4章(8)第27話 〜幸福な多忙〜
四月の初め、クワルノーは元々の領民一万五千人と、エルドウルフに従って王都から移転してきた五千人だけだった。
それが六月には三万人を超えている。
開墾、住居、道路、井戸、畑。
畜産の整備に、法の整え直し。
自衛団と軍事の再編、商業産業の選別、商人の誘致。
課題は雪崩のように押し寄せていた。
だが、戦争はない。
エルドウルフも腹心たちも、王都から付き従ってきた役人や軍人も、
皆が同じ方向を向いていた。
――やるべきことが多いのは、幸福なことだった。
本館二階、南向きの会議室には朝の光が深く差し込んでいた。
南側は広いテラスに面しており、天井近くまで届く高窓から、夏へ向かう明るい日差しが白い壁と石床を照らしている。
室内の中央には長い机が据えられ、その周囲を腹心たちと各分野の役人が囲んでいた。
家具はどれも重厚だが、調度は驚くほど少ない。
見せるための部屋ではなく、使うための部屋だと一目で分かる整え方だった。
扉の脇には護衛騎士が二名、無言で控えている。
窓の外では風がテラスの鉢植えをわずかに揺らしていたが、室内にいる者の意識を散らすほどではない。
午前の会議。
卓上には茶と焼き菓子、無造作に盛られたナッツ。
形式ばらないが、無駄話はない。
「セシール河東二地区の桟橋だが、あと一メートル掘り下げよう」
エルドウルフが指で卓上の計画予定図をなぞる。
「ネルマの船は船底が深い。あれが入れないのは機会損失だ」
ゴディエが即座に書き留める。
「中央三区と四区の公道整備は?」
「羊と牛の取引量は想定通りか」
「役人の増員は間に合っているか」
短い問いと、短い返答。
議題は滞りなく前へ進んでいった。
その流れで、エランがひとつ咳払いをする。
「……それで、あの件ですが」
全員が察した。
「ああ、あれか」
アンリが頷く。
「例の“軍馬”だな」
エルドウルフが言葉を継ぐ。
エランは頷き、帳面を開いた。
「はい。千頭はすでに三つに分けて処理しております。ハンサンへ押し戻す分、売却分、そしてクワルノーへ回す分です」
一枚めくる。
「まずハンサンには、戦場放棄物として一時保全していた形で整理させました。所有権を曖昧にしたうえで、対シュバリエ中央への働きかけを控えさせております。同盟関係を切らないことを条件に、口も出させておりません」
淡々とした声だった。
「そのうえで、戦で減った軍備の補充名目で、一部をそのまま買わせました」
「で、金は?」
フーガが即座に噛みつく。
「入り始めています」
エランは一枚の紙を差し出す。
「分散売却分と、ハンサンへの直接売却分です。換金に時間差はありますが、流れは止まりません。千頭をそのまま抱え込むより、現時点で必要な分を除いて売った方が早い。金貨にして一万枚規模にはなります」
「十分だな」
ゴディエが即座に言う。
「城壁、水路、住居、家畜、役人の増員まで、初期費用はこれで回る」
フーガが口角を上げる。
「悪くない。口を塞ぎ、金を払わせ、馬も残した」
「数も揃ってきた」
アンリが続ける。
「西の牧場に集まっている分から、訓練を始められる。厩舎と厩務員も増やさないとな」
ゴディエが即座に補足する。
「農耕用と軍用は、最初から分けた方がいい」
エルドウルフは一拍置いた。
「訓練は急ぐなよ」
それだけ言う。
「怪我を出すな。馬も人もだ」
短い言葉だったが、全員が頷いた。
この街は、戦場ではない。
だが――次に備える場所ではある。
会議は再び、淡々と前へ進んでいった。
不意に、エルドウルフの口元がわずかに緩んだ。
「どうなさいました」
目線を落としたまま、エランが問う。
「いや」
エルドウルフは卓を囲む面々を見渡した。
「皆、政治の才があるな。剣を振るうより、卓に向かう方が性に合っている」
「お前が言うか」
アンリが即座に返す。
「散々、戦のことしか考えていない顔をしていた割に、政治の急所を外さない」
ゴディエは書類から目を上げずに言った。
「出来が良すぎて、気味が悪い。」
「そうか」
エルドウルフはナッツを一つ摘み、口へ放った。
「なら結構」
「結構で済ませるな」
フーガが肩をすくめる。
「それならば、殿下」
役人の一人が、淡々と書類を積み上げた。
感情のこもらない声。
だが、どこか試すような間がある。
「採択の決裁を。こちら――全てです」
机の上に置かれた束は、五十を下らなかった。
紙の重なりが、鈍い音を立てる。
エルドウルフは無言で最上段を引き寄せた。
視線が走る。
紙をめくる音が、一定の間隔で続いた。
「足りない。薪の備蓄は二割増し」
顔を上げずに言う。
「初冬だ。南部出身者は寒さに弱い」
指が次の紙を弾いた。
「中央四区と五区、区画厳守」
一拍も置かない。
「道幅は十二メートル確保。守らせろ。直す方が高くつく」
さらに一枚。
「別枠で軍馬の売却分を当てろ。」
即断だった。
「羊千頭に替える。毛と乳と仔が残る。冬を越すための備えだ。余剰は金に回せ。炭の確保も並行で進める」
次の紙。
「この井戸は浅い」
役人が思わず顔を上げる。
「冬に落ちる。掘り直せ」
エルドウルフは紙面の数字を指先で叩いた。
「掘削費は増えるが、春のやり直しより安い」
さらに一枚。
「この橋は架け替えろ」
「ですが予算が――」
「主桁に杉を使っている」
それだけだった。
「仮橋ならいい。だが本橋には向かん。湿れば傷み、重みで反る。春の増水まで保たん。樫に替えろ。今やれ」
さらに、次。
「市場南側の排水溝は先に掘れ。舗装の前だ。雨で道が死ぬ」
役人の一人が息を呑む。
「ですが、そこは来年でも――」
「来年では遅い」
エルドウルフは即座に切った。
「荷が止まれば、人が止まる。人が止まれば金が止まる」
紙がまた、めくられる。
「新規流入商人への初年度課税は軽くしろ」
「先に根付かせる。取るのは二年目からでいい」
書記役の若手が、思わず顔を上げた。
「減収になります」
「短期では――。」
エルドウルフはそこで初めて視線を上げた。
「出ていかれる方が高くつく」
一瞬、空気が止まった。
腹心たちは、何事もないように聞いている。
だが、役人たちは違った。
誰かが、無意識に息を呑む。
別の者は、書類を持つ手を止めたまま動けない。
書記役の若手など、筆を持つ指先がわずかに震えていた。
遅れて、意味が追いつく。
――だから最初から、そこを先に動かしているのか。
誰も、口を挟まなかった。
挟めなかった。
「……何か?」
視線に気づき、エルドウルフがようやく顔を上げた。
役人の一人が、逡巡の末に口を開く。
「失礼ですが……本当に、
あの戦の“英雄王太子殿下”でいらっしゃいますか」
「失礼だな」
横から、ゴディエが淡々と言った。
「戦場しか見ていない者には、そう見えるのだろうが」
フーガが口の端を上げる。
「まあ、剣しか振れなさそうな顔はしてるよな」
「言ってろ」
エルドウルフは再び視線を紙へ落とした。
他人の評価に興味はない。
必要なのは、最速で、最大の効果を出すこと。
紙の山はまだ高い。
だが、その手は止まらなかった。
読んでくださってありがとうございます。
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