第5章(1)第30話〜白い花は石の山へ向かう〜
漆黒の名馬ノアの背は、本来、王太子のためにある。
白金の君が跨った時、その姿は軍勢の象徴のようだった。
だが今、その場所にいるのは少女だった。
巨躯の上に咲いた白い花。
あまりに不釣り合いで――それなのに、ひどく自然だった。
春半ばの太陽が高く昇る。
クワルノー市街から伸びる幹線道。
整地され、固められた土の道を、フィーラを乗せたノアと、ネレアを乗せた栗毛の馬が西へ進んでいた。
クワルノーは急激に人口が増えている。
商いの馬車や荷車が絶え間なく行き交い、道は常に賑わっていた。
「姫さま、本当にこちらでよろしいのですか?」
隣で姿勢よく騎乗するネレアが声をかける。
「こっちでいい、の」
フィーラは小さく答え、周囲を見渡した。
幹線道路は山々を避けるように延び、六日進めば王都に着く。
もちろん、王都に向かうわけではない。散歩だ。
だが、街を抜けた先の道は景勝こそ良いものの、休憩できる場所があるわけではない。
強いて言えば、良質の安山岩を切り出す石切場がある。
「こっち、うるさいの。ひとがたくさんいる」
フィーラは二股の分かれ道で、ノアの首を軽く叩き、北へ向けた。
◇◇◇
深い青の岩肌にスロープが刻まれ、切り出された石の塊が丸太の上を転がされ、下ろされていく。
日に焼けた大柄な男たちが何本ものロープを操り、慎重に石を運んでいた。
息を合わせるための声、牛に号令をかける声、注意を促す声。
怒号にも似た掛け声が飛び交い、現場は熱を帯びている。
視界いっぱいに広がる光景に、フィーラは息を呑んだ。
切り出された石は地上で整然と積み上げられ、整形場へ運ばれるのを待っている。
「姫さま?!」
進捗を確認していたエランが二人に気づき、声を上げた。
「エラン様、お忙しいところ申し訳ございません」
先に下馬したネレアが一礼する。
フィーラも続いて、軽やかにノアから降りた。
エランはその姿を見て、わずかに目を見張った。
フィーラがノアに乗って来たこと自体が、まだ意外だった。
「たくさんのひと……おもいのに、はこんでる」
「この石で城壁を作るのです」
エランは運ばれてきたばかりの大きな石に手を置いた。
「街の防衛の礎になります。何より、早く成すべき事業なのです」
「じょうへき?」
「ええ」
一拍置き、静かに続ける。
「領民を守るための、大切なものです」
「……そうなんだ」
言葉の意味までは、まだ届かない。
けれど――そこにある熱だけは、分かった。
人が何かを守ろうとする時に生まれる、まっすぐな力。
胸の奥が、わずかに震えた。
嫌ではない。
むしろ、心地よかった。
ネレアは、その口元がほんの少し緩んだのを見逃さなかった。
「ネレア、かえろう」
満ち足りた声音だった。
フィーラは軽やかにノアに跨り、そのまま帰路についた。
翌日も、その翌日も、フィーラは石切場を訪れた。
最初こそ、場違いな少女に工夫たちは戸惑っていたが、懲りもせず姿を見せるうちに、自然と声をかける者が増えていった。
「お嬢ちゃん、また来たのかい」
「もの好きだなあ」
「怪我しないように、離れてなよ」
ぶっきらぼうな、山の男たちの言葉。
ネレアはわずかに眉を寄せたが――フィーラは嫌ではなかった。
むしろ。
ここに流れる空気は、街のどこよりも、まっすぐだった。
◇◇◇
クワルノー城、南館は王族の居住区だ。
四階をエルドウルフが、三階をフィーラが使っている。
本館と空中回廊で繋がる二階には、全面を白い大理石で仕上げた広い部屋がある。
天井まで届く窓の向こうには、ひらけたバルコニー。
もともと置かれていた豪奢な調度は、エルドウルフの意向で一新された。
代わりに窓辺には鉢植えの低木。無駄を削ぎ落とした空間は、不思議と彼らしく落ち着いている。
大きなローテーブルを囲むように、三台のソファがコの字に置かれていた。
ここは、皆の集まる場所だった。
かつて六人で囲んだ食卓の名残。
食事のあとも話は尽きず、夜更けまで笑い声が続くこともある。
そのまま誰かが寝落ちするのも、珍しくなかった。
今は、そこにフィーラもいる。
会議には上がらない小さな出来事。家族のこと。失敗談。くだらない冗談。
酒を酌み交わしながら、肩書きを脱いだ時間を共有する。
その輪の中で、フィーラは少しずつ知っていった。
城壁は、ただの石ではない。
守ろうとする人間の意志が、形になったものだということを。
◇◇◇
乾季にしては珍しく、雨が降っていた。
散歩には出られない。
フィーラは自室の窓辺に立ち、ぼんやりと外を見ていた。
視線は無意識に、西へ向いている。
「山のひとたち、今日はおやすみ?」
香炉に火を移していたネレアが、手を止めずに答えた。
「いいえ。嵐でない限り、作業は続けているはずです」
わずかに、フィーラの表情が揺れる。
「姫さまはお休みです。雨の中での騎乗はなりません。怪我や病のもとになります」
「でも……」
「いけません」
やわらかな声だったが、余地はない。
「ノアも、可哀想でしょう?」
――ノア。
フィーラは小さく息をついた。
「……うん」
◇◇◇
翌日、空気にまだ湿り気を残しながら、空は雲を払い高く晴れた。
昨夜の雨を吸った土が、ほんのりと匂う。
「……こんにちは」
フィーラは、いつものように石切場へ足を運んだ。
少し後ろに、ネレアが控える。
「おお! 嬢ちゃん、また来たかい!」
「離れて見ていきなよー!」
高所で綱を操る者、地上で石を受ける者。
怒鳴るような声が飛び交いながらも、動きに無駄はない。
丸太を転がす音、ロープが軋む音、鉄槌が石を打つ乾いた響き。
熱を帯びたその空気が、まるで波のようにフィーラへ届く。
胸の奥が、ほのかにあたたまった。
加工後に積み上げられた石の側で帳面をつけている役人に、フィーラは近づいた。
ネレアは一歩後ろで周囲を見渡している。
「大きく切り出した石を、決まった大きさに整えるのです」
役人は石を指で示した。
「この石切場の石は、大小六種類に加工して現場へ運びます。
切り出すのも、地上へ下ろすのも、同じ形に揃えるのも……なかなか骨が折れます」
フィーラは積まれた石を見上げる。
「この土地の石は素直で、比較的まっすぐ割れるのですが」
役人は表面を撫でた。
「表が平らなら、組み上げる作業はずっと楽になります」
「たいら? くみあげる?」
「ええ。平らであれば、水平に積みやすいでしょう?」
「ふうん」
「ですが、欲を言えば」
役人は苦笑する。
「細かい凹凸がありつつ、芯は真っ直ぐだと、なお良い。接着が強くなるのです」
「……ふうん?」
フィーラは積まれた石に手を触れた。
一つひとつ、形を確かめるように。
割れ目の走り方、角の立ち方、表面のざらつき。
まるで、覚えようとしているかのように。
切り出された安山岩は、陽を吸い込むように鈍く光っていた。
触れればざらりと指を削りそうなほど硬質だ。
「良い石なのです。これほど良質なものが取れるのは珍しい」
役人が笑顔で言った。
「地味で無骨ですが、とても丈夫です。この石で作る城壁は百年、二百年……それ以上残るでしょう」
「……それいじょう?」
フィーラは首を傾げた。
「ええ。城壁とは、そういうものです。
今を守るだけでなく、まだ生まれていない子どもたちを守るためのものでもある」
役人は積まれた石の角を軽く叩いた。
乾いた硬い音が響く。
「私たちは、その礎を積んでいるのです」
その言葉に、フィーラは黙った。
百年。二百年。
時間の長さは、正確には量れない。彼女にとっては、瞬きほどの差しかない。
けれど――“まだ生まれていない子どもたち”。
その響きは、胸の奥に静かに落ちた。
目を上げる。
汗に濡れた男たちの背。荒れた手。怒号のような掛け声。
彼らは、自分が見ない未来のために、石を積む。
――まっすぐだ。
その熱は、痛いほど澄んでいた。
フィーラは、そっと石に触れる。
ざらりとした感触。冷たく、重く、動かない。
この石が百年後も残るのなら、今ここで働く人たちの思いも、どこかに残るのだろうか。
「……すごい」
小さな声だった。
役人は、ただ誇らしげに頷いた。
その日は空が高く、乾いた風が山肌を撫でていた。
前日の雨で、岩肌はわずかに色を濃くしている。
石切場ではいつも通り、掛け声が飛び交っていた。
「張れ!」
「右、少し寄せろ!」
ロープが軋み、丸太が軋む。
切り出しかけの岩塊が、ぎしりとわずかに動いた。
フィーラは少し離れた高みから、その様子を見ていた。
ネレアは一歩後ろで、周囲に気を配っている。
ふと、違和感が走った。
今まで聞いていた重い軋みとは違う、乾いた、短い裂けるような音。
ぱき、と。
次の瞬間だった。
岩壁の一部が崩れた。
「下がれ!」
現場監督の怒鳴り声が空気を裂く。
大きな岩塊が斜面を滑り落ちる。
丸太が弾け、砂煙が立ち上る。
工夫たちは訓練された動きで散開した。
牛が暴れ、縄が外れ、怒号が重なる。
ネレアの手が、即座にフィーラの腕を掴んだ。
「姫さま、こちらへ」
有無を言わせぬ力だった。
フィーラは視線を崩落へ向けたまま、引かれるままに岩陰へ下がる。
土煙がゆっくりと落ち着いていく。
「怪我人は!」
「三人、足をやられた!」
「担架だ!」
声は荒いが、混乱ではない。
監督がすぐに判断を下した。
「作業中止! 全員、山を降りろ!」
躊躇はなかった。
「今日は終いだ! 山を空ける!」
工夫たちは即座に従う。
不満も抗議もない。
生きて帰ることが最優先だと、全員が知っている。
やがて人影は消え、山は静まり返った。
切り出しかけの巨大な岩塊だけが、中腹に残されたまま傾いている。
ネレアが静かに言う。
「姫さま。戻りましょう」
フィーラは頷いた。
だが視線は、最後まで山を離れなかった。
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