5章(2)第31話〜誰も知らない夜の仕事〜
ネレアが静かに言う。
「姫さま。戻りましょう」
フィーラは頷いた。
だが視線は、最後まで山を離れなかった。
――彼女の中では終わっていなかった。――
夜。
南館の屋上には、誰もいない。
フィーラは石畳の中央まで歩き、眼下に広がるクワルノーの灯を見下ろした。
星の残り火のような光が、遠くで静かにまたたいている。
やがて、ゆっくりと目を閉じた。
――世界が、ひと呼吸遅れた。
風が引き、音が遠のき、空気そのものが彼女の次の動きを待つように静止する。
背に走る光は白ではない。
淡く青を孕んだ、月光の色だった。
衣が音もなく裂け、そのたびに、この世の理が静かにほどけていく。
六枚。
現れたのは羽ではない。
重なり合う、光の層。
一枚ひらくごとに、屋上の石畳がわずかに軋み、世界の均衡がほんのわずかに傾く。
誇示ではない。
威圧でもない。
――ただ、本来の姿。
足元の重力が、そっと手を離した。
石切場は暗く、無人だった。
山の輪郭だけが月明かりに浮かび、崩れた岩壁は夜の底で静まり返っている。
フィーラはその前まで歩み寄り、そっと指先を岩へ触れた。
形。
断面。
重心。
割れ目。
昼に見たすべてが、寸分違わず胸の内へ戻ってくる。
静かに息を吸う。
――音はない。
だが次の瞬間、世界の深いところで、何かがわずかに軋んだ。
石が砕けたのではない。
砕けるという結果だけが、先に定められたのだ。
岩は悲鳴を上げない。
抵抗もしない。
ただ、抗えない理に従うように、山そのものが静かに“解かれて”いく。
崩れない。
割れない。
存在の秩序だけが書き換えられ、
巨岩は最初からそうであったかのように、静かに並びを変えていく。
切り込みが走る。
大地が自ら線を引いたかのように、
巨大な山ひとつ分の安山岩が、規格通りの寸法へ揃えられていった。
人の手では百年かかる量だった。
それが、夜の静寂の中で終わっていく。
第二城壁を満たし、なお余りが出るほどの量。
やがて、羽が閉じた。
戻ってきた世界の重みが、遅れて身体へ落ちる。
フィーラはわずかによろめいた。
「……できた」
小さく言って、ほんの少しだけ胸を張る。
再び羽を広げる。
南館の屋上へ降り立った時、足元がわずかに揺れた。
それでもフィーラは何もなかったように立ち、いつも通り階段を降りていった。
その夜のサロンは、いつも通りだった。
大理石の床と壁に灯りがやわらかく照り返し、開け放たれた窓からは夜風が入ってくる。薄いカーテンがゆるく揺れ、その向こうでは虫の声が絶えず細く鳴いていた。
卓には、もう何本目か分からない空の酒瓶が転がり、残ったナッツと菓子の皿が雑に寄せられている。執事たちは少数だけ控えていたが、物音ひとつ立てず、視界の端で気配だけを保っていた。
フーガはほとんど寝巻きのような気楽な格好で長椅子にだらしなく座り、片手で杯を揺らしている。エランは少し離れた位置で静かに酒を口へ運び、アンリとルーソルは卓の端でカードを切っていた。
酒が回り、誰かがくだらない話で笑いを取る。
「おい、それ三回目だぞ」
「三回聞いても面白いだろ?」
「面白くねえよ」
短い笑い声が広がる。
会議には上がらない話。
家族のこと。
部下の失敗。
どうでもいい噂話。
それが、この時間の本来の姿だった。
エルドウルフはグラスを揺らしながら、肩の力を抜いて聞いている。
――戦場でも、会議室でもない時間。
だからこそ、誰も急がない。
その流れの中で、アンリが手札を卓へ伏せ、ふと思い出したように言った。
「そういや石切場、軽い崩れがあったらしい」
空気が、ほんの少しだけ実務に戻る。
「怪我は?」
エルドウルフが短く問う。
「脚を打ったのが三人。命に別状はない」
ゴディエが答える。
「監督は?」
「即中止。全員降ろしたそうだよ」
ルーソルが続けた。
エルドウルフは頷いた。
「いい判断だ」
「しばらくは隣の山だけだろう」
フーガが酒を傾ける。
「工期は多少遅れる」
「多少なら問題ない」
エルドウルフは杯を置いた。
「無理して死人を出す話じゃない」
再び空気は緩む。
誰かが酒を注ぎ、誰かが菓子をつまみ、話題はまたどうでもいい方へ戻る――はずだった。
フィーラは静かに座っていた。
いつもより言葉が少ない。
呼吸が浅い。
視線が、時折遠くへ滑る。
それに気づいたのは、エルドウルフだけだった。
グラスを置く。
体を起こし、膝に肘をついたまま一度息を吐く。
「今日はもう寝る」
一瞬の沈黙のあと、すぐに笑いが返る。
「早いじゃないか」
フーガがにやりとする。
「どうした、酒弱くなったか?」
「うるさい」
肩越しに言い返す。
「飲みすぎるなよ」
軽く手を上げて背を向けた。
フィーラが、自然に立ち上がった。
誰も不自然には思わない。
それが、いつもの流れだった。
サロンを出ると、廊下はもう静かだった。
後ろには護衛騎士たちが控えている。けれど、その気配も今では南館の日常に溶けていた。フィーラが殿下と並んで歩くことも、こうして四階まで送られることも、誰にとってももう特別ではない。
フィーラの歩調が、ほんの少し遅い。
呼吸が浅い。
エルドウルフは何も言わず隣に並び、歩幅を合わせた。
階段の手前で、彼女の足が止まる。
迷う間もなく手を取る。
指を絡めるでもなく、ただ離れないように握ったまま、そのまま四階まで上がった。
寝室前で護衛騎士が足を止め、内側の扉は執事が静かに開く。
「お休みなさいませ、殿下、姫さま」
いつも通りの、控えめな挨拶だった。
エルドウルフは短く頷くだけで、そのまま中へ入る。
寝室に入った途端、フィーラは糸が切れたようにベッドへ倒れ込んだ。
さっきまで立っていた力が、そこで一気に尽きたようだった。
エルドウルフは襟元の留め具を外しながら、低く言った。
「……無理したな」
「ちょっと」
枕に顔を埋めたままの返事だった。
短い沈黙が落ちる。
「次からは先に言え」
「……うん」
エルドウルフはベッドの縁に腰を下ろし、額にかかった髪を指先で払った。
視線が合う。
何も言わないまま距離を詰める。
触れるのは、短く一度だけ。
静かに熱が流れた。
フィーラの肩から力が抜け、呼吸が深くなる。
そのまま彼の胸元へ寄り、シャツをきゅっと掴んだ。
「……軽くなった」
「ならいい」
腕を回す。
抱き締めるのではない。
ただ、そこに置くだけだった。
肩に額が触れる。
「倒れる前に来い」
返事はない。
もう眠っていた。
エルドウルフは動かない。
起こさないよう、呼吸まで浅くする。
腕はそのまま。
「……まったく」
小さく息を吐いた。
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4章終了までの登場人物紹介をつくりました
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