4章(9)第28話 〜静かなる拡張〜
役人たちは、その背中を見ながら、ようやく理解し始めていた。
この男は、戦場で剣を振るうだけの器ではない。
王都では神力の王太子、戦の英雄として語られることが多い。実際、クワルノーへ来るまでは、彼自身も軍事面を主に担ってきた。だから役人たちのどこかには、内政や都市経営となれば腹心たちが実務を回し、王太子は大枠を見るだけだろう、という甘い見積もりが残っていた。
だが違った。
卓上に積まれた紙束を前にした時のエルドウルフは、剣を持つ時と同じ目をしていた。
数字を追う視線が速い。ただ速いだけではなく、迷いがない。
必要なものだけを拾い、不要なものを切り捨て、紙の上に隠れている歪みを一つずつ引きずり出していく。
「……第二城壁、進みが早すぎる」
書類を見下ろしたまま、エルドウルフが言った。
声は低く、感情は薄い。
だが、その一言だけで卓の空気が変わった。
紙を一枚、めくる。
乾いた音が、妙に大きく響いた。
「何だ、これは」
視線が数値の列を滑っていく。
「石材の搬入量。切り出し速度。加工日数。積み上げ人数――」
そこで、ぴたりと止まる。
「合わない」
短く言い切られたその一言に、役人たちの喉が目に見えぬまま詰まった。
誰もまだ口を開いていない。
それなのに、責められたと思ったのだろう。
次の瞬間には、何人かがほとんど反射で言葉を重ねていた。
「手抜きはしておりません!」
「記録に偽りはございません!」
「工程はすべて実数で――」
「そういう意味じゃない」
エルドウルフが遮る。
強い声ではなかった。
それでも、その場にいた全員が口を閉ざした。
彼はなおも紙面から目を離さない。
「通常の工程では追いつかん」
「早い、では済まない。異常だ」
役人たちは顔を見合わせた。
言い逃れの余地を探したのではない。むしろ逆だ。
どこを見てそこまで言い切ったのか、分からなかったのである。
搬入量、日数、人足の数。
自分たちにはただ並んで見えていた数字が、王太子の目には最初から一つの形として映っていたらしい。
その事実が、じわじわと遅れて効いてくる。
この男は、勘で言っているのではない。
まして、戦場の癖で威圧しているのでもない。
紙の上の数だけで、積み上がり方の異常を嗅ぎ取っている。
戦々恐々、という言葉を、何人かはその時ようやく実感として知った。
そこでようやく、役人たちは言葉を飲み込んだ。
沈黙が落ちる。
さっきまで紙の音と返答だけで回っていた会議が、そこで初めて止まった。
誰もが視線の置き場を失い、机上の書類か、インク壺か、自分の指先ばかりを見る。
エルドウルフは急かさない。
急かさないまま待っている。
その沈黙の方が、下手な叱責よりよほど重かった。
やがて、一人が恐る恐る口を開いた。
「建材の安山岩が……想定以上に早く確保できまして」
「確保?」
エルドウルフはそこで初めて顔を上げた。
役人は喉を鳴らした。
その一言だけで、もう誤魔化しは利かないと悟った顔だった。
「はい」
「切り出しも、運搬も、予定よりずっと早く進みました」
だが、まだ言い切らない。
どこまで言ってよいのか、測っている。
自分の口から出した途端、それが誰の采配で、誰の意志だったのかまで確定してしまう。そんな怖れが見える顔だった。
「続けろ」
短い命令だった。
強い声ではない。
だが、逃げ道を残さない。
役人は思わず背筋を正し、それに押し出されるように言葉を継いだ。
「その……」
「殿下が、何らかの手配をしてくださったと伺っております」
一瞬、部屋が静まった。
今度の沈黙は、先ほどとは質が違った。
役人たちの間に走ったのは怯えだけではない。
どこか納得に近いものが混じっていた。
だからか。
だから、この速度で進んだのか。
そう思う者と、
だが殿下はこの場でそれを初めて聞かされたように見える、と気づく者が、
同時にいた。
エルドウルフは何も言わない。
視線だけが、書類から離れる。
その静かな目に、役人たちはますます言葉を失った。
自分たちは今、何を明かしてしまったのか。
あるいは、誰の独断を晒そうとしているのか。
そこまで考えが追いつきかけて、誰もが次の一言を待つしかなくなった。
数日前。
フェギスノーラの様子が、どこかおかしかった。
二日に一度のマナ補給で、普段ならあそこまで落ちない。
少し休めば済む。少なくとも、歩調が乱れ、呼吸が浅くなり、寝台へ倒れ込むほどではなかった。
だが、あの日は違った。
階段の手前で足が止まり、部屋へ入るなりそのままベッドへ倒れ込んだ。
理由は聞かなかった。
だが今なら分かる。
――あれか。
そう思った瞬間、視線が横へ流れた。
エランがいた。
表情は変わらない。
ただ、ほんのわずかに口元が緩み、肩をすくめるでもなく、目だけを逸らした。
それで十分だった。
「……エラン」
名を呼ばれても、エランは慌てない。
「有能な殿下のおかげ、でございます」
澄ました声だった。
悪びれる気配は、まるでない。
エルドウルフは額に手を当て、
深く息を吐いた。
「勝手に、話を盛るな」
言い方は抑えていた。
だが、呆れているのは明らかだった。
「事実を、分かりやすく整えただけです」
エランは即答した。
「説明が要るほど、工期が縮まりましたので」
そこで、役人たちはようやく口を閉じた。
誰も何も言わない。
だが、言われなくても分かった。
自分たちが見ていた“異常な短縮”は、
ただ現場が頑張っただけではない。
それ以上の何かが、動いていたのだと。
「……次からは一言言え」
エルドウルフが言う。
「はい。次は必ず」
守る気があるかどうかは、怪しい返事だった。
短い沈黙のあと、エランが何事もなかったように続けた。
「なお、建材の確保量から見て――」
書類の端を指で軽く叩く。
「第三城壁も、同時進行で進められます」
場の空気が、ぴたりと止まった。
「……第三?」
エルドウルフがゆっくりと顔を上げる。
ゴディエが書類の端を指で叩いた。
「外周は、計画上三十キロを超えます」
役人の一人が息を呑む。
「中央に知られれば、間違いなく詮議が入る規模です」
ゴディエが淡々と続ける。
「第二城壁は、防衛の最終線。戦時、民衆を守りきるための壁です」
指が、地図のさらに外側をなぞる。
「第三城壁は、街そのものの大きさを示す。
未来のクワルノーの外周――つまり、この街がどこまで伸びるかの指標になります」
僅かな沈黙の後、
「ゆえに、同時進行は『静かに』行うべきでしょう」
誰も、軽口を挟まなかった。
その距離が意味するものを、全員が理解したからだ。
「はい、計画通りに。」
エランは平然としている。
「優先順位は第二城壁です。こちらは完成を急ぐ必要がありますから」
さらりと付け加えた。
「ただ、石の切り出し量が想定を大きく上回っておりますので、運び出しの方が律速です」
役人の一人が思わず声を上げる。
「第三城壁は、まだ草案では……」
「設計は終わっています」
ゴディエが淡々と口を挟んだ。
「基礎位置も確定済みだ」
「資材は?」
「人員は?」
矢継ぎ早に飛ぶ質問に、エランは胸を張った。
「石は潤沢です。置き場に困るくらいに。
人手は第二が山場を越え次第、順次回します」
エルドウルフは、額に指を当てたまま黙り込んだ。
――合理的だ。
否定する理由が、どこにもない。
「……第二の完成が最優先だ」
ややあって、そう告げる。
「もちろん」
エランは即座に頷いた。
「第三は『静かに』進めます。目立たぬように」
その言い方に、腹心たちは察したように息を吐いた。
「……お前らな」
エルドウルフは小さく苦笑した。
「そこまでやるなら、半端で終わらせるな」
「最初から、そのつもりです」
エランの声は静かだった。
だが、その静けさの奥にあるものまで、この場にいる誰もが聞き取った。
異常なまでに有能な領主の下で働くということは、
甘えも、遅れも、許されない。
役人たちは震えながら理解した。
それでも――この速度に、必ず食らいつくと。
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