5章(4)第33話〜金糸と朝の約束〜
六月初旬の朝は、まだ涼しさを残していた。
南館から本館へ続く二階の空中回廊は、淡い朝の光に満ちている。
磨かれた石床には夜の冷えが残り、濡れた土の匂いが流れ込んでいた。
庭では散水の水音がやわらかく響き、若葉の先で雫が光る。
遠くで小鳥が短く鳴いた。
フィーラは、いつもの散歩の足取りで歩いていた。
隣にはネレアがいる。
けれど今朝は、胸の奥に昨夜の続きが残っていた。
刺繍箱を開けて、糸を見た。
青も銀もきれいだった。
けれど、それでは足りないと思った。
欲しいのは、もっと重くて静かな光だ。
あの人の髪に似た、淡い金。
歩きながら、フィーラはふと自分の指先を見た。
まだ針を持つのもおぼつかない手だ。
それでも、やりたいことだけははっきりしていた。
「かいものに、行きたい」
唐突だったが、声は真剣だった。
ネレアは一拍置いて答える。
「刺繍で使う金糸でございますか」
「うん」
小さく頷く。
「クワルノーでは、まだ扱いがございません。
王都か、隣領のアザンクールになりますね」
「ここでは、買えないの?」
「はい。
それに――」
ネレアは視線をやわらかく下げた。
「姫さまおひとりきりでは参れません。
騎士の同伴と、信用のある方の立ち合いが必要になります」
フィーラは首をかしげた。
「しんよう?」
「はい。金糸は、誰にでも売る品ではございません」
ネレアは静かに答える。
「高価なだけではなく、どなたのお求めかを店が気にいたします。後ろ盾のある方がご一緒でなければ、奥から出してもいただけません」
フィーラは少しだけ口を尖らせた。
「なんか、いや」
素直な本音だった。
そのとき、中庭から響いていた剣の打ち合う音が、ふっと途切れた。
遅れて、砂を踏む足音が近づいてくる。
朝稽古を終えたアンリが、陽に濡れた芝を横切って現れた。
額の汗を手の甲で拭い、肩を大きく回して息を整える。
「おはようございます、姫さま」
空中回廊の二人に気づき、眩しそうに目を細めて片手を上げた。
フィーラも手すり越しに小さく手を振り返す。
その背後から、ルーソルがゆっくり歩いてくる。
稽古着の袖をまくったまま、息ひとつ乱れていない涼しい顔だった。
ネレアが静かに手を引き、階段へと導く。
石段を降りるごとに空気が変わり、地上へ出た瞬間、夏の土の匂いがふっと立ち上った。
濡れた芝と陽の匂いが混ざり、朝の冷たさがやわらいでいく。
ネレアが簡潔に事情を伝える。
「金糸?王侯級だな。素材も加工も桁が一つ違う」
アンリが小さく息を吐いた。
ちょうどそのとき、回廊の反対側から低い指示の声が響いた。
「その箱は南倉へ。順番を間違えるな」
執事長ジョフロアだった。
数人の使用人が運び込む荷を監督し、帳面に目を落としながら歩いてくる。
香辛料の箱、布地の束、乾物の樽。
朝の城は、すでに動いている。
ジョフロアは一行に気づき、柔らかく会釈した。
「おはようございます。何かお困りで?」
ネレアがもう一度説明する。
「殿下にお願いなさいますか?
信用保証としては最強ですので」
ジョフロアが穏やかに言う。
ネレアは即座に首を振った。
「殿下は今週、会議が詰まっていると思います。」
「そうだな」
アンリが苦笑する。
「今朝も朝から面倒な顔してた」
その会話を、ルーソルは黙って聞いていた。
小さく笑って言う。
「じゃあ、俺でいいよね」
あまりに自然だった。
フィーラが振り向く。
「……え?」
「王都商人とも面識あるし。
信用も、まあ、あるよね」
ルーソルは軽く笑った。
「明日の早朝なら動けるよ」
あまりに自然な言い方だった。
頼まれる前から決まっていたことのように。
フィーラは一瞬だけ考え、そっと顔を上げる。
「……ほんと?」
「ほんと」
返事は迷いなく、すぐに返ってきた。
彼女は、少しだけ胸を張った。
「じゃあ、行く」
その様子を見て、ジョフロアがふと思い出したように口を開いた。
「せっかくです。私の使いもお願いしてよろしいですか。アザンクールの香辛料を少々」
穏やかな声音だった。だが、その眼差しはどこかやわらかい。
姫に頼むには些細すぎる用件を、あえて差し出している。
――人の暮らしの中へ、一歩踏み出す機会を。
フィーラは迷いなく頷いた。
「たのまれた」
声音は真剣だった。
責務を与えられた、まっすぐな顔。
ネレアがわずかに視線を伏せ、ジョフロアは小さく微笑んだ。
アンリが笑う。
「初めてのお使いか」
フィーラは、少しだけ顎を上げた。
「できる」
朝の光が、回廊の白壁をやわらかく照らす。
城はすでに一日の営みを始めている。
人が動き、荷が運ばれ、指示が飛ぶ。
その中に、フィーラも自然に立っていた。
更新 月曜日/木曜日 20:00
X更新情報/活動報告など発信してます
たまにイラストも
https://x.com/REANNEcreative




