第12話:春風へ溶けた想い
――午後/獅子堂家
春の風が、桜の花びらを運んでいた。
西日を受けた花弁がふわりと宙を舞い、そのまま玄関先へゆっくり落ちていく。
昼の喧騒は、まだ遠くに残っている。
子どもの声や、走り去る自転車の音。
商店街の呼び込みまで、春の空気へ混ざりながら微かに届いていた。
そんな街の音を背中に受けながら、凱はゆっくり家へ戻ってくる。
玄関のドアを開けた瞬間、春の匂いを含んだ風が背中を撫でるみたいに通り過ぎた。
「……ただいま」
声が廊下へ落ち、広い家の奥へ消えていく。
靴音だけが重く響く。
凱はそのままリビングへ向かった。
家の中には、夕飯の支度をしている匂いがまだ薄く残っていた。
その温もりだけが、広い家へ静かに広がっている。
「おう、凱。おかえり」
ソファへ腰掛けていたのは、獅子堂 焔――凱の父だった。
戦闘服を脱ぎ、部屋着へ着替えている。
卓上には、読みかけの文献と、まだ湯気の残るコーヒーが置かれていた。
焔は息子の顔を見るなり、小さく口元を緩める。
「……卒業、おめでとう」
そのあと、少しだけ申し訳なさそうに肩をすくめた。
「卒業式、顔出せなくて悪かったな。討伐任務が長引いた」
部屋着へ染みついた、わずかな硝煙の匂い。
戦場から帰ったばかりの余韻が、今はただ、この居間へ溶け込んでいる。
「……どうした。顔がつらそうだぞ。何かあったか?」
凱は返事をする前に、一度だけ視線を落とした。
「……親父」
名前を呼んだところで、もう取り繕えなかった。
凱は鞄も下ろさないまま、ソファへ崩れ込む。
背中が沈み、張っていた息が喉の奥から苦く漏れた。
──幼い頃に聞いた父の言葉が、不意によみがえる。
『大切にしたいと思ったものは、最後まで守れ。だが守る形は一つじゃない。時には、自分の想いを呑み込むことも“守る”になる』
今ほど、その言葉が突き刺さった日はなかった。
「今日……アキと陽菜が、付き合い始めた」
焔はすぐには返さない。
湯気の残るコーヒーへ一度だけ口をつけ、それから静かに息子へ視線を向けた。
「……そうか」
穏やかなその一言が、続きを促してくる。
凱は視線を落としたまま、小さく息を吐いた。
「……ずっと前から、陽菜のこと気になってた」
喉が引っかかる。
それでも、止まれなかった。
「笑った顔とか、声とか……気づいたら、ずっと目で追ってた」
声がかすれ、途中で言葉が切れる。
目元が熱い。
瞬きを繰り返しても、視界の滲みだけが消えなかった。
乱れた呼吸で肩が大きく上下する。
組んだ指が、クッションへ深く沈み込んだ。
「アキ見てる時の陽菜、なんかもう……すげぇ嬉しそうでさ」
凱は苦く笑った。
「頑張っても、たぶん敵わねぇなって思った」
そこで一度だけ息が止まる。
喉仏が上下し、握った拳へ少しずつ力が入っていった。
「分かってた。分かってたけど……やっぱキツかったわ」
息を吸おうとしても、うまく肺が広がらない。
呼吸だけが浅く続いた。
「アキと陽菜の間、壊したくなかった」
凱は視線を落としたまま、小さく息を吐く。
「もし俺が言ったせいで、二人が変になったら……たぶん、ずっと後悔してたと思う」
拳が膝の上でゆっくり固まった。
「だから……俺が飲み込めばいいって思った」
声が途切れる。
そのあとには、浅い呼吸だけが部屋へ残った。
息が何度も喉でつかえる。
焔はゆっくり立ち上がる。
少し間を置いてから、そのまま息子の隣へ腰を下ろした。
そして何も言わないまま、凱の肩へ手を置く。
かつて剣を握り、幾度も修羅場を越えてきた手だった。
その重みが、凱の背中へ静かに伝わっていく。
「つらかったな、凱」
焔の手は、肩へ置かれたまま動かない。
「……よく耐えた。よく背負ったな」
低い声が、静かな居間へゆっくり広がる。
「お前は……本当に、優しくて、立派な男だ」
その言葉を受け止めた瞬間、凱の肩から力が抜けた。
「……っ」
息が引っかかる。
歯の奥で、小さく苦い音が鳴った。
強く握っていた拳が震え、関節がひとつずつほどけていく。
それでも、言葉だけは最後まで出なかった。
居間を出たあとも、肩へ置かれた手の重みだけが離れなかった。
階段を上り、自室の扉を開ける。
制服のまま立ち止まり、机の上へ置かれた写真へ視線を落とした。
夏祭りの夜、三人で撮った一枚。
陽菜の浴衣の色。
アキの照れ笑い。
そして、その隣で無邪気に笑っている自分。
凱は指先で写真の縁をなぞる。
紙の角が触れ、ざらりとした感触だけが指先へ残った。
その感触に引っ張られるみたいに、夏祭りの夜がふっと脳裏へ重なる。
「……まあ、俺の役目ってこういうのなんだろうな」
零れた独り言が、静かな部屋へ落ちた。
窓の外では、春の風が桜の枝を揺らしている。
凱は写真を見つめたまま、小さく息を吐いた。
明日も、二人の隣に立つ。
どれだけ痛みを飲み込んでも、陽菜が笑っていられるなら。
アキが幸せでいられるなら。
凱は写真から目を離し、静かに息を吐く。
西日の残る窓辺で、目を閉じた。




