6章1幕(3)第37話 〜祈りと刺繍〜
「戦の無事を願って。――祈りは、形にすると強くなるらしい」
エランが穏やかにそう言ったときのことを、フィーラは何度も思い出していた。
祈りながら、刺す。
エランの妻が、戦に向かう夫へ贈った刺繍の話を聞いた瞬間、胸の奥がふっと温かくなった。
エルドウルフに、刺繍の入ったマントを贈りたい。
ただ、それだけのことだった。
けれど現実は、思うようにはいかなかった。
針を持つ手元はおぼつかず、布は歪む。
何より指先を何度も刺してしまう。
天界でも人間界でも、針仕事などしたことがなかったのだ。
白い布にも、指先にも、小さな赤い点が滲んでいく。
フィーラはしばらくそれを見つめていた。
それから、小さく肩を落とす。
ネレアはそんな様子を見て、穏やかに言った。
「大丈夫です。誰でも最初は出来ないものですよ。……練習いたしましょう」
そう言って後ろからそっと手を添え、針の運びをゆっくり教えてくれる。
焦らず、急かさず、何度でも。
それでも、指先はまだ痛かった。
フィーラは小さく息を吐く。
「……がんばる」
ネレアは満足そうに微笑んだ。
◇◇
目が覚めた時、部屋はまだ薄暗かった。
窓掛けの隙間から、朝の光が細く差している。
寝台の向こう側では、エルドウルフがまだ眠っていた。
昨日の夜、少しだけ怒った。
黒は捨てて、と言った。
エルドウルフは捨てられないと言った。
鍛冶屋が忙しいから。
装備は捨てるものではないから。
それは、正しいのだろう。
けれど、フィーラはまだ怒っていた。
黒を選ぶ理由は、聞いた。
初陣の時は、身体を少しでも大きく見せるため。
今は、自分の血が目立てば、自軍の士気が下がるから。
言葉としては分かる。
けれど、フィーラは嫌だった。
血が目立たなければいい、という考えが嫌だった。
エルドウルフが傷つくことを、最初から数に入れているのが嫌だった。
そこまで思って、フィーラは寝台の上でそっと身を起こした。
エルドウルフは起きない。
白金の髪が枕の上で少し乱れ、呼吸は静かだった。
起こさない。
怒っているから、起こさない。
眠っているなら、そのまま眠ればいい。
フィーラはそう決めて、音を立てないように寝台を降りた。
いつもなら、ネレアが来る。
扉の外から「お目覚めですか」と声をかけ、フィーラはそれを聞いて起き上がる。
今日は違った。
自分で起きた。
自分で寝台を降りた。
自分で顔を洗い、ネレアが用意してくれた衣を受け取って、黙って袖を通した。
ネレアは少し驚いた顔をしたが、何も言わなかった。
ただ、髪を整える手がいつもより少しだけやさしかった。
発展の途上にある街は、朝から騒がしかった。
荷を担いで行き交う人々。
建材を運ぶ馬。
工事の槌の音と、呼び声。
整いきっていない街並みのあちこちで、人間たちは汗を流し、声を上げ、立ち止まることなく動いている。
フィーラは歩みを緩め、周囲を見渡した。
この街はまだ未完成だ。
けれど人々は迷いなく手を動かし、声を掛け合い、明日の形を作ろうとしている。
神の定めた循環とも、天界の静かな秩序とも違う。
――壊れやすくて、脆くて、それでも前に進む。
胸の奥で、言葉にならない何かが震えた。
それとは別に、昨夜の言葉が、まだ胸のどこかに引っかかっている。
――黒は捨てられない。
必要なのだと告げられても、血を流してほしくないと思う気持ちは消えない。
――自分がいるのに、とだけ思う。
その先は、まだ言葉にならなかった。
隣でネレアが歩調を合わせる。
「殿下、まだお休みでしょうか」
何気ない調子だった。
フィーラは即座に答えた。
「知らない」
少し遅れて、付け足す。
「起こしてない」
ネレアが小さく目を丸くする。
「まあ」
フィーラは唇をわずかに尖らせた。
「怒ってるから」
子どものような言い方だった。
けれど本人は真剣だった。
石を打つ音が遠くで重なり、朝の風が若い木々を揺らしていた。
フィーラは前を向いたまま、ぽつりと言った。
「エルドウルフ、ぜんぜんわかってない」
ネレアはまた小さく目を見開いた。
「まあ」
今度の声には、驚きと、わずかな可笑しさが混じっていた。
フィーラは唇を尖らせたまま歩く。
怒っている。
でも、贈りたい気持ちは消えていない。
だからこそ、ちゃんと刺したいと思った。
◇◇
「ようこそ、姫さま。お待ちしておりました」
ゆるく癖のある亜麻色の髪を横に束ねた、美しい婦人が門前で頭を下げた。
門の奥には、整えられた前庭と、石造りの本邸が広がっている。
クワルノーを預かる伯爵家の屋敷は、華美ではないが堂々としていた。
広い中庭、来客用の別棟、使用人棟、厩舎。
領地行政を担う家の邸宅として、必要な機能が過不足なく揃っている。
「……だめ。赤ちゃんがいるのに。立ったままはよくない。早く中に入ろう」
挨拶よりも先に、フィーラはそう言って咄嗟に彼女の肩と手を支えた。
「失礼いたしました、ストラス夫人」
ネレアが一歩前に出る。
「姫さまは、奥方様のお身体を案じておられます。どうぞ中へ」
ジュリアは一瞬驚いたあと、柔らかく微笑んだ。
その優しさに、胸の奥でフィーラへの敬愛が静かに深まる。
彼女が闘神であることを、ジュリアは知っている。
応接室は大きな窓から光が差し込み、明るく穏やかな空気に満ちていた。
実務の場として使われることも多いのだろう。
書類棚と刺繍台が自然に同居している。
「あの……ね。エンブレムの刺繍を教えてほしいの」
フィーラは少し言いよどみながら切り出した。
「わたしも、エルドウルフにしてあげたいの」
ネレアが静かに添える。
「ご無理のない範囲で、ご指南いただけましたら」
ジュリアの前には、フィーラがこれまでに刺した練習布がいくつも並べられていた。
「まあ……」
目を丸くしたあと、ジュリアはすぐに微笑む。
「十分お上手です。ずいぶん練習なさったのですね。ええ、私でよろしければ、喜んでお手伝いいたしますよ」
そう言って、そっと腹に手を添える。
侍女のクロエが刺繍枠と針、糸を運んできた。
「糸は、これ」
フィーラは包みを開いた。
「白金と、蒼色。この子たちを使いたいの」
糸巻きを見た瞬間、ジュリアの表情がやわらぐ。
「エルドウルフ殿下は幸せ者ですね。こんなにも可愛らしく優しい姫さまに想われて」
フィーラは首をかしげた。
ジュリアは、ふふ、と楽しげに笑う。
「私はエルドウルフ殿下の従姉なのです」
「そうなの?」
声が弾んだ。
「ええ。それにルーソルの姉でもあります。子どもの頃から、あの子たちを見てきました」
ジュリアは懐かしそうに目を細める。
「幼い頃の殿下は、いつも傷だらけでした。毎日のように剣の稽古をして……それでも泣かない子でした」
少し笑う。
「代わりにルーソルが泣いていましたけれど」
小さな笑いがこぼれる。
「不思議な子でした。誰より前に出るのに、誰より人を気にかけるのです。だから皆、自然とあの子の後ろに立つようになりました」
フィーラは静かにその言葉を受け取った。
――ずっと前から、そうだったのだ。
ジュリアは糸を整えながら、ふと思い出したように言う。
「せっかくですもの。九月七日、十九の誕生日に贈られてはいかがです?」
「……たんじょうび?」
ジュリアは針を置き、やさしく答えた。
「大切な人の生まれた日を祝う習慣です。共に時間を過ごし、幸せで健やかであることに感謝して、この先も無事であるよう祈る日なのですよ」
少しだけ笑う。
「贈り物をするには、ちょうどよい日です」
フィーラの目が丸くなる。
「それ、いいね」
ぱっと顔が明るくなった。
その明るさの奥で、昨夜の言葉が小さく戻ってくる。
――黒は捨てられない。
血を隠すための黒。
傷つくことを最初から数に入れた黒。
それなら。
「黒を、わたしが渡す」
ジュリアが瞬きをした。
「姫さま?」
「エルドウルフが黒を捨てないなら、わたしが渡す」
フィーラは手元の糸を見つめた。
「血をかくす黒じゃなくて、ぶじでいてほしい黒にする」
言葉はまだ少し足りない。
けれど、フィーラの中では形になっていた。
「九月七日に、マントを渡す」
ジュリアは目を見開き、それから柔らかく微笑んだ。
「それは、とても素敵な贈り物になりますね」
けれど次の瞬間、ジュリアは少しだけ困ったように笑う。
「ただ、エンブレムには少し問題があります」
「なあに?」
「クワルノーはこれまで、暫定的にシュバリエ王家の紋章を掲げていました。ですが、今は殿下が直接治めておられます」
フィーラが首をかしげる。
「ですから、これからは王家の紋をそのまま使うのではなく、殿下ご自身の紋章として、新しく整えられることになります」
「エルドウルフの、印」
「ええ。クワルノーを治める殿下の印です」
それを聞いたフィーラは、眉を寄せて、小さく唸った。
「……それは、困った」
刺すべき印が、まだない。
無事を祈るためのエンブレムを作りたいのに、肝心の形が決まっていない。
フィーラは、膝の上の布へ視線を落とした。
「エルドウルフの、まだ、決まってない……」
ジュリアは苦笑する。
「殿下や腹心の方々は質実剛健で、美術や意匠にはあまり頓着なさらないでしょう。ですから、周りから促した方がよろしいかと」
「周り……」
ジュリアはフィーラの手を取った。
「貴女さまですよ」
ネレアも頷く。
「私からもエラン様やルーソルに伝えておきます。姫さまは、殿下を急かしてくださいませ」
フィーラは真剣な顔で頷いた。
「わかった」
九月七日。
十九歳の誕生日。
エルドウルフに、自分の手で刺繍を刺した黒いマントを渡す。
間に合わせたい。
フィーラは静かに頷いた。
やがて時間は過ぎ、帰り支度となった。
玄関広間まで見送りに出たジュリアは、ゆっくりと歩いていた。
侍女のクロエがすぐそばに控え、段差の前では自然に手を添える。
ジュリアはそのたびに小さく礼を言い、もう片方の手を腹に当てた。
その仕草を、フィーラは何度も見ていた。
応接室で笑った時も。
糸を選んだ時も。
エルドウルフの幼い頃を話した時も。
ジュリアの手は、気づけばそこへ戻っている。
先日のサロンで、エランもそうだった。
ジュリアの体調を聞く時、いつもより少しだけ声が静かだった。
つわりが落ち着いたと聞いた時、ほんの少しだけ息を吐いていた。
大きなことではない。
誰も騒がない。
強く抱きしめるわけでも、涙を見せるわけでもない。
ただ、気にしている。
少しずつ、心配している。
そして、それを当たり前のようにしている。
フィーラには、それが少し不思議だった。
心配は、重いものだと思っていた。
苦しい。
怖い。
失いたくない。
そういうものに近いのだと思っていた。
けれど、ここにある心配は違った。
ジュリアの手。
クロエの支える指。
ネレアの静かな視線。
エランが息を吐いた時の顔。
どれも、重くない。
軽い。
良いことの方にある。
「……お腹、触っていい?」
フィーラが尋ねると、ジュリアは柔らかく微笑んだ。
「ええ。どうぞ」
フィーラはそっと手を伸ばした。
布越しに触れたそこには、確かな温もりがあった。
かすかなマナもある。
まだ小さい。
まだ、よく分からない。
けれど、いる。
「早く会いたいね、赤ちゃん」
壊れ物に触れるように、フィーラは優しく撫でた。
ジュリアの手が、フィーラの手の上にそっと重なる。
「ありがとうございます、姫さま」
フィーラは首を横に振った。
「大きくなってね」
それが赤ん坊に言ったのか、ジュリアの腹に触れて感じた小さなマナに言ったのか、自分でもよく分からなかった。
けれど、言ったあと、胸の奥が少し明るくなった。
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