5章(5)第34話 〜銀糸の残光〜
市場の喧騒を一歩抜けると、通りの空気が変わった。
声が減る。
呼び込みの張り上げた声も、笑い声も遠くなる。
アザンクールは古い街だった。
王都へ向かう街道と北方交易路が交わる中継地として、長い年月をかけて栄えてきた都市。人口は五万ほど。王都ほどの華やかさはないが、街には積み重ねられた時間の重みがあった。
石畳は磨かれ、建物の壁は落ち着いた色合いで統一されている。
看板は控えめで、飾り立てるよりも質を示すような佇まいだった。
急速に広がるクワルノーとは違う。
ここでは、急ぐ必要がなかった。
すでに街は完成している。
商人たちの歩みは落ち着き、客の声も低い。
取引は声の大きさではなく、信用で成り立っている。
その通りの奥で、ルーソルが足を止めた。
「ここだね」
声は軽い。
けれど、扉を押す所作に無駄がない。
鈴が鳴る。
店内は静かだった。
天井は高く、窓からの光が斜めに落ちる。
床は深い色の木。
壁沿いの硝子棚には宝石が並び、
奥の卓には巻かれた糸が整然と置かれている。
糸は、宝石の隣に置かれていた。
それだけで、この店の格が分かる。
客は三組ほど。
年嵩の夫人と若い侍女。
商家風の男。
奥では帳面を開く番頭。
誰も騒がない。
「いらっしゃいませ」
年配の店主が現れた。
静かな店に似合う、無駄のない所作だった。
鋭い目が、まずフィーラを見る。
旅装の少女。見慣れない客。
そして次の瞬間――その視線がルーソルへ移った。
袖口。
手袋の縁。
腰の剣帯に留められた小さな金具。
そこに刻まれた紋章を見た瞬間、店主の背筋がわずかに伸びた。
翼を広げた鷹が盾を守る紋。
ロワール家の紋章だった。
(――本物だ)
顔には出さない。
だが内心で息を呑む。
王家に次ぐ名門。
その嫡流。
店の空気が、ほんのわずかに沈んだ。
「ご用件を」
先ほどよりも、わずかに低い声。
ルーソルは変わらず微笑んだ。
軽い表情のまま、自然に店内を一望する。
立ち位置が無駄なく、視線の動きが静かに店全体を測る。
それだけで、この場の主導権が移ったのが分かった。
「ロワールのルーソルディアだよ」
声は穏やかで、拍子抜けするほど軽い。
だが。
名を告げた瞬間、店の空気が完全に整った。
「……ロワール小公爵様」
店主が一歩下がり、わずかに頭を下げる。
周囲の客が、無意識に視線を向けた。
露骨ではない。だが分かる。
王家に次ぐ名門。
その重み。
「本日はどのような品を」
「刺繍用の金糸を。上質なものが欲しいんだ」
ルーソルは自然に一歩退き、視線だけでフィーラを促した。
主役は彼女だと、誰にでも分かるように。
フィーラは、静かに歩いた。
店主は一瞬だけ表情を改め、それから「少々お待ちくださいませ」と頭を下げた。
すぐには卓へ出さない。
奥へ引き、鍵のかかった細い戸棚を開け、そのさらに内側から浅い陳列箱を両手で運んできた。
卓の上へ置かれた箱の中には、数種類の金糸の束が並んでいた。
束といっても大きくはない。
ひとつひとつは掌に収まるほどで、見た目だけなら、驚くほど慎ましい。
けれど店主の手つきは、宝石箱を扱う時と変わらなかった。
その瞬間、窓から差し込んだ光が、まるでそこへ導かれるように集まった。
高窓から落ちた淡い光が、巻かれた糸の表面でやわらかく弾ける。
店内の空気が、わずかに澄んだ。
糸は、ただの糸ではなかった。
宝石のように、光を内側に孕んでいる。
黄金――ではない。
どこか冷たい輝き。
白金にも似た、金。
それは、いつも隣に立つ青年の髪を思わせた。
陽光の色。
重い。
静かな光。
戦場。
剣。
血。
思い出したのは、そういうものだった。
胸の奥で、小さく何かが揺れる。
守るための糸。
「……これ」
小さな声だった。
静まり返った店内で、店主が一瞬だけ躊躇する。
「こちらは、王侯級のお取引に限らせていただいております」
空気がさらに沈む。
一歩、ルーソルが前に出た。
動きは自然で、控えめなのに、場の重心が静かに移る。
「問題ある?」
声は穏やかだった。
店主はすぐに首を振った。
「失礼いたしました」
深く頭を下げる。
「必要な分をお包みいたします」
フィーラはその横で、もう一つの巻きを見つめていた。
淡い銀。
月光のような色。
「それも?」
ルーソルが問う。
フィーラは頷いた。
「こちらを三束と、銀糸を一巻。合わせて銀貨六十枚になります」
店主は静かに告げた。
フィーラは小袋を取り出し、指先で口を開いた。
中の硬貨が触れ合い、かすかな音を立てる。
覗き込む。
「足りる?」
真剣な声だった。
店主は一瞬だけ目を細め、すぐに深く頷いた。
「ええ。充分でございます」
その言葉に、フィーラの肩からわずかに力が抜けた。
小さく息を吐き、袋を差し出す。
受け取った店主の手が、丁寧に金糸と銀糸の包みを整え、
やがて両手で差し出した。
静かな店内で、その動きだけがゆっくりと完結する。
フィーラは両手で受け取った。
布越しにも分かる重み。
指先が、そっと包みの形を確かめる。
自然と指が少しだけ強く握られた。
胸の奥に、熱が灯る。
重い。
けれど、嫌ではない。
店主は包みを整えながら、ちらりと二人を見る。
何も言わない。
だが理解している。
これは、ただの買い物ではない。
ロワールの名で選ばれた糸。
王都でしか扱われぬ等級。
市場には決して並ばない金糸。
静かな店内に、重さだけが残った。
「買えて良かったね」
「うん」
フィーラは、ほんの少し胸を張った。
小さな誇らしさ。
けれど指先だけは、包みの重さを確かめるようにそっと触れている。
その横で、ルーソルはいつもと変わらない顔をしていた。
だからこそ、フィーラのその小さな緊張だけが浮いて見えたのかもしれない。
ルーソルが目を細める。
「大げさだよね。あの人たち」
フィーラは顔を上げた。
「……おみせのひと?」
「うん」
ルーソルは肩をすくめる。
「少し金糸を買うだけで、顔色を変えすぎだ」
フィーラは包みを胸元に抱えたまま、こくりと頷いた。
「うん」
その返事に、ルーソルはそれ以上触れなかった。
名門の重み。
店の緊張。
そういうものを、いちいち言葉にしないまま、ただ少し軽くしてしまう。
宝石店を出ると、アザンクールの通りは昼の光に満ちていた。
石畳が白く照り返し、人々の往来は絶えない。
衣擦れの音、香辛料の匂い、遠くから届く楽師の弦。
「少し眩しいね」
ルーソルが片手をかざす。
「うん。でも、きれい」
フィーラは目を細め、空を見上げた。
「次は市場だよね?」
「うん。胡桃と、アーモンドと、栗。それから……香辛料」
「クミンとシナモン?」
「そう」
「忘れないように、俺が持つね」
ルーソルは自然な動作で荷袋を受け取った。
同伴したルーソルの護衛騎士、ユーグは二人の後ろを一歩下がって歩く。
周囲へ絶えず視線を走らせながらも、口元はわずかに緩んでいた。
――良い買い物だ。
胸の内で、静かにそう思う。
市場は活気に満ちていた。
天幕の下には山のように積まれた胡桃。
麻袋いっぱいに詰められたアーモンド。
籠に盛られたアンジュールの栗が、艶やかに光っている。
「これ、エルの?」
ルーソルが胡桃の山を指先で示す。
「うん。好きなんだよ」
「へえ」
小さく笑う。
「ちゃんと覚えてるんだね」
「だいじなことだもの」
即答だった。
香辛料店では、ジョフロアの頼まれ物を選ぶ。
乾いたシナモンの甘い香りが、空気の中にゆっくりと溶けていた。
「せっかくなら、質の良いものを」
店主が布包みを差し出す。
ルーソルは軽く中身を確かめ、満足げに頷いた。
「これなら喜ぶよ」
最後に衣装店へ寄る。
青の幾何学模様が刺繍されたチュニック。
縁取りの糸は、青か薄桃色か。
「どっちがいいとおもう?」
「どっちも似合うよ」
少しだけ考えてから、
「でも、俺は青の方が好きだな」
「……そうなんだ」
フィーラは、迷いなく青色を選んだ。
会計を済ませ、荷は増えたが、ルーソルは軽々とまとめて肩に掛けた。
「持つよ」
「うん」
「日陰に入りなよ。暑いよ」
「へいき」
「強がりだね」
「ちがうよ」
そう言いながら、フィーラはちゃんとルーソルの影の方へ寄った。
その様子に、ルーソルが小さく笑う。
つられるように、フィーラも笑った。
馬を預けていたユーグが近づき、軽く会釈した。
「問題ありませんでした」
「ありがとう、ユーグ」
荷袋を鞍の後ろにくくりつける。
革紐で固定し、左右の重さを均等にする。
「帰ろうか」
「うん」
街を抜け、土の道へ出ると、風が少し涼しくなった。
並んで馬を進める。
急がない。ただ穏やかな歩調。
「楽しかった?」
ルーソルが聞く。
「うん。すごく」
迷いのない返事だった。
「それなら良かった」
それ以上は聞かない。
ユーグは後方で静かに目を細める。
――良い日だ。
城が遠くに見え始めた頃、
フィーラはそっと胸元に触れた。
包みの中には、二つの糸がある。
ひとつは、彼のための金糸。
もうひとつは、今日を一緒に歩いた人への銀糸。
その重みは、まだそこにあった。
◇◇◇
南館の通用口は、午後の光を斜めに受けていた。
荷を下ろす音と、馬の鼻息。乾いた革の匂いが、石壁のあいだにゆるく残っている。
ユーグが手際よく荷袋を外し、控えのメイドがそれを受け取っていく。
香辛料の包み、木の実の袋、丁寧に包まれた細長い箱。
フィーラは荷運びを手伝いながら、まだ少し名残惜しそうに荷へ目をやっていた。
そのときだった。
空気が、わずかに変わる。
先にそれに気づいたのは、荷を受け取っていたメイドたちだった。
視線が一斉に集まり、動きが止まる。
回廊の影から、エルドウルフが現れた。
足音は一定で、急いでもいないし、遅くもない。
ただ、まっすぐこちらへ向かってくる。
ルーソルは、ほんの一瞬だけ間を置いた。
何も悪いことはしていない。頼まれて、付き添っただけだ。
それでも胸の奥が少しだけざわついて、すぐに自分で肩の力を抜いた。
エルドウルフが足を止める。
その視線は一度フィーラに向き、次に荷へ落ち、それからルーソルへ戻った。
居心地の悪さ、とまではいかない。
けれど説明の要らない何かが、確かにそこにあった。
フィーラは、まだ袖をたくし上げたままだった。
荷を抱えたまま、真剣な顔をしている。
そこへ、ネレアが柔らかく手を打った。
「皆さん、もう大丈夫ですよ」
穏やかに微笑む。
「殿下は通りがかられただけです」
その一言で、張り詰めていた気配がほどけた。
メイドたちはほっとしたように頭を下げ、荷の整理に戻る。
まるで、最初からそこにいたかのように。
ネレアは一歩前に出て、エルドウルフへ向き直った。
「お仕事は、ひと段落つかれましたか?」
声は低く、あくまで自然だった。
「今日はお天気も良いですし……よろしければ、お二人で少し外へ出られては?」
その言葉に、フィーラが反応する。
「……!」
ぱっと顔を上げ、エルドウルフを見た。
「馬で、行ける」
少しだけ胸を張る。
「遠くまで、自分で乗って。行ってきた」
誇らしげな報告だった。
ルーソルは、そこでようやく小さく息を吐いた。
それを先に伝えたかったのだと、ようやく分かる。
そのあとで、フィーラはふと思い出したように振り返った。
「ルーソル」
「うん?」
「いと、つかってね」
小さな包みを差し出す。
淡い銀糸だった。
光を受けると、やわらかくきらめく。
ルーソルは一瞬だけ目を瞬かせ、それから受け取った。
「……へえ。俺に?」
「うん。似合うと思う」
「そうなんだ。ありがとう」
少しだけ笑う。
横でネレアが目を細めた。
「糸?」
「お礼だって」
ルーソルが答える。
ネレアは包みを一瞥し、それからすぐに理解した顔になった。
幼い頃から同じ宮で育った相手には、こういう時だけ昔の調子が混じった。
「ああ」
わずかに笑う。
「それなら、私に任せて」
「え?」
「房飾りにするわ。剣につけられるでしょう?」
「……それ、いいね」
「でしょ?」
短いやり取りが終わるのを待ってから、エルドウルフはようやく口を開いた。
「……いくか」
「ノアで」
ネレアが静かに頷く。
「では、行ってらっしゃいませ」
ルーソルも一歩引き、軽く肩をすくめた。
「気をつけてな」
フィーラは迷いなくノアに近づき、前に乗って手綱を取る。
エルドウルフはその後ろに跨った。
ノアは、二人分の重みをまるで気にした様子もなく、軽く首を振る。
ユーグが馬を引き、通用口のざわめきが戻ってくる。
ルーソルはその背を見送りながら、小さく息を吐いた。
横で、ネレアが静かに一礼する。
「姫さまのご同行、ありがとうございました」
「いや。俺も楽しかったよ」
ネレアが、ふっと笑う。
「……なに?」
「あなたって、変わらないわね」
「そう?」
「ええ」
それ以上は言わない。
二人は、並んでノアの背を見送った。
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