6章1幕神のいる日常(1)第35話 〜皆の明日〜
晩餐が終わり、卓に酒と果実水だけが残る頃、フィーラは夜の支度を済ませてサロンへ合流した。
南館二階の大きなサロンには、いつものように三台のソファがコの字に置かれ、長卓の上には飲み物と軽い菓子が並んでいる。
窓は少しだけ開けられ、夜風がゆるくカーテンを揺らしていた。
フィーラは自分の席へ歩き、素直に腰を下ろす。
その手には一冊の絵本があった。
「つづきを、読む」
小さく宣言して、本を開く。
ゆっくり、言葉を確かめるように読む。
以前よりも滑らかで、迷いが少ない。
『光る星を見つけた子ぎつねは、最初、それを自分だけのものにしようとしました。
けれど森のみんなが暗い道で困っているのを見て、丘の上へ運びました。』
フィーラは一度だけ顔を上げる。
誰も口を挟まない。
また視線を落とす。
『すると星は前よりずっと明るく光って、みんなの道を照らしたのです。』
本を閉じる。
ゴディエが穏やかに頷いた。
「よく出来ました、姫さま。文字の理解はもう十分ですね。次からは小説にいたしましょう」
「むずかしい?」
「もう大丈夫でしょう。何冊か見繕ってまいります。流行りの恋物語などいかがですか」
その瞬間、ルーソルが吹き出した。
「ゴディエが? ……いや、そこ勧めるんだ、って思って」
ゴディエはまったく動じない。
「読むのは私ではない。妻だ。それより、ルーソルはもう少し書物を読め。文の筋も古い文も、エルドウルフに負けていただろう」
「比較対象が悪いだろ、それは」
軽口がひとしきり落ちたところで、扉が開いた。
湯を浴び、着替えを済ませたエルドウルフが入ってくる。
まだわずかに湿り気を残した白金の髪を後ろへ流しながら、室内の様子をひと目で見渡した。
「何の話だ」
ゴディエがグラスを揺らしながら答える。
「お前が、剣だけの男ではないと姫さまに申し上げていたところだ」
エルドウルフはフィーラの隣まで来ると、ソファの背に腕を預けるようにして腰を下ろした。
執事が静かに近づき、飲み物を差し出す。
「余計なことを」
そう言って、彼はフィーラの手元の絵本を覗き込んだ。
ゴディエは気にした様子もなく続ける。
「事実だ。戦場ばかり見ていると忘れがちだが、お前は頭も回る。元宮廷教師の保証付きだ。ありがたく受け取っておけ」
フィーラは「?」と首を傾げた。
戦場に出てからというもの、彼が見せてきたのは剣と勝利ばかりだったのだから、無理もない。
エルドウルフはグラスを受け取り、わずかに肩をすくめる。
「戦しかしてこなかったと思われているだけだ」
「思われているというか、実際そうだろう」
フーガが言った。
「机より鞍の上の方が似合うのは確かだしな」
「好きに言え」
乾いたやり取りのあとに、室内の空気が少しだけやわらいだ。
腹心たちは、皆エルドウルフが子どもの頃から側にいた。
年長のエランとゴディエは学問を教え、フーガとアンリは剣と馬を叩き込み、ルーソルだけは少し年の近い学友として、ただ自然に隣へ座ってきた。
未来の王の周囲は、幼い頃から静かに整えられていたのだ。
杯が満たされ、会話はそのまま自然に仕事の話へ移っていく。
「明日は井戸の整備を見て回ろうと思う。
人が増えた。水を先に見ておきたい」
エルドウルフはそこで視線を上げた。
「ついでに、第二城壁の内外をつなぐ小運河の予定地も見たい。工事を始めるなら、運送路は早めに押さえておく。皆は?」
「第二城壁に行きます」
エランが短く言う。
「南地区の外側の石積み、詰め直しが終わるので」
「俺もそっち」
フーガが杯を揺らす。
「足場が外れる前に見ておきたい。そのあと、外の製鉄所予定地も回る。セシール川の砂の件、早めに形にしたいしな」
「中央道路は俺だ」
アンリが肩を鳴らす。
「荷車が増えてきた。轍が深い。西回りは王都へ続く道だからな。クワルノーからモンペル村まで、今のうちに形を整えておきたい」
「市場の帳簿を洗い直す」
ゴディエは落ち着いた声だった。
「夏の流入が想定より早い。人が増えるのはいいことだ。だが、増えてから決めるんじゃ遅い。店の場所も荷の出入りも、今のうちに筋を通しておく」
「じゃあ俺はエルドウルフと一緒に行くよ」
ルーソルが軽く言った。
「どうせ記録役はいるし、小運河の仮標点も置いておきたいからね」
そこで、フィーラも口を開いた。
「わたしも、あしたのよてい、ある」
ほんの少しだけ胸を張る。
順番が回ってきたと思っている顔だった。
「エランの『おくがた』のところへいくね」
杯の動きが、ほんの一瞬だけ止まる。
皆の視線が自然にこちらへ向いた。
エランがゆっくりと頷いた。
「もう妻には伝えてあります。いつでもいらしてください」
フィーラは小さく笑った。
「姉様に? 何か用事?」
ルーソルが聞く。
フィーラは少しだけ考えてから言った。
「ないしょ」
嬉しそうだった。
覚えたばかりの言葉を使う子どものように。
サロンにはまた、静かな笑いが広がった。
その柔らかな空気のまま、エルドウルフがふと思い出したようにエランへ視線を向ける。
「そういえば、ジュリアの体調はどうなんだ。順調か?」
テーブルに置かれた麦酒の泡が、ゆっくりと縁をなぞる。
「ええ。おかげさまで。悪阻も落ち着いたようです」
エランは穏やかに答え、ほんのわずかに肩の力を抜いた。
胸の奥に抱えていた安堵が、声の端ににじむ。
その言葉に、フィーラが首を傾げた。
「……つわりって、なに?」
問いは素直で、まっすぐだった。
「ジュリアは、お腹に子がいるんだ。悪阻は、ええと……」
説明しかけたエルドウルフの言葉が一瞬止まる。
その隙間を埋めるように、エランが静かに口を開いた。
「病ではありません。自然な反応です。吐き気や食事が難しくなることもありますが……もう峠は越えました」
お腹に子供――。
その響きが落ちた瞬間、フィーラの瞳がかすかに揺れた。
光を受けた水面のように、静かに、それでも確かに。
生まれる。
その言葉に、フィーラは小さく息を吸った。
失われる瞬間なら、数え切れないほど知っている。
消える灯。
途切れる声。
終わる命。
けれど、命がこの世界に加わる瞬間は、なぜか胸の奥を少し軽くした。
不思議だった。
とても、不思議だった。
「子供の名前、エルドウルフが付けてくださいね」
不意に落ちたその一言に、エルドウルフは思わず麦酒を吹き出しそうになった。
「子の名は、父が授けるものだろう。俺の役目ではない」
麦酒を一口流し込み、視線だけで静かに抗議する。
「未来の国王が名付け親であることは、子にとって誉れになります。奥もそれを望んでおりますので……どうか、お願いします」
エランは冗談めかさず、落ち着いた声で言った。
その声音には、家族を思う父の静かな誇りがあった。
周囲も、自然に頷いている。
誰も軽口として受け取ってはいなかった。
エルドウルフはしばらく黙り込んだ。
グラスの中で泡が弾ける音だけが、小さく続く。
やがて、視線を落としたまま口を開く。
「……わかった。考える」
短く、しかし逃げない声だった。
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