第13話:仮面の下の約束
――龍胆家
「ただいま!」
玄関の扉を開けた瞬間、昼間の余韻がまだ身体に残っていた。
式典会場で響いていた拍手の音。
制服に残った、桜の淡い香り。
春の風が一緒に流れ込み、外の空気が廊下へゆっくり広がっていく。
「おかえりなさい、彰! そして――卒業おめでとう!」
美咲の弾んだ声と一緒に、奥から誠も顔を出した。
「おかえり。おめでとう!」
二人は昼間、卒業式にも出席してくれていた。
その帰り道、彰だけが寄り道をしたせいで、こうして改めての帰宅になっている。
靴を脱ぎ、深呼吸をひとつ。
リビングへ足を踏み入れると、テレビの音と、台所から流れてくる夕飯の支度の匂いがゆっくり混ざり合っていた。
窓から差し込む西日が、食卓へ長く伸びている。
誠は先に居間へ戻り、そのままソファへ腰を下ろした。
美咲もテーブルの上を片付けながら、ちらりと彰の顔を見る。
彰は二人の間へ立ったまま、一度だけ息を整える。
それから、少し間を置いて口を開いた。
「……あのさ。ちょっと話あるんだけど」
「どうしたの?」
「ケガでもしたのか?」
二人の視線が同時に向く。
彰は一度だけ息を吸った。
「いや、そうじゃなくて――」
喉が少し熱い。
指先が落ち着かず、制服の裾を一度だけつまむ。
短く呼吸を整え、それから続ける。
「陽菜と……その、付き合うことになった」
その瞬間、美咲の手がぴたりと止まる。
誠も新聞から顔を上げ、そのまま彰を見た。
「ほんと!?」
次の瞬間、美咲の顔がぱっと明るくなる。
「やったじゃない!」
そのまま駆け寄り、彰の手をぎゅっと握った。
「ほらね、やっぱり陽菜ちゃんは――うふふ、もう分かってたわ」
「ちょ、母さん近いって……!」
彰は慌てて顔を逸らした。
頬へ一気に熱が集まっていく。
その様子を見ながら、誠が小さく息を吐いた。
「彰」
低い声が、少し間を置いて届く。
彰はゆっくり振り返った。
誠は立ち上がり、そのまま彰の肩へ手を置く。
「決めたなら、最後までやり通せ」
肩へ置かれた重みが、静かに伝わってきた。
「中途半端では、誰の笑顔も守れない」
真っ直ぐな瞳が、彰を見ている。
彰はその視線を受け止め、小さく頷いた。
「……ああ。ちゃんと大事にする」
詰まっていた息が、ようやくひとつ抜ける。
誠は小さく頷く。
「ならいい」
そのまま居間へ戻ると、美咲が嬉しそうに笑った。
「二人とも何を話してたの?」
「別に」
誠が先に視線を逸らす。
彰は思わず苦笑した。
そのあと三人で遅めの夕食を囲んだ。
卒業祝い。
そして、恋人ができた祝い。
美咲は何度も嬉しそうに笑い、誠も珍しく酒を少しだけ口にしていた。
食卓には笑い声が続き、気づけば外はすっかり暗くなっている。
食後に風呂へ入り、火照った身体を冷ましながら自室へ戻る。
部屋の扉を閉めると、不意に静けさが戻ってきた。
ベッドへ腰を下ろしながらスマホを握る。
枕元のデスクライトが、手元をやわらかく照らしていた。
窓の外では、街灯の薄いオレンジ色が静かに揺れている。
画面には、陽菜から届いたメッセージが残っていた。
【陽菜】:アキ、起きてる?
彰は画面を見つめたまま、親指を止めた。
「俺も」――それだけじゃ、何か足りない気がする。
指先が宙を泳いだ。
打っては消して、また止まる。
送信前に、小さく息が漏れる。
呼吸が少しだけ浅くなり、喉の奥へ熱が残っていた。
画面の光が指先へ滲む。
親指が一瞬止まり、それからゆっくり動いた。
【彰】:なんかさ、さっき会ったばっかなのに、もう声聞きたくなってる(^◇^)
送信した指が、そのまま画面の上で止まる。
数秒もしないうちに、画面が小さく光った。
【陽菜】:……ううん、私も。変だね(^◇^)
文末には、同じ小さなマークが添えられている。
彰は小さく息を吐き、そのまま指を動かす。
さっきまで止まっていた親指が、自然に動いた。
【彰】:通話してもいい?
送信と同時に、受話器のアイコンをタップした。
コール音が二度、三度。
そのあと、一瞬ためらうみたいな間を挟んで声が届く。
『……アキ?』
「うん、俺だよ。そっちは?」
『うん……でも、なんか変な感じ。さっきまで隣にいたのに』
「俺も。でも、声聞きたくなった」
言ったあと、自分で少し照れくさくなる。
通話の向こうで、小さく息が漏れた。
『……その不意打ち、ズルい』
「えっ、今のズルいの?」
『うん。でも、嬉しいから許す』
その声を聞くだけで、背中へ入っていた力が少しずつ抜けていった。
デスクライトの光が、机の上へ静かに広がっている。
彰はベッドへ背中を預け、小さく息を吐いた。
「……なあ陽菜。今日は、本当に嬉しかった」
『私も……すごく、幸せだった』
少し震えた声が、スピーカー越しに届く。
その震えだけで、陽菜がどんな顔をしているのか分かる気がした。
彰は小さく息を吸う。
「……これからも、隣いてくれる?」
少しの沈黙。
そのあと、陽菜が小さく笑う気配がした。
『……うん。いていい?』
「当たり前だろ」
通話の向こうで、小さく笑う声がくすぐったく響いた。
しばらく互いに黙ったまま、それでも通話だけは切れない。
言葉がなくても、不思議と落ち着いた。
ふと、陽菜の呼吸が少し変わる。
『……ねえ、アキ。これからも、寝る前に声聞きたい』
彰は小さく笑った。
「……俺も」
通話の向こうで、照れたみたいな息が漏れる。
『ふふ、ありがとう。……おやすみ、アキ』
「おやすみ、陽菜」
言葉が途切れても、すぐには通話を切れなかった。
互いの息だけが、スピーカー越しに静かに重なっていく。
通話が続いていることだけが、妙に心地よかった。
やがて通話が切れ、彰はスマホをそっと両手で包む。
画面の冷たさが、指先へ静かに伝わってきた。
それでも、掌の奥にはまだ熱が残っている。
時間だけが、少し後ろへずれたみたいだった。
彰はさっき送った文面を見返し、親指でその顔文字を一度だけなぞった。
小さく息を吸う。
張っていた呼吸が、ようやく少し落ち着き始めていた。
その時だった。
『ははっ、なに言ってんだよアキ!』
不意に、凱の笑い声が脳裏へよみがえる。
桜の下で見た、あの笑顔。
けれど、どこか引っかかっていた。
張り上げた声。
目尻の揺らぎ。
笑うまでの、ほんのわずかな間。
(……凱。お前、本当は……)
その顔だけが、胸につかえたまま離れない。
浮かんだ笑顔が、一瞬だけ歪んで見えた。
吸い込んだ空気が途中で止まる。
視線だけが、しばらく窓の外から戻らなかった。
――その理由だけが、あとから静かに追いついてくる。
彰は溜まっていた息をゆっくり吐き出した。
それでも、握った拳だけはほどけない。
(陽菜を、必ず幸せにする)
胸の奥へ残った重さを振り払うみたいに、彰は立ち上がった。
そのまま庭へ出る。
夜の冷気が、熱を持った肌を静かに撫でていった。
彰はゆっくり空を見上げる。
夜空を覆うように、巨大な時計が浮かんでいた。
『世界滅亡まで、あと18年128日07時間02分51秒』
入学式の日に見上げた時より、確かに針は進んでいる。
彰は小さく息を吐いた。
高等部の春が、もうすぐそこまで迫っていた。




