第3話 〜祈りにも似た静寂〜
その思考の途切れ目で、ノアがふっと脚を止めた。
「どうした、ノ……」
瞼を開けた瞬間、世界が変わっていた。
羽毛のかたちをした光が、粉雪のように舞っている。
それは風に流されるでもなく、重さもなく、
ただ――行き先を決められているかのように、静かに落ちてきた。
掌を差し出す。
触れた瞬間――
シャン。
鈴を転がしたような、澄んだ音がひとつ鳴り、
光はそのまま溶けるように消えた。
消えた、というより、
役目を終えたかのように。
「……なん、だ……」
戦場の音が、消えている。
剣のぶつかる音も、馬の嘶きも、怒号もない。
耳鳴りすらなく、
ただ、処理された後のような静けさだけが満ちていた。
顔を上げると、
白い、大きな羽が、ノアごとエルドウルフを包んでいる。
鳥――ではない。
「……神、さま……?」
六枚の大きな白い翼。
夏の青空を思わせる群青の長い髪。
目を奪われ、息を忘れるほど澄んだ、黄金の瞳。
夢の中で、何度も見た姿。
闘神フェギスノーラが、すぐ目の前にいた。
翼を羽ばたかせることなく、空に浮かび、
華奢な腕を広げて、行く手を塞ぐ。
その表情は、静かな悲しみを湛えている。
薄桃色の唇が、ゆっくりと動いた。
『……これ以上、力を使っては駄目……』
声を聞いた瞬間、胸が詰まった。
会いたかった。
それだけで、涙が滲みそうになる。
同時に、ひとつの考えが脳裏をよぎる。
――俺は、ここで死ぬのかもしれない。
それでも。
「嫌だ」
言葉は、はっきりと出た。
「まだ、責務が残っている。成し遂げてからじゃないと、死ねない」
フェギスノーラは、少しだけ目を伏せた。
『……お前の、望みは……?』
「ミッドガロン軍の殲滅だ」
即答だった。
フェギスノーラは、微かに微笑んだ。
『……承……』
神は空へと手をかざし、円を描く。
空に、百メートルはあろうかという光の輪が、
ひとつ、またひとつと生まれていく。
そこから降る光は、音もなく、静かだった。
シュバリエの兵に触れた光は、
春の日差しのような温もりだけを残し、地へ溶ける。
ミッドガロンの兵に触れた光は、
槍のように貫くことも、爆ぜることもなかった。
ただ、静かに降り注ぎ――
次の瞬間、
兵たちは糸を断たれた人形のように、その場に崩れ落ちた。
叫びは上がらない。
血飛沫もない。
力を失った身体が、
音もなく地に伏していくだけだった。
戦場には、再び音が戻る。
だがその中心だけは、
神の光が通り過ぎた余韻のように、
一瞬、祈りにも似た静寂が残っていた。
奇襲を始めて、わずか。
戦場に残された結果だけを数えれば、
人の手で奪われた命は四千。
そして、残る千の命には、
神による穏やかな終わりが与えられていた。
一度に失われた千の命から、体を離れた光の粒が浮かび上がる。
無数の粒は集まり、波をなすように連なって、
やがて綿毛のようにふわりと空へ昇り、静かに消えていった。
凄惨であるはずの光景は、なぜか楽園の一場面のように、
ただ静かで、美しかった。
地に立っているのは、主を失ったミッドガロン軍の馬たちと、
シュバリエ軍だけだった。
草原には大きな陥没と、数百メートルにわたる深い地割れ、
そしてミッドガロン兵の屍が横たわっている。
アンリと千人のシュバリエ兵は、
己が大将の神にも等しい力と、
そして本物の神による奇跡を、その目で見ていた。
しばし夢を見ていたような――
いや、悪夢を見せられていたかのような錯覚から抜け出し、
アンリは我に返って、主君の姿を探す。
ミッドガロン軍が展開していた陣形の中央。
そこに、漆黒の馬に騎乗した王太子と、
宙に浮かぶ大きな白い羽があった。
エルドウルフは、フェギスノーラへと手を伸ばす。
「神さま、ありがとう……」
望みは叶えられた。
これで、この戦は勝ち、そして終わる。
フェギスノーラは、エルドウルフの手を優しく握った。
――御伽話の定石ならば、
奇跡の代償として、王子は命を捧げる。
アンリだけではない。
シュバリエの兵士たち全員の脳裏に、
同じ予感がよぎった。
駄目だ。
やめてくれ。
俺たちには――シュバリエ王国民には、
王太子が必要なんだ。
「エルドウルフ! やめろ! 手を離せ!」
「殿下!」
「殿下を連れて行かないでくれ!」
アンリを先頭に、
シュバリエ兵たちは悲痛な叫びと共にエルドウルフのもとへと馬を走らせた。
ところが――
エルドウルフは、つながれたその手を、ためらいなく引いた。
ぐい、と力強く。
白い羽根が空気を裂き、
神の身体が引き寄せられる。
フェギスノーラは抵抗しなかった。
光に満ちたその存在は、重力を拒むように一瞬揺らぎ、
次の瞬間、エルドウルフの腕の中に収まった。
思っていたよりも、小さい。
夢の中で抱いていた姿よりも、
神話の中で仰ぎ見てきた像よりも、
ずっと。
――そうか。
胸の奥で、理解が落ちる。
あの夢の中で、この神を抱いていた“誰か”は、
自分よりも小柄だったのだと。
理由もなく、腹が立った。
理屈ではない。
ただ、激しい感情が胸を突き上げる。
当たり前だ。
この腕で抱いたのは、自分ではない。
過去の、誰かだ。
その事実に、男に対してではなく、
過去そのものに、激しい嫉妬を覚えた。
フェギスノーラは翼を畳み、
人の形として、静かにエルドウルフに身を預けた。
逃れようともせず、
抗おうともせず。
そのまま、両の手でエルドウルフの頬を包む。
黄金の瞳は柔らかく細められ、
神は、微笑んだ。
「……間に合って、よかった……」
その声は、祈りのように静かで、
鈴の余韻を残したまま、空気に溶けた。
フェギスノーラは目を閉じ、
そのまま、意識を手放した。
腕の中に、確かな重みが生まれる。
息遣いが聞こえる。
人としての肉感が、はっきりとそこにあった。
――ああ。
本当に、いたのだ。
神は、ここに。
この腕の中に。
エルドウルフは頬を寄せ、
逃がさぬように、強く抱きしめた。
奇跡ではない。
夢でもない。
確かに触れられる存在として、
彼の神は、今、そこにいた。
翼の輪郭はすでに淡く、呼吸だけが確かだった。
「……え? お前、死なないの?」
アンリは思わず、そう口にしていた。
次の瞬間、全身から力が抜ける。
……良かった。
本当に、取り越し苦労だった。
駆けつけた千の兵士たちも、王太子と神が無事そこにいる光景を前に、
一瞬、言葉を失い――
「……生きてる?」
「……予想と違うな」
「なんだよ、心配して損した」
誰ともなく、ぽつりぽつりと本音がこぼれる。
張りつめていた空気が、ゆるみ、
次の瞬間、堪えきれないように笑いが広がった。
それは高揚でも歓声でもなく、
命がそこにあることへの、深い安堵の笑いだった。
エルドウルフはその様子を見渡し、
呆れたように、しかしどこか照れた調子で言った。
「お前ら……本当に失礼だな。
大将に向かって言う言葉か、それが」
叱責の形をとりながら、
その声音には、張っていた糸が解け
安堵の色が混じっていた。
エルドウルフ達奇襲隊と本隊が合流したのは、開戦から二時間後だった。
ミッドガロンの三人の大将の首が揃えられ、生き残った一万の兵のうち二千は降伏し、残りは散り散りに逃走した。
戦後処理は、すでにハンサン軍の将校たちとともに進められている。
その最中、白金の甲冑と兜を身につけ、戦場を駆け回っていたルーソルが本陣へ戻ってきた。
兜を脱ぐなり、その場に腰を下ろす。
「……暑い。これは暑い」
「ちょっと、気分が悪くなるかも」
荒く息をつきながらも、どこか冗談めいた口調だ。
エランから差し出された革袋の水を受け取り、一気に飲み干す。
「……助かった。ありがとう」
残った水を頭からかぶり、ようやく息を整えた。
「あっちは、もう終わったみたいだね。
で……エルドウルフは、まだ?」
距離にしておよそ五キロ。
速歩で馬を走らせた兵士たちは、すでに戻ってきている。
「アンリからの伝言では、多少の問題はあったようですが……殿下はご無事とのことです」
「そっか」
短く答え、ルーソルはほっと息をついた。
南方セルリアの争いも、この地ハンサンでの戦も、エルドウルフがいなければ、ここまで短期間で終わることはなかった。
数で不利な戦に立たされながらも、常に先頭に立ち、必ず勝利を引き寄せる。
「……少しは、休めるといいんだけどね」
独り言のように言って、ルーソルは苦笑した。
五人の腹心は、すでに怒りを抑えきれずにいた。
病に伏せる国王、そして戦場に出てこない二人の兄王子。
本来ならば北方ハンサンへの出兵が決まった時点で、南方セルリアには兄のどちらかが向かうべきだった。
それでもエルドウルフは断らなかった。
「俺が行ったほうが、シュバリエ兵の死者が減る」
そう言って引き受け、南の争いを異様なほどの短さで終わらせ、
王国の南端から北端まで、ほとんど休みなく馬を走らせた。
途中、馬は力尽きて死んだ。
それでも、彼はこの戦に立っている。
五キロ先の本陣で放たれた神力は、ここからでもはっきりと確認できた。
特に二度目のそれは、天変地異と呼ぶほかなかった。
「……また、限界までやったな」
ルーソルは空を見上げ、小さく息を吐いた。
「あの子は英雄です」
エランが静かに言った。
「どのような道を選ばれても、必ず成し遂げ、その先の歴史を動かしてしまう。その資質こそが、英雄の証なのです」
「……わかってるよ」
ルーソルは頷いた。
「でもさ。英雄でも、人間だ
壊れるまで使うのは……違うだろ」
「ええ」
エランも同意した。
「あの子の選択肢を狭めぬために、我々がいるのです」
その時だった。
「御大将! 王太子殿下の御帰還です!」
歓声が上がり、視線が一斉に向けられる。
千頭を超える持ち主を失った軍馬を、戦利品として引き連れ、
奇襲隊が本陣へ戻ってきた。
「エルドウルフ、おかえり――」
笑顔で声を上げたルーソルだったが、その表情はすぐに固まった。
馬上のエルドウルフは、漆黒のマントに包まれた小柄な人影を、胸に抱いていた。
「……え?、……誰?」
「ルーソル。天幕に寝床を用意してくれ」
「……寝床?」
理解は追いつかないが、声色が尋常ではない。
斜め後ろのアンリが、無言で「いいから行け」と目で合図している。
「……了解」
エルドウルフは下馬し、マントに包んだ人物を抱いたまま歩き出す。
ルーソルは一瞬振り返り、それから先導した。
エランは、すれ違いざまにその人物を一瞥した。
顔は見えなかったが、覗いた足先で女性だと察する。
「……どういうことですか?」
低く問うと、アンリは声を落として答えた。
「……神さまだ」
「……は?」
エランの思考も、そこで止まった。
次回木曜日20時公開予定です




