第1話:振り返らない朝
――朝/龍胆家
昨夜は、ほとんど眠れなかった。
目を閉じても、何度も今日のことを考えてしまう。
高校生活。
新しい仲間。
インサイダー養成学校・高等部。
布団の中で何度寝返りを打っても、時計の針だけが進んでいった。
それでも、不思議と眠気は残っていない。
彰はベッドから身体を起こし、軽く髪をかき上げる。
窓の外には、淡い春色の空が広がっていた。
深く息を吐き、そのまま部屋を出る。
階段を下りるたび、足音が静かな朝の家へ小さく響いた。
洗面所で顔を洗う。
冷たい水が頬を叩き、熱の残っていた頭が少しずつ冴えていく。
鏡の前へ立ち、深く息を吸って真新しいブレザーへ袖を通す。
肩口はまだ固く、腕を動かすたび生地がかすかに擦れた。
校章の刺しゅうを指でなぞると、糸の光がわずかに瞬く。
ポケットには魔力測定タグつきのIDカード。
腰には黒い革の通学かばん。
中等部の頃よりひとまわり大きいその感触が、緊張を少しだけ強くした。
(……今日から、か)
喉の奥で、ひと拍だけ間が落ちる。
彰は大きく息を吐き、ブレザーの襟を指で整えた。
不安はある。
けれど、それ以上に楽しみだった。
窓の外へ目を向ける。
白い雲の切れ間には、滅亡時計の数字が浮かんでいた。
巨大な光の輪に浮かぶ冷たい数字は、今日も変わらず世界の終わりを刻み続けている。
耳の奥へ一瞬だけ違和感が走り、視界の端で数字がひとつ減った。
その直後、背中の筋が細く固まる。
通りの足音がそろって消え、やがて日常のリズムが戻った。
それでも彰は、窓の前からすぐには動けなかった。
――そのとき。
「彰ー! 朝ごはんできてるわよー!」
階下から、美咲の弾んだ声が届いた。
「今行く!」
返事をし、そのまま階段を下りていく。
居間へ入ると、誠がすでに座布団へ腰を下ろしていた。
普段より少し整えられた髪に、落ち着いた色のジャケット姿。
台所へ立つ美咲も、柔らかな色のブラウスに着替えていた。
いつものエプロン姿とは少し違う。
彰は少しだけ目を伏せ、それから食卓へ視線を移した。
食卓には、朝食が並んでいた。
香ばしく焼かれた鮭と、だしの香りを立てる味噌汁。
甘い卵焼きに菜の花のおひたしが添えられ、炊きたての白米からは湯気がゆっくり立ち上っている。
「うまそう……」
思わず声が漏れる。
その反応に、美咲が小さく笑った。
「ご飯、どれくらい食べる?」
しゃもじを持ったまま、茶碗を軽く持ち上げる。
「あ、少し多めで! ありがとう、母さん!」
「ふふっ、はいはい」
美咲は微笑みながら、ご飯を少し多めによそってくれた。
「それだけ元気なら、大丈夫そうね」
彰は苦笑し、そのまま座布団へ腰を下ろす。
湯気の匂いが、朝の空気へゆっくり広がっていた。
「でもさ……やっぱ緊張する。ちゃんとやれるのか、不安で」
茶碗を持ったまま、小さく息を吐く。
「昨日も、あんまり寝れなかったし」
誠は湯のみを置き、指先で縁を押さえてから、ゆっくり口を開いた。
「……緊張しててもいい。みんなそうだ」
一度だけ言葉を切る。
「だが――迷ったら、一歩前に出ろ。お前なら、それで十分通用する」
「父さん……」
彰は茶碗を持つ指に、少しだけ力を込めた。
誠は口元を緩め、茶碗を軽く押して言った。
「食え。力を出すには、まず腹を満たせ。……楽しみにしてるぞ、彰」
短い言葉なのに、湯のみの温もりが掌へ長く残った。
「必ず証明してみせる。……できるって、思いたい」
握った箸に力が入り、膝の上の指も固くなる。
母が苦笑まじりに小声でつついた。
「もう、そんな言い方したら余計に固くなっちゃうわよ」
誠はわずかに眉をひそめながらも、どこか照れたように湯のみを持ち直す。
「事実を言っただけだ」
「ほらね、そういうところ、ほんと似てるわね」
彰は箸を持ち直し、湯気の残る味噌汁へ視線を落とした。
そのあとも、他愛のない会話を交えながら朝食はゆっくり続いていく。
食べ終えるころには、茶碗の底に米粒が数粒だけ残っていた。
「はい。落ち着くでしょ?」
「うん、ありがと」
湯気を見つめながら、一口飲む。
湯のみを包む指先に、温かさがじんわり移った。
そのとき、美咲がふと首を傾ける。
「ネクタイ、曲がってない?」
前かがみになり、胸元へ細い指先をそっと添えた。
布が軽く引かれ、かたちが整う。
その手の温もりが伝わり、息の音だけがやけに近く感じた。
「ふふっ……こうして手を出すのも、もう最後かもしれないわね。高校生だもん」
「そんな大げさな……」
「いいの。今日は、特別だから」
そう言いながら、美咲はネクタイを整えたまま、ふっと口元を緩める。
「陽菜ちゃんに、よろしくね。一緒に行くんでしょ?」
「う、うん」
彰が頷くと、美咲はさらに楽しそうに目を細めた。
「本当は、私も一緒について行きたかったんだけど……陽菜ちゃんに悪いしね?」
「えっ!?」
彰の肩がびくっと跳ねる。
美咲は耐えきれず、くすっと笑った。
「ふふっ」
からかわれたと気づき、彰が顔をしかめる。
「……母さん」
「はいはい。でも、陽菜ちゃんによろしくね」
彰は慌てて顔をそらした。
指先がネクタイの結び目を無意味になぞる。
そのやり取りを見ていた誠の口元から、小さく笑みがこぼれた。
ふと壁の時計へ目を向ける。
秒針が、思ったより先へ進んでいた。
「あっ――やば。そろそろ行かなきゃ」
慌てて立ち上がり、黒い革の通学かばんを肩へかける。
そのまま玄関へ向かうと、美咲と誠も自然についてきた。
靴を履きながら、彰は深く息を吸う。
美咲が柔らかく微笑んだ。
「いってらっしゃい、彰。……頑張ってね」
誠は腕を組み、静かに頷く。
「気をつけて行け。……堂々としてろ」
一度だけ言葉を切る。
「母さんのことは任せとけ。入学式には、ちゃんと二人で後から行く」
その言葉に、美咲が少しだけ目を丸くした。
「……まぁ」
照れたように視線を逸らし、小さく笑う。
彰も、その様子を見て思わず口元を緩めた。
「……うん。ありがとう」
鞄の持ち手を握る指が、少しだけ緩む。
彰はもう一度二人を見て、小さく頷いた。
「いってきます!」
玄関の扉を開ける。
朝の光と春の風が、一気に頬を撫でた。
彰は深く息を吸う。
そのまま一歩、外へ踏み出した。
――ガチャリ。
扉の音が廊下に短く残った。
美咲はカウンターにもたれて、息を吐く。
「……あの子が、もう高校生なのね」
誠はソファに腰を下ろし、腕を組んでうなずいた。
「本当に、あっという間だった。ついこの前まで、小さな背中を追いかけていた気がする」
「覚えてる? 幼稚園の頃、朝ごはん食べながら寝ちゃって――顔にご飯粒つけたまま登園したこと」
「……あったな。先生に苦笑いされたやつだ」
二人は小さく笑い合う。
「これからは、私たちの目が届かないところで、いろんなことがあるんでしょうね」
「ああ。だからこそ、信じてやるしかない」
窓の外には、まっすぐ歩く彰の背中。
革かばんを持つ手を握り直し、深呼吸ののち一歩を踏み出す。
「無事に育ってくれて、本当に良かった」
「ええ。健康で……そして幸せになってほしい」
誠はその手に自分の手を重ね、力をそっと伝えた。
「うまくやれるさ。……あれは、俺たちの息子だ」
風がカーテンを揺らした。
その向こうで、空の滅亡時計の数字は確かにひとつ減っていた。
光が窓辺で揺れた。
◇
――朝/通学路
冷たい朝の空気が頬を撫でる。
昨日までとは違う道を、彰は一歩ずつ踏みしめながら歩いていた。
制服のブレザーはまだ肩に馴染まない。
胸元の校章が、歩くたび淡く光を返す。
指先で胸元の布地を押さえ、深く息を吸い込んだ。
春の草花と、新しく舗装されたアスファルトの匂いが鼻先をかすめる。
足元が少し浮つく感覚に、彰は小さく苦笑した。
やがて、見慣れた虹咲家が見えてくる。
玄関前で一度立ち止まる。
(……なんか、変な感じだな)
恋人同士になってから、まだそこまで時間は経っていない。
昨日までと同じはずなのに、少しだけ違って見える。
彰は小さく息を吐き、そのままインターホンを押した。
「アキ、おはよう!」
陽菜だった。
春の光を受けた制服姿。
薄桃色のリボンが胸元で揺れ、髪先が朝日にやわらかく透けている。
その姿を見た瞬間、胸がひとつ跳ねた。
「……お、おはよう」
少し照れながら返す。
陽菜もどこか落ち着かない様子で笑っていた。
「なんか変な感じだね」
「……わかる」
二人で顔を見合わせ、小さく笑う。
そのとき――
背後から明るい声が飛んだ。
「おっ、彰君! おはよう!」
振り返ると、拓也と雪が玄関から出てくる。
二人とも今日は入学式用なのか、普段より少しきっちりした格好だった。
「あっ、おはようございます!」
彰は反射的に頭を下げた。
拓也は楽しそうに笑いながら、彰の肩へぽんと手を置いた。
「うちの姫のこと、よろしく頼んだよ!」
「もぉ!? お父さん!」
陽菜が一気に顔を赤くする。
雪もくすっと笑いながら頷いた。
「彰君なら安心ね」
彰は耳まで熱くなりながら、小さく頷く。
「は、はい……!」
陽菜は恥ずかしそうに父親の腕を軽く叩いた。
「だから姫ってやめてってば……!」
その様子を見て、拓也と雪が顔を見合わせて笑う。
春の朝に、四人分の笑い声が重なった。
「じゃあ、行ってきます!」
「いってきます」
陽菜と彰が並んで頭を下げる。
そのまま二人で通学路を歩き始めた。
肩が自然に並び、歩幅もゆっくり揃っていく。
その途中――
背後から、勢いよく風を割る声が飛んだ。
「おーい!」
振り返る。
凱が、手を振りながら坂道を駆け上がってきていた。
「アキ! 陽菜! おはよう!」
「おはよう、凱君!」
「おはよう」
二人が返すと、凱はそのまま二人の顔を見比べ、にやっと笑った。
「おっ、早速ラブラブじゃねぇか」
「い、いや違うし!?」
彰が反射的に声を上げる。
その横で、陽菜がじとっとした目を向けた。
「……へぇ?」
「い、いや、違うっていうか、その……!」
慌てて言い直そうとする彰を見て、陽菜は頬を少し膨らませる。
そして――ぺしっ。
陽菜の手が軽く彰の腕を叩いた。
「いてっ」
凱はその様子を見ながら、声を上げて笑う。
「ははっ、朝から仲いいなぁ!」
春の風が三人の制服を揺らした。
笑い声が少し落ち着いたあと、凱が空を見上げる。
「でも、ついに高校か。……なんか緊張するな」
「ああ。昨日、全然寝れなかった」
彰が苦笑する。
陽菜も胸元を押さえ、小さく頷いた。
「私も。ドキドキしてる」
三人の歩幅が、自然と揃う。
凱がふっと口元を緩めた。
「……まぁでも、三人ならなんとかなるだろ」
その言葉に、彰と陽菜も顔を見合わせる。
そして――
三人は自然に拳を差し出した。
コツン、コツン。
昔から変わらない、二度の小さな合図。
子どもの頃の遊びみたいな誓い。
けれど今は、それが三人を繋ぐ確かな印になっていた。
そのまま三人は駅まで歩き、朝の通勤客に混ざって電車へ乗り込んだ。
車内には、同じ制服姿の生徒たちもちらほら見える。
まだ新品の鞄に、ぎこちなく整えられたネクタイ。
落ち着かない視線を交わしながら歩く姿は、誰が見ても新入生だった。
やがて電車は、インサイダー養成学校最寄りの駅へ到着する。
ホームへ降り立った瞬間、同じ制服の波が視界へ広がった。
エルフ、オーク、ドワーフ――様々な種族の新入生たちが、それぞれ緊張した表情で駅を歩いている。
親と一緒に来ている生徒の姿も多かった。
「絶対忘れ物ない?」
「大丈夫だって!」
そんな声が、あちこちで飛び交っている。
三人も人の流れに混ざり、そのまま養成学校へ向かって歩き始めた。
通学路を進む三人へ、肩越しの視線が集まる。
「ねえ、あの子かわいくない?」
「隣の子、めっちゃイケメン……」
背後の声が風へ溶け、制服の裾をかすめていった。
凱が苦笑して肩をすくめる。
「……相変わらず言われてるぞ、陽菜」
「や、やめてよ……聞こえたら恥ずかしいでしょ!」
陽菜は頬を赤くして笑う。
「お前もだろ、凱」
彰がそう返すと、凱は歯を見せて笑う。
「ははっ、そりゃまぁ、モテる運命だからな」
「はいはい」
彰たちの笑い声が、通学路のざわめきへ溶けていく。
坂道を上がった、その先――
巨大な校舎が視界いっぱいに広がった。
「……でかっ」
思わず声が漏れる。
石造りと近未来建築が融合した巨大施設だった。
高く伸びる訓練棟の向こうには広大な校庭が広がり、魔導灯の並ぶ正門前には新入生たちが次々と集まり始めていた。
彰は鞄の持ち手を握り直す。
凱が小さく息を吐き、拳を握った。
「……行くぞ」
彰と陽菜も顔を見合わせ、小さく頷く。
三人は緊張を抱えたまま、校門をくぐった。
春の光が三人の影を重ね、坂道の石畳の上で揺れている。
歩幅が揃い、足音が続いていく。
誰も振り返らなかった。




