4章(6)第25話 〜落ちて、立つ(前)〜
翌朝、時間通りに扉が叩かれた。
「姫さま」
ネレアの声は、いつもと変わらない。
フェギスノーラは布団の中で、少しだけもぞりと動いた。
腕が重い。
身体も、昨日より確かに鈍い。
まだ少し眠たげなまま、ゆっくり目を開ける。
隣では、エルドウルフがまだ眠っていた。
朝の光が差し込みはじめても、まったく起きる気配がない。
呼吸は深く静かで、昨日のまま、世界の外に取り残されたみたいに眠っている。
フェギスノーラはしばらくその横顔を見た。
「……まだねてる」
小さく呟く。
少しだけ考えてから、
布団の中でそっと身体を起こした。
腕は重い。
でも、起きられないほどではない。
「……今日は、ゆっくり休まれては」
洗面の用意をしながら、ネレアが静かに言う。
無理を止めるための言葉ではない。
選択肢として、差し出しただけだ。
フェギスノーラは少し考えた。
「……お散歩、行く」
短い答えだった。
それから、少しだけ胸を張るように付け足す。
「あるける」
ネレアは一瞬だけその顔を見て、ほんのわずかに目元をやわらげた。
「かしこまりました」
クワルノーへ来てから、
フェギスノーラは一度も朝の散歩を欠かしていない。
そのことを、ネレアは知っている。
身支度を整え、南館の空中回廊へ出る。
四月半ばの朝は、もう明るい。
白い石に触れる風は少し冷たく、
やわらかな陽射しだけが、ひと足先に春のように降りていた。
フェギスノーラは胸いっぱいに息を吸った。
「……きもちいい」
小さく言って、少しだけ目を細める。
昨日の重さは、まだ身体の奥に残っている。
けれど、歩ける。
それだけで、少し嬉しかった。
冷たい空気が、昨日の重さを静かに押し流していく。
庭園から流れてくる花の匂い。
水の音。
遠くで、木槌の乾いた響き。
フェギスノーラは、もう一度ゆっくり息を吸った。
城内を抜け、街へ出る。
歩みは、いつもより遅い。
ネレアは何も言わない。
ただ、半歩後ろで歩調を合わせる。
昨日の疲れが、まだ残っているのだろう。
それでも、散歩は休まない。
できなかった。
けれど、やめなかった。
そのことだけで、今朝の遅い歩みには十分な意味があった。
広場に近づくと、子供たちの声が聞こえてきた。
笑い声。
呼び合う声。
転んで、また立ち上がって走る足音。
フェギスノーラは、自然と足を止めた。
しばらく、じっと見ている。
追いかけて、
転んで、
泣きもせずに、また走る。
理由もなく笑って、
次の瞬間にはもう別のものに夢中になっている。
小さくて、やわらかくて、
けれど驚くほど前へ行く。
「……可愛い」
ぽつりと零れた言葉は、
今までのような、探る言い方ではなかった。
はっきりとした声音だった。
ネレアは、その横顔を見て微笑む。
「そうですね」
少し間を置いて、静かに続けた。
「可愛いです」
フェギスノーラは、もう一度子供たちを見る。
胸の奥が、少しだけあたたかかった。
理由は、まだわからない。
けれど、
転んでもまた立ち上がるその姿を、もう少し見ていたいと思った。
――それで、十分だった。
◇◇◇
午後。
低い台を使って、ようやく鞍にまたがることができた。
小さく息を吐いた瞬間、
馬の体温が腿越しに伝わってくる。
思っていたより高い。
思っていたより、ずっと不安定だ。
騎士たちは各々の訓練を続けている――はずだった。
剣を振る手は止まらない。
掛け声も途切れない。
それでも、意識の端だけが、どうしても一点へ引かれてしまう。
馬場の中央にいる、小さな姫へ。
場違いなほど小さい。
それなのに、今この場でいちばん目が離せない。
エルドウルフが手綱を取り、馬を常歩で歩かせる。
一歩。
その瞬間、世界が揺れた。
前後に、左右に、身体が小さく振られる。
足で挟んでいるつもりでも、思うように力が伝わらない。
視界まで、かすかにぶれる。
(……あ)
フェギスノーラは、息を止めた。
行軍の間、長い時間、馬には乗っていた。
だから、もう少し自然にできると思っていた。
けれど――
今になって、ようやくわかる。
あの時、エルドウルフがずっと支えていたのだ。
腰も。
背も。
重心も。
自分ではただ乗っているつもりだった。
けれど実際には、全部を預けていた。
馬に乗っていたのではない。
エルドウルフに、乗せられていたのだ。
馬は、思った通りには動かなかった。
身体もまた、思ったようにはついてこない。
「目線は上」
エルドウルフの声が、淡々と落ちる。
「踵を下げろ」
言われた通りにしようとする。
けれど、次の揺れの方が早かった。
「あっ」
思わず、馬の首に抱きつく。
その瞬間、馬場の空気がわずかに揺れた。
剣を振っていた騎士たちの動きが、ほんの一拍だけ遅れる。
手綱を持つ騎士の肩が強張る。
誰も声は出さない。
けれど、何人もの顔に同じことが浮かんでいた。
――大丈夫か。
――いや、支えた方が。
――でも、今はまだ。
オリビエの手が反射的に伸びかけて、
途中で止まる。
アストロフも動かない。
ただ、目だけが鋭く細められていた。
エルドウルフは馬を止めた。
だが、支えはしない。
「やめるか?」
短い問いだった。
フェギスノーラは、馬の首にしがみついたまま、少しだけ唇を引き結ぶ。
むっとした。
できないことよりも、
できないと決められる方が、いやだった。
「やる」
声は小さい。
けれど、迷いはなかった。
その返事に、
馬場の端の何人かが、目に見えないほど小さく息を吐く。
再び、馬が歩き出した。
揺れる。
怖い。
けれど、今度はさっきより少しだけ長く耐える。
しがみついて、
揺られて、
それでも落ちないように必死でついていく。
馬場を二周。
それ以上はやらなかった。
その日の練習は、そこで終わった。
――終わらせられたのだと、フェギスノーラはちゃんと分かっていたけれど。
悔しい。
けれど、落ちてはいない。
誰も拍手はしない。
誰も褒めもしない。
けれど、張っていた空気だけが、ようやく少し緩んだ。
騎士たちは知っていた。
泣かなかった。
降りなかった。
やめるとも言わなかった。
それで、今日は十分だと。
そしてフェギスノーラもまた、知った。
乗っていたことと、
乗れていることは、
まるで別なのだと。
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