4章(4)第23話 〜触れるということ〜
クワルノー城
東館の奥には、騎士たちのための一帯がある。
練習場。
馬場。
厩舎。
宿舎。
朝の騎士団は、いつも空気が違う。
踏み固められた土に、乾いた蹄の音が走る。
号令が飛び、剣が打ち合わされ、鎧の擦れる音が短く重なる。
革と鉄と、日向に温まりはじめた土の匂いが、朝の光の中に混じっていた。
その張りつめた場所へ、二つの影が入る。
音は止まらない。
止まらないまま、けれど視線だけが、するりと流れた。
白金の王太子。
その隣にいるのは、乗馬用の服を着た小さな少女だった。
群青の髪を高い位置で結い、動きやすいよう仕立てられた衣に身を包んでいる。
見慣れた軽装姿とは違う。
それだけで、場の空気が少しだけざわついた。
誰も声は出さない。
出せば、その瞬間に、自分が何に怯えたのかを認めることになる。
異様だったのは、その並びだ。
エルドウルフの後ろに第一騎士団長ジャック。
左右には第二騎士団長アストロフと、副団長オリビエ。
守るためというより、
何かが起きても絶対に起こさせない、という並びだった。
アストロフは普段より半歩近い。
オリビエはフェギスノーラの進む先を、無意識に整えている。
過剰だ。
けれど、誰も笑わない。
エルドウルフは練習場を見渡し、短く言った。
「ここだ」
フェギスノーラは土の匂いと、音と、朝の熱を受け止めるように息を吸った。
「……すごい」
小さな声だった。
だが、不思議と埋もれなかった。
ジャックが間を置かずに命じる。
「――馬を連れてこい」
騎士が一人、すぐに駆け出した。
今日の練習場は、見た目だけならいつも通りだった。
号令が飛び、
剣が鳴り、
馬が土を蹴る。
けれど、妙な静けさが、場の底に一枚敷かれている。
アストロフは、無意識に手袋を締め直した。
オリビエは剣帯に触れかけて、すぐに手を離す。
何も起きていない。
だからこそ、まだ誰も息を抜けなかった。
一方で――
フェギスノーラは、目を見開いて待っていた。
蹄の音。
革具の擦れる音。
遠くで鳴る号令。
すべてが新しく、強く、まぶしい。
(くる)
理由はわからない。
けれど、胸の奥が静かに高鳴っている。
怖い、ではない。
逃げたい、でもない。
ただ――早く見たい。
やがて、場の端から一頭の馬が引かれてきた。
大柄ではない。
騎士たちが使う戦馬より一回り小さく、毛並みは穏やかな栗色。
耳をぴくりと動かし、落ち着いた目をしている。
フェギスノーラは、思わず一歩踏み出した。
「……あ」
声にならない声。
馬がこちらを見た。
鼻を鳴らし、ゆっくりと首を下げる。
「大丈夫だ」
エルドウルフが、すぐ隣で言った。
戦場の声ではない。
低く、落ち着いた声。
「お前に合うよ」
フェギスノーラは、その言葉を信じるように、もう一歩近づいた。
騎士たちは、息を殺して見守る。
――誰もが思っていた。
どうか、怖がらないでくれ。
どうか、泣かないでくれ。
◇◇◇
フェギスノーラは、しばらく手を宙に止めていた。
近い。
思っていたよりも、ずっと大きい。
ノアに乗っていた時とは違う。
あの時は、ただ背に乗せられて、
揺れと速さの中にいた。
今は違う。
これから、自分で触れて、
自分で乗る。
ゆっくりと息を整え、指先を伸ばす。
――そっと。
温度を確かめるように触れた瞬間、指先がひやりとした。
「ノアより……冷たい」
汗の匂いがしない。
乾いた毛が、朝の冷気を抱いている。
その瞬間、馬がぶるる、と首を振った。
「……いや、なの?」
フェギスノーラはとっさに手を引いた。
「違う」
すぐ隣で、エルドウルフの声が落ちる。
「くすぐったいだけだ」
馬はもう一度鼻を鳴らし、落ち着いたまま立っている。
「嫌なら、もっとはっきり避ける」
フェギスノーラは、もう一度馬を見た。
目が合う。
逃げない。
「……くすぐったい」
言葉をなぞるように確かめてから、もう一度触れた。
今度は、さっきより少しだけ長く。
馬は動かなかった。
フェギスノーラの口元が、わずかに緩む。
「大丈夫、だね」
それは馬に言ったのか、
自分に言ったのか――まだ、本人にも分からなかった。
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