表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
光を背負った王――神力を宿す王太子エルドウルフの戦記  作者: RE:ANNE
祈りは糸となり、石は壁となる

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
37/48

6章1幕(3)第37話 〜祈りと刺繍〜


「戦の無事を願って。――祈りは、形にすると強くなるらしい」


 

 エランが穏やかにそう言ったときのことを、フィーラは何度も思い出していた。


 祈りながら、刺す。


 エランの妻が、戦に向かう夫へ贈った刺繍の話を聞いた瞬間、胸の奥がふっと温かくなった。


 エルドウルフに、刺繍の入ったマントを贈りたい。


 ただ、それだけのことだった。


 けれど現実は、思うようにはいかなかった。


 針を持つ手元はおぼつかず、布は歪む。

 何より指先を何度も刺してしまう。

 天界でも人間界でも、針仕事などしたことがなかったのだ。

 白い布にも、指先にも、小さな赤い点が滲んでいく。

 フィーラはしばらくそれを見つめていた。

 それから、小さく肩を落とす。


 ネレアはそんな様子を見て、穏やかに言った。


「大丈夫です。誰でも最初は出来ないものですよ。……練習いたしましょう」


 そう言って後ろからそっと手を添え、針の運びをゆっくり教えてくれる。

 焦らず、急かさず、何度でも。

 それでも、指先はまだ痛かった。

 フィーラは小さく息を吐く。


「……がんばる」


 ネレアは満足そうに微笑んだ。


 ◇◇


 目が覚めた時、部屋はまだ薄暗かった。


 窓掛けの隙間から、朝の光が細く差している。

 寝台の向こう側では、エルドウルフがまだ眠っていた。


 昨日の夜、少しだけ怒った。


 黒は捨てて、と言った。

 エルドウルフは捨てられないと言った。


 鍛冶屋が忙しいから。

 装備は捨てるものではないから。


 それは、正しいのだろう。

 けれど、フィーラはまだ怒っていた。


 黒を選ぶ理由は、聞いた。


 初陣の時は、身体を少しでも大きく見せるため。

 今は、自分の血が目立てば、自軍の士気が下がるから。


 言葉としては分かる。


 けれど、フィーラは嫌だった。


 血が目立たなければいい、という考えが嫌だった。

 エルドウルフが傷つくことを、最初から数に入れているのが嫌だった。


 そこまで思って、フィーラは寝台の上でそっと身を起こした。


 エルドウルフは起きない。

 白金の髪が枕の上で少し乱れ、呼吸は静かだった。


 起こさない。


 怒っているから、起こさない。

 眠っているなら、そのまま眠ればいい。


 フィーラはそう決めて、音を立てないように寝台を降りた。


 いつもなら、ネレアが来る。

 扉の外から「お目覚めですか」と声をかけ、フィーラはそれを聞いて起き上がる。


 今日は違った。


 自分で起きた。

 自分で寝台を降りた。

 自分で顔を洗い、ネレアが用意してくれた衣を受け取って、黙って袖を通した。


 ネレアは少し驚いた顔をしたが、何も言わなかった。


 ただ、髪を整える手がいつもより少しだけやさしかった。



 発展の途上にある街は、朝から騒がしかった。


 荷を担いで行き交う人々。

 建材を運ぶ馬。

 工事の槌の音と、呼び声。


 整いきっていない街並みのあちこちで、人間たちは汗を流し、声を上げ、立ち止まることなく動いている。


 フィーラは歩みを緩め、周囲を見渡した。


 この街はまだ未完成だ。


 けれど人々は迷いなく手を動かし、声を掛け合い、明日の形を作ろうとしている。


 神の定めた循環とも、天界の静かな秩序とも違う。


 ――壊れやすくて、脆くて、それでも前に進む。


 胸の奥で、言葉にならない何かが震えた。


 それとは別に、昨夜の言葉が、まだ胸のどこかに引っかかっている。


 ――黒は捨てられない。


 必要なのだと告げられても、血を流してほしくないと思う気持ちは消えない。


 ――自分がいるのに、とだけ思う。


 その先は、まだ言葉にならなかった。

 隣でネレアが歩調を合わせる。


「殿下、まだお休みでしょうか」


 何気ない調子だった。

 フィーラは即座に答えた。


「知らない」


 少し遅れて、付け足す。


「起こしてない」


 ネレアが小さく目を丸くする。


「まあ」


 フィーラは唇をわずかに尖らせた。


「怒ってるから」


 子どものような言い方だった。

 けれど本人は真剣だった。


 石を打つ音が遠くで重なり、朝の風が若い木々を揺らしていた。


 フィーラは前を向いたまま、ぽつりと言った。


「エルドウルフ、ぜんぜんわかってない」


 ネレアはまた小さく目を見開いた。


「まあ」


 今度の声には、驚きと、わずかな可笑しさが混じっていた。

 

 フィーラは唇を尖らせたまま歩く。

 怒っている。

 

 でも、贈りたい気持ちは消えていない。

 

 だからこそ、ちゃんと刺したいと思った。

 

 

 ◇◇


「ようこそ、姫さま。お待ちしておりました」


 ゆるく癖のある亜麻色の髪を横に束ねた、美しい婦人が門前で頭を下げた。


 門の奥には、整えられた前庭と、石造りの本邸が広がっている。

 クワルノーを預かる伯爵家の屋敷は、華美ではないが堂々としていた。


 広い中庭、来客用の別棟、使用人棟、厩舎。


 領地行政を担う家の邸宅として、必要な機能が過不足なく揃っている。


「……だめ。赤ちゃんがいるのに。立ったままはよくない。早く中に入ろう」


 挨拶よりも先に、フィーラはそう言って咄嗟に彼女の肩と手を支えた。


「失礼いたしました、ストラス夫人」


 ネレアが一歩前に出る。


「姫さまは、奥方様のお身体を案じておられます。どうぞ中へ」


 ジュリアは一瞬驚いたあと、柔らかく微笑んだ。


 その優しさに、胸の奥でフィーラへの敬愛が静かに深まる。


 彼女が闘神であることを、ジュリアは知っている。


 応接室は大きな窓から光が差し込み、明るく穏やかな空気に満ちていた。


 実務の場として使われることも多いのだろう。

 書類棚と刺繍台が自然に同居している。


「あの……ね。エンブレムの刺繍を教えてほしいの」


 フィーラは少し言いよどみながら切り出した。


「わたしも、エルドウルフにしてあげたいの」


 ネレアが静かに添える。


「ご無理のない範囲で、ご指南いただけましたら」


 ジュリアの前には、フィーラがこれまでに刺した練習布がいくつも並べられていた。


「まあ……」


 目を丸くしたあと、ジュリアはすぐに微笑む。


「十分お上手です。ずいぶん練習なさったのですね。ええ、私でよろしければ、喜んでお手伝いいたしますよ」


 そう言って、そっと腹に手を添える。


 侍女のクロエが刺繍枠と針、糸を運んできた。


「糸は、これ」


 フィーラは包みを開いた。


「白金と、蒼色。この子たちを使いたいの」


 糸巻きを見た瞬間、ジュリアの表情がやわらぐ。


「エルドウルフ殿下は幸せ者ですね。こんなにも可愛らしく優しい姫さまに想われて」


 フィーラは首をかしげた。


 ジュリアは、ふふ、と楽しげに笑う。

 

「私はエルドウルフ殿下の従姉(いとこ)なのです」


「そうなの?」


 声が弾んだ。


「ええ。それにルーソルの姉でもあります。子どもの頃から、あの子たちを見てきました」


 ジュリアは懐かしそうに目を細める。


「幼い頃の殿下は、いつも傷だらけでした。毎日のように剣の稽古をして……それでも泣かない子でした」


 少し笑う。


「代わりにルーソルが泣いていましたけれど」


 小さな笑いがこぼれる。


「不思議な子でした。誰より前に出るのに、誰より人を気にかけるのです。だから皆、自然とあの子の後ろに立つようになりました」


 フィーラは静かにその言葉を受け取った。


 ――ずっと前から、そうだったのだ。


 ジュリアは糸を整えながら、ふと思い出したように言う。


「せっかくですもの。九月七日、十九の誕生日に贈られてはいかがです?」


「……たんじょうび?」


 ジュリアは針を置き、やさしく答えた。


「大切な人の生まれた日を祝う習慣です。共に時間を過ごし、幸せで健やかであることに感謝して、この先も無事であるよう祈る日なのですよ」


 少しだけ笑う。


「贈り物をするには、ちょうどよい日です」


 フィーラの目が丸くなる。


「それ、いいね」


 ぱっと顔が明るくなった。

 その明るさの奥で、昨夜の言葉が小さく戻ってくる。


 ――黒は捨てられない。


 血を隠すための黒。

 傷つくことを最初から数に入れた黒。


 それなら。


「黒を、わたしが渡す」


 ジュリアが瞬きをした。


「姫さま?」


「エルドウルフが黒を捨てないなら、わたしが渡す」


 フィーラは手元の糸を見つめた。


「血をかくす黒じゃなくて、ぶじでいてほしい黒にする」


 言葉はまだ少し足りない。

 けれど、フィーラの中では形になっていた。


「九月七日に、マントを渡す」


 ジュリアは目を見開き、それから柔らかく微笑んだ。


「それは、とても素敵な贈り物になりますね」


 けれど次の瞬間、ジュリアは少しだけ困ったように笑う。


「ただ、エンブレムには少し問題があります」


「なあに?」


「クワルノーはこれまで、暫定的にシュバリエ王家の紋章を掲げていました。ですが、今は殿下が直接治めておられます」


 フィーラが首をかしげる。


「ですから、これからは王家の紋をそのまま使うのではなく、殿下ご自身の紋章として、新しく整えられることになります」


「エルドウルフの、印」


「ええ。クワルノーを治める殿下の印です」


 それを聞いたフィーラは、眉を寄せて、小さく唸った。


「……それは、困った」


 刺すべき印が、まだない。


 無事を祈るためのエンブレムを作りたいのに、肝心の形が決まっていない。

 フィーラは、膝の上の布へ視線を落とした。


「エルドウルフの、まだ、決まってない……」

 ジュリアは苦笑する。


「殿下や腹心の方々は質実剛健で、美術や意匠にはあまり頓着なさらないでしょう。ですから、周りから促した方がよろしいかと」


「周り……」


 ジュリアはフィーラの手を取った。


「貴女さまですよ」


 ネレアも頷く。


「私からもエラン様やルーソルに伝えておきます。姫さまは、殿下を急かしてくださいませ」


 フィーラは真剣な顔で頷いた。


「わかった」


 九月七日。

 十九歳の誕生日。


 エルドウルフに、自分の手で刺繍を刺した黒いマントを渡す。


 間に合わせたい。


 フィーラは静かに頷いた。

 


 やがて時間は過ぎ、帰り支度となった。


 玄関広間まで見送りに出たジュリアは、ゆっくりと歩いていた。


 侍女のクロエがすぐそばに控え、段差の前では自然に手を添える。

 ジュリアはそのたびに小さく礼を言い、もう片方の手を腹に当てた。


 その仕草を、フィーラは何度も見ていた。


 応接室で笑った時も。

 糸を選んだ時も。

 エルドウルフの幼い頃を話した時も。


 ジュリアの手は、気づけばそこへ戻っている。


 先日のサロンで、エランもそうだった。


 ジュリアの体調を聞く時、いつもより少しだけ声が静かだった。

 つわりが落ち着いたと聞いた時、ほんの少しだけ息を吐いていた。


 大きなことではない。


 誰も騒がない。

 強く抱きしめるわけでも、涙を見せるわけでもない。


 ただ、気にしている。

 少しずつ、心配している。

 そして、それを当たり前のようにしている。


 フィーラには、それが少し不思議だった。


 心配は、重いものだと思っていた。


 苦しい。

 怖い。

 失いたくない。


 そういうものに近いのだと思っていた。


 けれど、ここにある心配は違った。


 ジュリアの手。

 クロエの支える指。

 ネレアの静かな視線。

 エランが息を吐いた時の顔。


 どれも、重くない。


 軽い。


 良いことの方にある。


「……お腹、触っていい?」


 フィーラが尋ねると、ジュリアは柔らかく微笑んだ。


「ええ。どうぞ」


 フィーラはそっと手を伸ばした。


 布越しに触れたそこには、確かな温もりがあった。

 かすかなマナもある。


 まだ小さい。

 まだ、よく分からない。


 けれど、いる。


「早く会いたいね、赤ちゃん」


 壊れ物に触れるように、フィーラは優しく撫でた。

 ジュリアの手が、フィーラの手の上にそっと重なる。


「ありがとうございます、姫さま」


 フィーラは首を横に振った。


「大きくなってね」


 それが赤ん坊に言ったのか、ジュリアの腹に触れて感じた小さなマナに言ったのか、自分でもよく分からなかった。


 けれど、言ったあと、胸の奥が少し明るくなった。


 



 

 

 

更新 月曜日/木曜日 20:00


X更新情報/活動報告など発信してます

たまにイラストも

https://x.com/REANNEcreative

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ