6章1幕(2)第36話 〜黒を選ぶ理由〜
「エランの屋敷まで、ノアで行くか? 置いていこうか」
夜の寝室は静かだった。
開けた窓から、夏の夜気がゆるく入り込んでいる。
遠くで虫が鳴き、白いカーテンがわずかに揺れた。
エルドウルフは机の前に座り、剣の刃を布でゆっくりと拭っていた。
灯りを受けて、金属が淡く光る。
「ネレアとふたりであるいて行く。まちを見ながら行きたい」
ベッドの上で膝を抱え、フィーラが答える。
「行きは下りだが、帰りは上り坂だぞ」
「だいじょうぶ」
少し考えて、
「見たい」
それ以上の理由はなかった。
エルドウルフは小さく頷いた。
「わかった。護衛は増やす」
「いらない」
即答だった。
「ネレアがいる」
「ネレアは侍女だ」
「強いよ」
真剣な顔だった。
エルドウルフは息を吐き、剣を鞘に収めた。
「……少しだけ増やす」
フィーラは納得したのかしていないのか、曖昧に頷いた。
静かな間。
彼女はベッドから身を乗り出し、エルドウルフの髪に触れる。
白金の髪を指に絡め、じっと見つめる。
少し考えてから
「好き」
唐突だった。
エルドウルフは少しだけ眉を上げる。
「髪?」
「うん」
指先で一房すくい、光に透かす。
「光みたい」
今度は顔を覗き込む。
「目も好き」
サファイアの瞳を、まじまじと見つめる。
「……観察は終わったか」
「まだ」
腕を掴み、太さを確かめるように両手で囲う。
「強い」
言い切る。
エルドウルフは苦笑した。
「そういう確認は、毎晩必要か?」
「必要」
迷いがなかった。それが当然のように。
少し考えて、フィーラが言う。
「エルドウルフは、なにいろが好き?」
夜の空気はやわらかく、窓から入る風が白いカーテンをゆっくりと揺らしていた。
机の上の灯りが、金属と髪に淡く落ちている。
「色?」
エルドウルフは手を止めずに答える。
「ノアもよろいもマントも、みんな黒。だから、黒?」
剣の刃を拭う布が、わずかに音を立てる。
エルドウルフは一瞬だけ考え、椅子の背に体重を預けた。
「初陣の時だ。虚勢を張るために選んだ」
灯りの下で、遠い記憶が静かに掬い上げられる。
「背も低かった。身体も細かった。鎧だけでも大きく見せたかった」
フィーラは、黙って聞いている。
「今は理由が違う」
短い間。
外で虫が鳴いた。
「血が目立たないからだ」
空気が止まる。
風だけが、カーテンを揺らした。
「……いっぱい、殺すから?」
「違う」
即答だった。
「俺が斬られた時、鎧の血が目立てば自軍の士気が下がる」
静かな声だった。
感情は乗せていない。
沈黙が落ちる。
フィーラの指が止まる。
彼女はゆっくり身体を起こした。
「……もう、黒いよろいはいらない」
「?」
「わたしが守る。ぜったいに、きずつけさせない」
次の瞬間、服を掴まれる。
布がきしむ。
「ノアいがい、すてて!」
拳が落ちる。
一度。
二度。
三度。
「黒いの、いや!」
声が震える。
「血なんて、見たくない」
小さくなる。
「……見たくない」
皺が寄るほど、服を握りしめている。
エルドウルフは動かなかった。
振り払わない。
止めない。
ただ、その衝撃を受け止めている。
胸の奥が、静かに軋んだ。
――嬉しい。
守ると言われたことが。
怒られたことが。
あまりにも真っ直ぐで、
あまりにも人間らしくて。
だからこそ――受け取れない。
エルドウルフは剣を机に置いた。
「すぐには無理だ」
声は淡々としている。
「兵も増えた。鍛冶屋は忙しい。装備は変えられない」
感情を削いだ、現実の言葉。
フィーラの手が止まる。
「……でも」
続かない。
エルドウルフは青い髪に手を置いた。
一瞬だけ、指が止まる。
触れ方が、わずかに優しい。
「守ってくれるのはありがたい」
本音だった。
「だが、戦うのは俺の役目だ」
フィーラの手が、ゆっくり離れた。
背を向けて、ベッドへ潜り込む。
布がわずかに揺れる。
「……怒った」
小さな声。
エルドウルフは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「知ってる」
灯りを落とす。
暗闇の中、距離を空けて横になる。
「……まだ怒ってる」
「知ってる」
「しばらく怒る」
「そうか」
静かな夜。
虫の声だけが続く。
「おやすみ」
返事はない。
背中を向けたまま、布を胸のところまで引き上げる気配がした。
それから少しして、擦れる音が止まった。
エルドウルフは天井を見たまま動かない。
――静かな夜だった。
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