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光を背負った王――神力を宿す王太子エルドウルフの戦記  作者: RE:ANNE
祈りは糸となり、石は壁となる

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5章(3)第32話 〜労働には対価がある〜

 翌朝、山はまだ湿り気を帯びていた。


 崩落で止まっていたはずの壁面に、最初の異変を見つけたのは若い工夫だった。


「……おい」


 声は小さかったが、手が止まる。


 一見しただけでは分からなかった。

 夜露を吸った岩肌はいつも通り黒く、崩れた土と砕石も、昨日のまま斜面に残っている。


 だが、近づくにつれて何かがおかしかった。


 壁面の表情が、妙に静かだった。

 崩れた岩肌特有の荒れ方がない。

 自然に割れた石ならもっと乱れるはずなのに、目に入る陰影がどこか揃いすぎていた。


「こんなに……入れたか?」


 思わず漏れた声に、近くの工夫が顔を上げる。


「何がだ」


「いや……これ」


 指先で示した先に、細い線があった。


 亀裂のようにも見える。

 だが違う。

 走り方があまりに素直で、深さまで揃っている。


 昨日までは、なかったはずのものだ。


「いや……昨日はそれどころじゃ――」


 ざわ、と空気が揺れる。


 崩れた箇所のさらに奥。

 山一つ分、その線は規則正しく伸びていた。


 自然に割れたにしては整いすぎている。

 人の手で入れたにしては、量も、深さも、静かすぎた。

 


「……おかしいだろ」


 誰かが呟いた。


 そのときだった。


「何がです」


 背後から落ちた声に、工夫たちは一斉に振り向いた。


 エランだった。


 いつものように帳面を抱えている。

 その姿を認めた瞬間、工夫も現場監督も反射のように背筋を伸ばした。


 この地へ王太子が入る前、領主代理として実務を回していた男だ。

 石切場の者にとっては、今もなお遠い上役だった。


「いえ、その……壁面に妙な筋が……」


 現場監督が言いよどむ。


 エランは崩落面を見上げた。


 濡れた岩肌に、異様なほど整った線が走っている。

 自然に割れたにしては揃いすぎていた。


 だが、そこで眉ひとつ動かさない。


「昨日、殿下が崩落を確認に来られた」


 静かな声だった。


 工夫たちは息を呑む。


「地盤を見られたのでしょう。切り出しやすいよう、先に手を入れられたのです」


 言い切る。

 迷いはない。


 その声音は説明というより、現場に与えられる答えそのものだった。


 工夫たちは顔を見合わせる。


 殿下。

 戦場の英雄。

 神の加護を受ける王太子。


 そう言われれば、そういうものなのかもしれない。

 少なくとも、自分たちに否定できる話ではなかった。


「……殿下の神力、ですか」


 誰かが半ば呆然と呟く。


 エランは肯定も否定もしなかった。

 ただ帳面を閉じる。


「崩落面に近づきすぎないように。順に切り出しなさい」

 

「無駄話に使う時間ではありません」


 その一言で、ざわついていた空気は実務へ引き戻された。


 工夫たちは慌てて持ち場へ散り、監督も遅れて声を張り上げる。


 エランはもう一度だけ壁面へ目をやった。


 何が起きたのかは知らない。

 知る必要もない。


 ただ、こういう形で現れる以上、殿下の名の下に収めるのが最も早かった。


 それだけのことだった。

 

「割れる石から順に下ろせ」


 現場監督が判断を下す。


「南側は小割り班を回せ。ロープは総点検。崩落面は三尺削って安定させろ」


「はい!」


「正しく入ってない箇所は深追いするな。亀裂に沿って落とせ。無理に広げるな」


「了解しました!」


 ざわめきは消えていた。

 代わりに掛け声が戻る。


 ロープが張られ、丸太が据えられ、石が音を立てて転がり始める。


 異常な量だ。

 だが、誰も止まらない。


「……殿下の神力は、すごいな」


 ぽつりと落ちた声に、エランは振り返らない。


 帳面に淡々と数字を書き込む。


「進捗は第二城壁へ優先的に回しなさい。」


 それだけ告げる。


 誰も疑わなかった。


 山一つ分の切れ込みは、“殿下の御業”になった。


 現場は回る。

 混乱はない。

 速度は落ちない。


 ただ、静かに、早まった。


 


南館三階。


 白を基調とした回廊には、等間隔に花が飾られている。

 静まり返った空気の中で、足音だけがやけに響いた。


 王族の私的領域であり、許された者しか踏み入れない階だった。

 そこへ、エランでさえ初めて足を踏み入れている。


 その扉の前で、エランは立ち止まった。


 軽く、二度ノックする。


 開いた扉の向こうに立っていたのはネレアだった。


「エラン様。本日はどのようなご用件でしょう」


 声は穏やかだった。

 だが、その視線は冷たいほどに澄んでいる。


 通すか、通さないか。

 その境界そのもののような眼差しだった。


「姫さまに少しだけ。石切場の件で」


 ネレアの目が、わずかに細くなる。


「……お怪我は?」


「ありません。ですが――」


 エランは言葉を選んだ。


「確認したいことがございます」


 短い沈黙。


 ネレアは扉の内側へ一瞬だけ視線を送る。

 室内は静かだった。


「姫さまは本日お疲れです」


 語尾は大きくない。だが、そこに含まれる拒絶は明確だった。


「長くはお時間を差し上げられません」


「承知しております」


 エランがわずかに頷くと、ネレアは道を開けた。


「応接で」


 私室ではない。

 手前の小さな応接間――それが、ネレアの引いた線だった。

 


応接間は簡素だった。


 白い壁。低い丸卓。

 午後の光が静かに差し込んでいる。


 フィーラは椅子に腰かけていた。

 背筋は伸びているが、どこか静かだ。


 エランは深く一礼する。


「お時間をいただき、ありがとうございます」


「うん」


 短い返事。


 ネレアは一歩後ろに控えたまま、二人の間を見守っている。


 エランは卓上に小さな革袋を置いた。

 重みのある音が落ちる。


「本日は、こちらをお持ちしました」


 フィーラは瞬きをした。


「……なに?」


「労働の対価でございます」


 その瞬間、ネレアの指先がわずかに動いた。


 エランは続ける。


「昨日、崩落により石切場の切り出しは止まっておりました。ですが今朝、現場を確認したところ、一山分の石に適切な切り込みが入っておりました」


 一拍置く。


「自然に起こるものではなく、工夫たちも驚いておりました」


 声はあくまで静かだった。


「現場には、説明が必要でしたので。殿下が処置なさった、と伝えてあります」


 フィーラの睫毛が揺れた。


 ネレアは何も言わない。

 だが、その視線は少しも逸れない。


 エランは革袋へ視線を落とした。


「誰が手を入れたにせよ、あれは仕事です。切り出しは進み、現場は助かりました」


 それから、フィーラをまっすぐ見た。


「ですから、こちらを姫さまへお持ちしました」


 短い沈黙が落ちる。


 フィーラは革袋を見る。

 それからエランを見る。


「……だめ、だった?」


 純粋な問いだった。


 エランは即座に首を振る。


「いいえ」


 迷いのない声。


「見事な仕事でございました」


 一拍置き、革袋を指で押す。


「全工夫一日分、銀貨八十枚相当です。

 本来なら帳簿に記すべき案件ですが、今回は私の裁量で」

 

 まだ新しい薄茶の革で作られた巾着は、口を細い革紐で固く結ばれ、中身の重みで卓の上にきちんと立っている。

 

「……おかね?」


「はい」


「これ、もらっていいの?」


「もちろんです」


 フィーラは袋に触れた。

 重い。

 

「労働には、対価があります」


 淡々としている。

 だが、揺るがない芯があった。


 フィーラは少し考える。


 昨日の熱。

 石の重さ。

 人の声。


 胸の奥がじんわりと温かくなる。


「……ありがとう」


 エランは深く一礼した。


「お好きなことに、お使いください」


 立ち上がる。


 扉へ向かいながら、最後に一度だけ。


「なお――ご無理はなさいませんよう」


 振り返らない。

 だが、確信のある声だった。

 

 エランは一歩退き、外套を整えた。


 肩口に光が落ちる。


 翼を半ば広げた鷹の刺繍。

 濃紺の糸に細い金糸が重なり、静かに輝く。


 フィーラの視線が止まる。


「……きれい」


 無意識の声だった。


 エランはわずかに表情を和らげる。


「妻が刺しました」


 肩に触れる。


「戦の無事を祈って、だそうです」


 ネレアが静かに言う。


「ストラス夫人の刺繍は社交界でも評判でしたね」


 エランは苦笑し、頷いた。


「祈りは、形にすると強くなるらしい」


 深く一礼する。


「本日は失礼いたします」


 扉が閉まった。


 しばらく、フィーラは扉を見ていた。


「……おくがたが?」


「はい。戦に出る前に、必ず」


 短い沈黙が落ちる。


「……まもるために?」


「ええ。無事を願って、針を持つのです」


 窓の外で、小鳥が枝を蹴った。

 軽い羽音が、応接間の静けさをかすめていく。


 フィーラは自分の手を見下ろした。

 石に触れていた指先。まだ少し硬い掌。


「……わたしも」


 ネレアが顔を上げる。


 風が窓辺の若葉を揺らし、ひとひらが室内へ滑り込んだ。

 白い床に、静かに落ちる。


「刺繍、してみたい」


 その言葉は小さかった。

 けれど、まっすぐだった。


 ネレアは一瞬だけ目を見開く。

 それから、ゆっくりと微笑んだ。


「ぜひ、なさってくださいませ」


 フィーラは首をかしげる。


「むずかしい?」


 ネレアは小さく笑う。


「ええ、とても」


 窓辺の葉が、わずかに転がった。


「ですが、ゆっくり覚えればよろしいのです」


 フィーラは少し考え込み、もう一度、小さく言った。


「やってみたい」


 ネレアの胸の奥が、静かに温かくなる。


 奇跡ではなく。

 祈りでもなく。


 糸を持ち、針を通し、誰かのために時間を使うこと。


 それを望んだ。


「では、明日、糸を揃えましょう」


 ネレアはそっと頭を下げた。

更新 月曜日/木曜日 20:00


X更新情報/活動報告など発信してます

たまにイラストも

https://x.com/REANNEcreative

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