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光を背負った王――神力を宿す王太子エルドウルフの戦記  作者: RE:ANNE
呼び名のない少女

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4章(5)第24話 〜それでも、やる〜



 鞍は、持てた。


 両手で縁を掴み、体を寄せる。


 鎧の脚甲に足を掛けるところまでは、教えられた通りだ。


 ――けれど。


「……」


 体が、上がらない。


 もう一度、力を込める。


 腕と肩に、ぎゅっと力を集める。


 それでも、身体は半分も浮かない。


 鞍が、遠い。


 フェギスノーラは一度足を下ろし、小さく息を吸って、また足を掛けた。


 今度は少し勢いをつける。


 それでも、届かない。


 砂を踏む音だけが、馬場に小さく響いた。


 見守る騎士たちのあいだに、妙な静けさが落ちる。


 誰も声をかけない。


 手を貸せば早い。


 だが、そうしていいのか分からない。


 女の子なのだから、そこまでさせなくても――


 そんな迷いが、馬場の端々に揺れていた。


 オリビエが、思わず半歩だけ前へ出かける。


 その瞬間、アストロフが視線だけで止めた。


 動くな。


 短い合図だった。


 オリビエは口を閉ざし、そのまま足を戻す。


 視線だけが、エルドウルフへ向いた。


 エルドウルフは何も言わない。

 何もしない。


 腕を組んだまま、ただ見ている。


 厳しい、というより――

 もう答えを決めている顔だった。


 フェギスノーラは唇をきゅっと結んだ。


 もう一度。


 今度は脚に力を集める。


 腕ではなく、身体ごと引き上げようとする。


 ぐらり、と体が傾いた。


 足が滑る。


「……っ」


 転びはしなかった。


 けれど、届かなかったという事実だけが、遅れて胸の奥へ熱く広がる。


 ぎゅっと、鞍を握る手に力が入った。


「……できない」


 小さな声だった。


 誰に向けたものでもない。


 ただ、自分の中に落ちた言葉だった。


 エルドウルフは、そこで初めて口を開いた。


「それでいい」


 短く言う。


「最初からできる必要はない」


 フェギスノーラは顔を上げた。


「……でも」


「自分でやるって言った」


 声は淡々としている。


 励ますでもなく、突き放すでもない。


「やめるなら、止める。続けるなら――今はそれだけだ」


 騎士たちのあいだに、また別の静けさが落ちた。


 もっと手加減するものだと思っていた者もいる。

 もっと優しく宥めるものだと思っていた者もいる。


 けれど、エルドウルフは最初からそこを分けていなかった。


 できるか、ではない。


 やるか、やめるか。


 問うのは、それだけだった。


 フェギスノーラは、しばらく考えた。


 ――やめる。

 ――続ける。


 選択肢を頭の中に並べる。


 そして、もう一度、鞍に手を掛けた。


「……やる」


 声は震えていない。


 また足を掛ける。


 さっきより慎重に。


 今度も、上がらなかった。


 それでも、手は離さない。


 誰かが、小さく息を呑む。


 泣くかもしれない。

 やめるかもしれない。


 そう思っていた空気が、少しずつ変わっていく。


 フェギスノーラは泣かない。

 助けも求めない。


 ただ、届かない鞍を見上げたまま、指をほどかない。


 エルドウルフはそれを見ていた。


 上がれないことは問題ではない。


 手を離すかどうか。


 今、見ているのはそれだけだ。


 離さないなら、今日はそれでいい。


 彼は、まだ動かなかった。



 ◇◇◇



 何度やっても、身体は上がらなかった。


 腕が、じん、と鈍く痛む。


 力を入れるたびに、肩から肘へ、細い筋が引き攣るような感覚が増していく。


 それでも、フェギスノーラは鞍から手を外さなかった。


 手綱を握る騎士も、いつの間にか馬を抑える腕に少しだけ力を込めている。


 視線は定まらず、ちらり、ちらりと周囲を窺っていた。


 背後では、アストロフとオリビエが並んでいた。


 どちらも腕を組んだまま、何も言わない。


 だが、その組んだ手には、知らず力が入っている。


 馬場の空気が、じわりと張り詰める。


 誰も口を挟まない。


 挟めないまま、ただ見ている。


 フェギスノーラは、もう一度だけ足を掛けた。


「……」


 今度こそ、と言葉にしないまま力を込める。


 その瞬間だった。


「あっ」


 腕から、ふっと力が抜けた。


 身体が後ろへ流れる。


 視界が傾く。


 次の瞬間――

 大きな手が、確かに彼女を支えた。


「……ここまでだ」


 低く、落ち着いた声だった。


 ジャックである。


 彼はフェギスノーラの背に手を回し、崩れた体勢を静かに立て直した。


 力任せではない。


 長く身体に染みついた、騎士の支え方だった。


 馬も、不安げに鼻を鳴らしている。


 短い沈黙が落ちる。


 エルドウルフは、その様子を見ていた。


 ――転んでもいい。


 土に膝を打ち、

 悔しくて泣いて、

 それでももう一度と言えるなら、それでいい。


 そう思っていた。


 だが。


「……殿下、それはいけません」


 ジャックが、はっきりと言った。


 非難ではない。

 諫言だった。


「ここは戦場ではありません。

 姫君が怪我をすれば、学びはそこで終わります」


 視線は逸らさない。


 だが、声も荒げない。


「止めるのも、導きです」


 エルドウルフは、すぐには答えなかった。


 フェギスノーラは支えられたまま、静かに息を整えている。


 涙は、まだ落ちていない。


 けれど、唇だけは強く結ばれていた。


 ――悔しい。


 それだけは、誰の目にも明らかだった。


 エルドウルフは一歩、前へ出た。


「……今日は、ここまでにしよう」


 短く告げる。


 フェギスノーラの肩が、わずかに震えた。


「でも」


 その先を、すぐに継ぐ。


「できなかった、で終わりじゃない」


 視線を合わせる。


「身体が追いついてないだけだ。

 覚えたことは、無駄にならない」


 少しだけ、間を置いて。


「次は、台を使う。転ばない練習からだ」


 フェギスノーラは、しばらくその言葉を受け止めていた。


 今日できなかったこと。


 けれど、終わりではないこと。


 次があること。


 それをひとつずつ胸の中へ置くようにして、

 やがて、ゆっくり頷く。


「……つづき、ある?」


「ああ」


 即答だった。


 それを聞いた瞬間、馬場の空気がほんのわずかにほどけた。


 オリビエの肩から、ようやく力が抜ける。


 アストロフは何も言わないまま、静かに息を吐いた。


 手綱を握っていた騎士も、ようやく指先の強張りを緩める。


 誰も笑わなかった。


 けれど、止められたことにほっとしているのは、隠しようもなかった。


 ジャックはフェギスノーラを地面へ下ろし、深く一礼する。


「本日は、お疲れさまでした、姫君」


 フェギスノーラは少し考えてから、その仕草を真似るように頭を下げた。


 ――できなかった。


 ――でも、やめなかった。


 その事実だけで、この日にはもう、十分な意味があった。



 ◇◇◇



 手のひらが、ひり、とした。


 ネレアがそれに気づいたのは、着替えを手伝っている時だった。


 白い掌に、赤く浮いた小さな水膨れ。


 まだ新しい。


 皮膚の薄いところから、じわりと熱を持っている。


 一瞬だけ、ネレアの指が止まった。


「……」


 何も言わず、軟膏を取る。


 蓋を開け、指先に少しだけ取り、そっと傷へ載せていく。


 声も、溜息もない。


 けれど、手つきは自然とやわらかくなっていた。


 包帯を巻く動作には迷いがない。


 それは、彼女の出自オリオンツォーナ領の女なら誰もが知っている手つきだった。


 ――馬に乗ること。


 ――落ちること。


 ――手に豆を作ること。


 そして、それを理由に降ろされないことも。


 ネレアは視線を落としたまま、静かに思う。


 殿下なら、男女で線を引かない。


 やると言ったなら、やる者として扱う。


 できるかどうかではなく、

 続けるのか、やめるのかを見ている。


 それは冷たさではない。


 誰より早く、相手を一人の意志として見てしまう人のやり方だった。


 だからこそ、自分が口を挟む場所ではない。


 止めるのではなく、

 続けられるよう整える。


 それが、自分の役目だった。


「……痛いですよね?」


 小さく尋ねる。


 フェギスノーラは少し考えてから、こくりと頷いた。


「痛い」


 それだけだった。


 ネレアはわずかに目を伏せ、包帯の端をきれいに収める。


「はい」


 短く答える。


「けれど、今日はここまでよく頑張られました」


 フェギスノーラが顔を上げる。


 ネレアは、そこで初めてほんの少しだけ微笑んだ。


「やめませんでしたから」


 その一言に、フェギスノーラは小さく胸を張った。


 少しだけ得意そうだった。



 夜。


 腕が、重い。


 持ち上げようとすると、じわりと鈍い痛みが走る。


 昼間とは違う、深いところに残った疲れだった。


 フェギスノーラは仰向けになろうとして、やめた。


 うつ伏せのまま、枕へ顔を埋める。


 手のひらも熱い。


 腕も重い。


(なおしちゃ……だめ)


 理由は、まだうまく言えない。


 けれど、感覚がそう告げていた。


 これは、身体が覚えようとしている痛みだ。


 自分の身体で、越えなければならないものだ。


 そう思った途端、どっと重さが押し寄せる。


 今日は、やめなかった。


 上がれなかったけれど、

 手を離さなかった。


 そのことだけを胸の中に抱えたまま、呼吸がゆっくりになっていく。


 まぶたが、自然に落ちる。


 そのまま、フェギスノーラは眠ってしまった。



 ◇◇◇



 扉が、静かに開いた。


 エルドウルフは、灯りを落とした寝室に足を踏み入れ、

 すぐに気配で察した。


「……もう、寝たか」


 ベッドへ近づく。


 うつ伏せのまま、動かない小さな背中。


 規則正しい呼吸。


 布団の端から、白い包帯の巻かれた手が少しだけ覗いている。


 エルドウルフは、何も言わずに腰を下ろした。


 起こさないように、静かに。


 しばらく、そのまま見ていた。


 昼間の光景が、途切れ途切れに浮かぶ。


 届かない鞍。


 離さなかった手。


 何度でも足を掛け直した動き。


 思っていたより、ずっと粘った。


 あそこまでやるとは、正直、予想していなかった。


 ――それでも、やめなかった。


 それでいい。


 それだけで、十分だ。


 視線が、包帯の巻かれた手に落ちる。


 少しだけ間を置いて、


「……よく、頑張ったな」


 小さく、呟いた。


 当然、答えはない。


 エルドウルフは外套を外し、灯りを完全に落とす。


 ベッドの反対側に横になる。


 距離は取る。


 だが、わずかに意識が残る。


 今日は、これでいい。


 明日も、続く。


 その事実だけが、静かにそこにあった。


更新 月曜日/木曜日 20:00


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たまにイラストも

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