。
今度、アンリが描いてくれるという自分の絵。
フィーラの中は、それでいっぱいだった。
――その少し離れた路地の影――
エルドウルフとルーソルが馬上からその様子を見ていた。
「声、かけないのか」
ルーソルが小さく言う。
エルドウルフはしばらく視線を向けたまま、
「……いい」
短く答えた。
ノアの向きを城へ向ける。
十八と二十。
騎上で言葉を交わす二人の姿に、街で働く人々の表情が和らぐ。
この地に差し迫った不安はない――そう感じさせる光景だった。
「昼、何食う?」
唐突だった。
ルーソルが片眉を上げる。
丘を抜けてくる風が、二人のマントを軽く揺らした。
「急に現実に戻すね」
「考えてなかった」
「王都作る宣言した直後にそれ?」
「腹は減るだろ」
ちょうどその時、ぐう、と小さな音が鳴った。
どちらの腹かは、互いに確認しない。
「減るけどさ」
ルーソルが肩を揺らして笑う。
通りの向こうで荷を運んでいた職人が、馬上の二人に気づき、手を止めて軽く帽子を上げた。
子どもがそれを真似して手を振る。
エルドウルフは小さく頷き返した。
「市場のパン屋、もう行った?」
「まだだ」
「焼きたてに羊肉挟んだやつが昼すぎに出るらしいよ。評判で行列できてた」
「……並ぶのか?」
「はは。並んだら騒ぎになるね」
短い沈黙。
夏の乾いた風が、石と土の匂いを運んでくる。
「ユーグだな」
「だね。行かせよう」
決まりだった。
「あと二つだ。点検終わらせて帰るぞ」
エルドウルフはノアの腹に軽く踵を当て、歩みを速めた。
二頭の馬は静かに歩き出した。
午前の光の中、まだ未完成の街がゆっくりと動いていた。
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