第4章(10)第29話 〜フィーラ〜
フェギスノーラは、クワルノーへ来てから、第二王妃の実家オリオンツォーナに連なる、異国から亡命した姫という立場を与えられた。
青い髪も、黄金の瞳も、隠すことはやめた。
それを不思議がる者はいても、闘神と結びつける声はほとんど上がらない。
この土地で彼女は、ただ「殿下のそばにいる姫」だった。
多くの人と関わり、様々な経験を重ねるうちに、語彙は増え、表情は豊かになった。
――その分だけ、厄介にもなった。
今日も早朝から、行き先も告げずに馬で出かけている。
帰城の予定時間に、ようやく同行者の名を聞いた。
「……ルーソル?」
思わず、声が低くなる。
アンリでもよかった。
フーガでもよかった。
武人然とした二人なら、余計な心配をせずに済む。
ルーソルは違う。
気が利き、穏やかで、会話の間合いを知っている。
人当たりがよく、誰とでも距離を詰めすぎない。
――あいつは、ちょうどよくそこにいる。
「……だから、か」
エルドウルフは、机に置いた指先をわずかに動かした。
彼女はもう、「連れて行かれる存在」ではない。
誰を選び、どこへ行くかを、自分で決め始めている。
それを止めるつもりはない。
だが――
「次からは言え」
誰と行くかではない。
行き先でもない。
せめて、「動く前に」。
そこだけは、先に聞いていたかった。
◇◇◇
中央棟から南館へ向かう回廊を、エルドウルフは足早に進んでいた。
会議は一区切りついたが、頭の中はまだ忙しい。
(……戻るなら、南館の通用口か)
馬で出ていくなら正門だ。
だが買い物帰りなら、荷物が多い。
通用口の方が早い――はずだ。
そんなことを考えながら角を曲がった。
南館の通用口に近づいた瞬間、空気が変わった。
先にそれに気づいたのは、荷を受け取っていたメイドたちだった。
視線が一斉に集まり、動きが止まる。
「――殿下」
誰かが小さく声を上げると、それが合図になったように、メイドたちは揃って一歩下がり、姿勢を正した。
荷下ろしの音が消える。
ざわめきが、すっと引く。
そこに残ったのは、積まれた荷と、ネレアと、ルーソルと護衛騎士、フェギスノーラ。
エルドウルフは、思わず足を止めた。
フェギスノーラは袖をたくし上げたまま、袋を抱えている。
真剣な顔で、仕事をしている最中だった。
ルーソルが、遅れてこちらを見る。
「……あ」
一瞬、間があった。
居心地の悪さ――とまではいかないが、説明の要らない“何か”が、確かにそこにあった。
ルーソルは悪くない。
そんなことは、エルドウルフ自身が一番知っている。
それでも、自分だけが場外に立っているような感覚は拭えなかった。
その空気を柔らかく解いたのは、ネレアだった。
「皆さん、もう大丈夫ですよ」
穏やかに微笑み、手を軽く打つ。
「殿下は通りがかられただけです」
その一言で、張り詰めていた気配がほどけた。
メイドたちはほっとしたように頭を下げ、荷の整理に戻った。
まるで、最初からそこにいたかのように。
ネレアは一歩前に出て、エルドウルフへ向き直る。
「お仕事は、ひと段落つかれましたか?」
声は低く、あくまで自然だった。
「今日はお天気も良いですし……よろしければ、お二人で少し外へ出られては?」
その言葉に、フェギスノーラが反応する。
「……!」
ぱっと顔を上げ、こちらを見る。
「馬で、行ける」
少しだけ胸を張る。
「遠くまで、自分で乗って。行ってきた」
誇らしげな報告だった。
――ノア。
黒く大きな、エルドウルフの愛馬だ。
優秀だが少し気難しく、本来は誰にでも扱える馬ではない。
ハンサンから王都へ、王都からクワルノーへ向かう行軍のあいだ、フェギスノーラは何度もこの馬の背にエルドウルフと並んで乗っていた。
その頃の彼女自身は、ノアにさほど関心を向けていなかったはずだ。だがノアの方は違ったらしい。乗せるたび、少しずつフェギスノーラの気配に慣れていった。
乗馬の基礎を覚えたのは、癖の少ない栗毛の馬である。
それとは別に、ある日馬場でノアと向き合った時、この気難しい名馬は最初からフェギスノーラを嫌がらなかった。
他の馬がどこか身を引くのに、この馬だけは妙に素直だった。
動物の方が敏いのかもしれない、とエルドウルフは思った。
政務に追われて自分がノアに乗る機会は減っていた。
ならば好きな時に乗ってやってくれと、彼は気安くフェギスノーラへ貸した。
今では、ノアはその動きにも静かに応じている。
エルドウルフは、何と言えばいいのか少しだけ迷った。
フェギスノーラの嬉しそうな顔を見て、息をひとつ吐く。
考えるより先に、口が動いた。
「……いくか」
一拍置いて、
「ノアで」
ネレアが、静かに頷く。
「では、行ってらっしゃいませ」
ルーソルも一歩引き、軽く肩をすくめた。
「気をつけてな」
フェギスノーラは、迷いなくノアに近づいた。
前に乗り、手綱を取る。
エルドウルフはその後ろに跨る。
ノアは、二人分の重みをまるで気にした様子もなく、軽く首を振った。
前にいるフェギスノーラの背中は、以前よりも安定している。
彼女は前へ進んでいる。
自分の足で。
その事実を静かに受け止めながら、エルドウルフは手綱に添えた手へ、わずかに力を込めた。
ノアは、城を離れるとすぐに歩調を緩めた。
丘へ向かう道はよく踏み固められていて、馬の蹄が乾いた音を立てる。
「ふたりで乗るの、ひさしぶり。ね」
フェギスノーラが振り返らずに言う。
「そうだな」
「わたし、馬に乗るの、じょうずになったでしょ?」
少しだけ、胸を張る気配。
「ああ。すごく上手くなった」
即答だった。
フェギスノーラは満足そうに頷くと、慣れた動作で横乗りに変えた。
「ハンサンからリノンまで、こうして乗ってた。ね?」
その言葉に、エルドウルフの視線が一瞬だけ遠くなる。
「……そうだな」
返事は、少し遅れた。
行軍の記憶。
冷たい風、沈黙、祈りの重さ。
そして、確かにここにあった温もり。
今はもう、あの頃とは少し違う。
丘が近づくにつれ、空気が変わる。
葉擦れの音が増え、日差しがまだらに落ちてくる。
フェギスノーラは、嬉しそうに息を吸った。
「ここ、すき」
「俺もだ」
それだけで、十分だった。
ノアの背は安定していて、
前にいる小さな背中は、もう揺れていない。
エルドウルフは、ようやく肩の力を抜いた。
――大丈夫だ。
そう、言葉にしなくても分かる。
今はただ、
このまま進めばいい。
湧水の小川がある白樺の林に着いた。
白い幹は柔らかく、家具材に向くために間引かれている。
切り出しのため下草も刈られ、林の奥はひらけていた。
木漏れ日が落ち、風が通り、初夏でもひんやりとする場所だ。
フェギスノーラはノアから降りると、言葉もなく小川に近づいた。
しゃがみ込み、水面を覗く。
しばらく、何も言わない。
それから、小さく息を吸った。
「……きれい」
水の中で、淡い花が揺れている。
流れに逆らわず、静かに咲く水中花だった。
指先を伸ばしかけて、止める。
代わりに、首を傾げる。
「……お花。中に、ある」
確かめるような声。
さらに視線を動かし、また少し黙る。
「……おさかな……いる?」
問いというより、探すための言葉だった。
フェギスノーラは身を乗り出し、
流れの影を一つ一つ追っている。
初めて見るものを、
急がず、順に受け取っているようだった。
エルドウルフは、その背を見下ろしながら思う。
――やっぱり。
ここを、好きになると分かっていた。
けれど、こうして見るのは初めてだ。
何も知らないまま、世界に触れる姿を。
水音と、葉擦れと、
小さな息遣いだけが、林に満ちていた。
フェギスノーラは、しばらく黙ったまま小川を見つめていた。
水の流れ。
花の揺れ。
石の影。
視線を動かしながら、一つずつ確かめる。
やがて、小さく首を振った。
「……さかな、いなかった」
少し間を置いて、続ける。
「……ざんねん」
それだけ言うと、すっと立ち上がった。
水際から離れ、草を踏み、
ぱたぱたと小走りで戻ってくる。
エルドウルフの横まで来て、止まる。
特別な言葉はない。
ただ、そこに並ぶ。
――見て、分かって、納得して、戻る。
白樺の葉が揺れ、
小川は変わらず、静かに流れている。
手ぶらで来たことに気づき、エルドウルフは自分の外套を外した。
草の上に広げる。
「水草の中に、隠れてるんだろう」
そう言いながら、ブーツを脱ぐのを手伝い、並んで腰を下ろす。
肩が触れそうで、触れない距離。
日々身体を動かすようになり、華奢だった手足にはほんの少しだけ筋が通っていた。
以前は足首まであった髪も、邪魔だと言って腰のあたりで切り、今日は高い位置で結っている。
乗馬用の刺繍の入ったチュニックに膝丈のズボン。
少しずつ、この土地で動くための姿になっていた。
「……きょう、ね」
少し考えてから、フェギスノーラが言う。
「遠くに、行った」
「どこまで?」
「アザンクール。……いちば」
膝を抱え、隣に身体を傾ける。
「大きかった。人、いっぱい」
言葉を探しながら続ける。
「ハンサンの人と、ネルマの人……たくさん、いた」
「ひとりじゃむりだから」
小さく首を振る。
「ルーソルと、行ったの」
「……俺にいえばよかった」
ぽつりと零すと、フェギスノーラは少し驚いた顔をした。
「みんながね」
フェギスノーラはすぐに思い出したように言った。
「エルドウルフ、いそがしいって」
エルドウルフは一拍だけ黙る。
「みんな?」
短く問い返す。
「みんな」
迷いのない答えだった。
会議。視察。報告。決裁。
今日の予定は、確かに朝から隙間なく埋まっていた。
事実だ。
間違ってはいない。
――それでも。
ほんのわずかに、息を吐いた。
「疲れなかったか?」
責める声ではない。
視線だけを向けて問う。
問いの形をした、別の何かだった。
「……だいじょうぶ」
一拍おいて、
「ノアが、ゆっくり歩いた」
思い出すように、少し口元がゆるむ。
「ゆれないで……」
言葉が途切れ、
「やさしかった。エルドウルフ、みたい」
ふふ、と小さく笑う。
そんな歩き方をする馬だったか、と、愛馬を見る。
ノアは知らん顔で下草を食んでいた。
エルドウルフは何も言わず、前を見たまま頷いた。
白樺の葉が、風に揺れる。
小川の水音が、二人の間を静かに満たしていた。
マントの上に寝転がる。
エルドウルフの右肩に頭を預け、白金の髪を撫でるその指先は、少しだけ荒れていた。
手綱を握っていたせいだろう。
「市場では、何を買ったんだ?」
「執事長にたのまれたものと……それから、服」
一瞬だけ言葉を探して、続ける。
「刺繍の、きれいなのを見つけたの」
「服?」
「うん。エランがね、好きなものを買いなさいって、おかねをくれたから」
指を折りかけて、途中でやめる。
「それと……エルドウルフの、好きなものも」
「俺の?」
「うん。いったくるみと、アーモンド。アンジュールのくりも」
少し誇らしげだ。
「……覚えてたのか」
「覚えるよ」
間を置かずに言う。
「だいじなことだもの」
くすっと笑って、付け足す。
「あとね……ないしょのものもある」
「内緒?」
「ないしょ。教えない」
楽しそうに笑う横顔は、もう言葉に迷う少女のものではなかった。
「じゃあ代わりに、後で買った服を見せてくれ」
「いいよ」
小さく頷いて、
「エルドウルフのめと、同じ色のいとで刺繍してあるの」
刺繍が好きなのだ。
天界にはなかった、人の手の仕事。
初めて着た人間界の服に施されたハンサンの刺繍を、フェギスノーラは飽きもせず眺めていた。
幾何学模様と、ネルマの刺繍――特に気に入っているらしい。
「クワルノーにも、刺繍の職人を誘致した方がいいな」
「それ、いいね」
素直に声が弾む。
「うれしい。きっと、みんな、よろこんで買ってくれる」
城より北部は、製糸を産業にするつもりだった。
刺繍の職人を呼び、技を伝え、工房を作る――悪くない。
フェギスノーラが小さく欠伸をした。
朝から出かけていたのだから、疲れが出るのも無理はない。
「寝なよ」
エルドウルフはそう言って、肩の力を抜く。
支えるでも、抱くでもなく、ただ動かずにいる。
「昼寝には良い場所だろ」
返事はなかった。
けれど、しばらくして呼吸がゆっくりと整っていく。
エルドウルフは視線を落とさず、ただ空を見ている。
動けば、目が覚めてしまいそうで。
だから、動かない。
マントの上で眠る少女の重みが、そこにある。
それだけで、十分だった。
――静かな午後だった。
◇◇◇
木漏れ日がまぶたを透かし、フェギスノーラは目を覚ました。
白樺の葉が触れ合い、かすかな音を立てている。
小川の流れは変わらず、途切れることがない。
どれくらい眠っていたのかは、分からなかった。
視界が、少しだけ高い。
頬の下にあるものは硬く、温かかった。
瞬きをひとつ。
すぐ近くで、規則正しい呼吸が続いている。
エルドウルフの腕だった。
少しだけ考える。
それから、重みを確かめるように、わずかに力を預けた。
退こうとは思わなかった。
風が白樺を鳴らす。
それでも腕は動かない。
呼吸の速さも変わらない。
フェギスノーラは空を見上げた。
いつもより、少し近い。
温度だけを感じながら、しばらくそのままでいた。
「……起きたか」
不意に声が落ちてきた。
フェギスノーラは瞬きをする。
「うん」
腕が静かに抜かれる。
エルドウルフは一度だけ手を握り、すぐに離した。
そのまま、さりげなく指を開く。
次に、閉じる。
わずかに動きが鈍い。
外套を払うふりで、もう一度だけ手を振った。
「戻るぞ。日が傾く」
先に歩き出す。
フェギスノーラは気づかない。
ただ一歩遅れて、その背を追った。
白樺の影が揺れる。
エルドウルフは振り返らない。
けれど歩幅だけが、ほんの少しだけ狭くなっていた。
世界はいつもの高さに戻った。
それでも、さっきまで見えていた空の位置を、フェギスノーラはまだ覚えていた。
白樺の葉が、風に触れてかすかに鳴っていた。
小川は変わらぬ速さで流れ、水中花が水面に揺れている。
フェギスノーラは彼を追い越し、少し前を歩いていた。
ときどき立ち止まり、名残を惜しむように振り返る。
エルドウルフはノアの手綱を引き、その後ろを行く。
誰も急いでいない。
静かな帰り道だった。
白樺の細い葉が、風に触れるたびさらさらと鳴る。
少し離れたところでは、小川が石に当たり、絶えず細い音を立てていた。
草を踏むたび、やわらかな気配が足元で揺れる。
「神さま」
呼ぶと、フェギスノーラが振り向いた。
群青の髪が風にほどけ、肩のあたりでゆるく揺れる。
木漏れ日がその横顔をかすめ、淡い肌にひと筋の光を落とした。
「なに?」
エルドウルフは少しだけ考える。
白樺の幹へ視線を置き、それから言った。
「いつまでも『神さま』では、困るな」
フェギスノーラは首を傾げる。
「困る?」
「ああ。呼び名がないと」
それだけだった。
提案でもなく、相談でもない。
ただ、必要だと思ったという響き。
短い沈黙が落ちる。
水が流れる音だけが続いた。
風がまた一度、二人のあいだを抜けていく。
「フィーラ」
エルドウルフが言った。
彼女は瞬きをする。
「わたし?」
「白い花の名だったな。古い書にあった。
人の手では育たない花だ」
その言葉のあと、白樺の梢がひとしきり揺れた。
葉の音が重なり、小川の水音まで一瞬だけ近く聞こえる。
「悪くないだろ?」
それ以上は語らない。
彼女は小さく口の中で繰り返した。
「フィーラ……」
音を確かめるように、もう一度。
風が髪をさらい、群青の先が光を含んで泳いだ。
「いいよ」
と、フェギスノーラは言った。
エルドウルフは頷かない。
ただ歩き出す。
フェギスノーラはあとを追う。
草を踏む音が、今度は二人分、静かに重なった。
歩きながら、今度ははっきりと言った。
「エルドウルフ」
「なんだ」
「もう一回」
わずかに息を吐く。
「フィーラ」
風が二人の間を抜けた。木漏れ日が小さく揺れた。
しばらくして、フェギスノーラが前を向いたまま言う。
「わたしは、フィーラです」
誰に向けるでもなく。
ただ、形にするように。
白樺の葉がまた揺れた。
水は変わらず流れ、午後の光は木々のあいだから静かに落ちてくる。
二人は並んで林を抜けた。
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