第0話「課金、って言ったよねこの子」
「——はぁ。課金が足りない人生だわ」
新入りの侍女がそうこぼした瞬間、私は紅茶を吹いた。
ぶふっ、と。淑女が逆立ちしても出してはいけない音だった。
「お嬢様っ?!」
侍女が慌てて駆け寄ってくる。背中をさすられても咳は止まらない。テーブルクロスに、茶色い水玉が散った。
でも熱さなんてどうでもよかった。私の頭はたった今聞こえた一語でいっぱいだ。
課金。
今、この子、課金って言った。
——課金。ソシャゲや乙女ゲームに、現実のお金を注ぎ込む行為のこと。前世の私が給料の半分を溶かしてきた、あの課金だ。
そして断言できる。この世界にその言葉はない。
魔法と剣と舞踏会がすべての世界に、スマホもアプリもガチャもない。「課金が足りない人生」なんて、ここで生まれ育った人間の口から出るわけがないのだ。
ということは。
こいつ——転生者だ。
……申し遅れました。
私はヴィオラ・ベルクハイト。公爵令嬢で、前世持ちで、そしてこの乙女ゲームの悪役令嬢だ。
つまり卒業の舞踏会で婚約破棄され、ヒロインいじめの罪で断罪され、国外に追放される役どころ。前世の私が「うわ、性格わっる」と思いながらスキップしていた、あの令嬢である。
だから決めている。破滅フラグは根こそぎ折る。
ヒロインはいじめない。王子に執着しない。完璧な令嬢を演じきって、舞踏会の夜にはそっと舞台の袖へ消える。前世で働きすぎて過労で倒れたぶん、今世は穏やかに生き延びる。
そのために、前世の記憶は墓まで持っていく。絶対に。
——なのに。
なんで初日の侍女が、私よりよっぽど堂々と、前世ワードをこぼしてるの。
「お嬢様、大丈夫ですか。お水、お持ちしますね」
「……いえ。むせただけ」
声がわれながら見事に平坦に出た。悪役令嬢として磨いた、よそ行きの澄まし顔。本心を一ミリも見せない仮面だ。
だめだ。ここで反応したら、私も転生者だとバレる。
前世持ちだと知られて、いいことなんてひとつもない。気味悪がられて家を追い出されたら、破滅回避どころの話じゃない。
知らないふり。とにかく、知らないふりをしろ、私。
「ねえ、ロロ」
「はい?」
「今、なんて言ったの? 課金、とか」
聞いてしまってから、内心で頭を抱えた。いや反応してるじゃん私。墓まで持っていく決意は、3秒ももたなかったらしい。
ロロはきょとんと首をかしげた。
それから、にこっと笑う。
「カキン? なんですかそれ。あたし地方の出なんで、訛りで変なこと言っちゃったかも。気にしないでくださいね」
——出た。地方の訛り。
知ってる、その逃げ方。前世の私が会社で「それ完全に死亡フラグ」とうっかり口走ったとき、まったく同じ顔で「ごめん、方言」と言い張った。
苦しまぎれの、定番の煙幕だ。
この子、絶対しらばっくれてる。
栗色の睫毛の奥で、ロロの目が一瞬だけ、こちらの出方をうかがうように動いた。猫がねずみを見定める目。
——向こうも探ってる。
私がその一語に食いつくかどうかを。
……いいだろう。なら、こっちからも一発。
「ねえロロ。物語って、好き?」
「物語、ですか?」
「ええ。筋書きが決まっていて、登場人物がそのとおりに動く——みたいなの」
我ながら、回りくどい鎌だ。けれどロロの手が、ほんの一瞬だけ止まった。
「……さあ。あたし、筋書きどおりに動くの、好きじゃないんですよね」
にっこり笑って、布巾でテーブルを拭く。視線だけはこちらに刺さったまま。
——今の「間」。絶対わかってる。私が“物語”でゲームを匂わせたことも、それに乗らなかったことも。
攻守交代。しかも軽くいなされた。
この子、強い。
しん、と私室が静まった。冷めていく紅茶の上で、私の心臓だけがうるさい。
つまりこういうことだ。
前世を必死に隠してきた私の前に、よりにもよって前世仲間っぽい侍女が現れた。しかもお互い、相手は転生者だと薄々わかっているのに、自分のことは死んでも言いたくない。
今日この瞬間から、私とこの子の、長い長い化かし合いが始まってしまったのである。
「……紅茶、淹れ直してくれる?」
「かしこまりました、お嬢様」
完璧な所作でロロが頭を下げる。さっきまでの人なつこい気安さはどこへやら。その切り替えの早さがよけいに怪しい。
私の穏やかな余生計画。
初日にして、暗雲。
次話:「この世界に、その言葉ないんだけど」




