第2話:灯りをくれた声
――午後/駅前
「つーか立ち話もなんだし、ファミレス行こうぜ!」
Kainが勢いよく噴水の向こうを指差した。
「駅前のとこ、ドリンクバーめっちゃ種類あるんだよ。あとポテト山盛り」
「最後ただお前が食いたいだけだろ」
Windが呆れたように笑う。
「え、バレた?」
「最初からな」
そんなやり取りを交わしながら、五人は駅前の人混みへ歩き出した。
休日の通りは人の流れが絶えず、信号待ちの列が歩道いっぱいに広がっている。
Kainが先頭でくるくる振り返りながら喋り続け、Melindaは人にぶつからないようバッグを抱え直しながらその後ろを歩く。
Shizuは自然と外側へ回り、人波から二人を庇うみたいに並んでいた。
彰はその少し後ろを歩きながら、小さく息を吐く。
画面の中でしか知らなかった連中が、今はすぐ隣で笑っている。
その不思議さだけが、歩幅の半拍ぶん遅れてついてきた。
「AKIRA、なんか静かじゃね?」
Kainが歩きながら振り返る。
「いや……ちょっと、まだ慣れてない」
素直にそう言うと、Windが小さく笑った。
「まぁ、俺らも同じだよ」
彰は息を吐いた。
やがて駅前のファミレスへ入ると、涼しい空気が身体を包み込んだ。
料理の匂いとソフトドリンクの甘い香りが混ざり、外の熱気をゆっくり遠ざけていく。
店員に案内され、窓際の四人席を二つくっつけたテーブルへ五人で腰を下ろした。
テーブルの上へメニューが広がる。
けれど、誰もすぐには開かなかった。
「なんかさー、チャット欄をそのまま立体にした感じだよな」
Kainがストローをくるくる回しながら笑う。
「声を聞くのは、一年ぶりくらいか。顔を合わせるのは初めてだけどな」
Windが、彰へ視線を向けた。
「そんなに、経ってるんですね」
「最終ログイン、四百何十日前って出てたろ?」
「……見てたのかよ」
苦笑いが漏れる。
「そりゃ見るだろ。仲間の最終ログインくらい」
Windは、あきれたように、でもどこか嬉しそうに肩をすくめた。
「お前は大事なチームメンバーだからな」
彰が何か言い返そうとすると、Windはふっと笑って首を振った。
「今でもちゃんと覚えてる。あの時のこと」
受け止めきる前に、Kainが身を乗り出してきた。
「でさでさ、AKIRA。前から聞きたかったんだけど」
「……なに」
「ニュース、見たぞ? あれ」
「ニュース?」
Kainは、わざとらしく両手を広げてみせた。
「《少年がゴブリンから少女を救う》ってやつ。協会の表彰式のニュース」
そこでいったん言葉を切り、じっとこちらを覗き込んでくる。
「……あれさ。AKIRA、お前だよな? 下の名前が“彰”って言ってたし、年も住んでる地域も、チャットで聞いてたのと同じだったからさ。もし人違いだったら土下座するけど」
目を逸らし、コップの縁に指を掛けた。
水面がかすかに揺れて、縁に触れた指が、わずかに滑る。
「……うん、俺だ」
そう言うと、Kainが「やっぱり!」と両手を叩いた。
「だよなー! ほら、協会の表彰式のニュース。ちょっとだけインタビューされてただろ。俺、あれ何回も見直したから」
「何回も……?」
「二十……いや、三十回くらい?」
どや顔で言うなよ、と思いながらも、言葉が詰まる。
コップへ目が落ちる。
そんなふうに見てるやつがいるなんて、考えたこともなかった。
「私も、録画して残してる」
Shizuが静かに言う。
「協会の人が、“最後まで少女の前に立っていた”って言ってただろ。……盾として、ああいう一歩は、何度見ても忘れちゃいけないって思う」
「さすがにそれは……言いすぎだって……!」
顔の熱さが一気に上がる。
あの時の自分は、ただがむしゃらに前に出ただけなのに。
「言いすぎじゃねぇよ」
Windの声が、それを切った。
テーブルの上で組んだ手。
その指には、小さなタコがいくつもできている。
「俺さ。あのニュース見たとき、正直、震えたんだ」
「震えた?」
「そう。だって、完全に“インサイダーの仕事”だったろ」
たった一言で、あの日の光景が視界の奥から押し寄せてきた。
「俺、その頃ちょうど、インサイダーになった後のこと考えててさ。……あの仕事、普通に死ぬ世界だろ」
Windは、窓の外に一度目を向ける。
ビルのガラスに、うっすらと滅亡時計の光が映っていた。
「でも、お前が前に出たって聞いて、“ああ、インサイダーってこういうことだよな”って、素直に思った」
Windの目が、こちらを射抜く。
「腹、決まったよ。“怖くても前に出る”って覚悟だけは、絶対忘れちゃいけねぇなって」
「……今、協会にいるんですか」
やっとのことで、そう言葉にする。
Windが苦笑い混じりに言って、胸元を軽く指で叩く。
そこには、小さなロゴ入りのバッジが留められていた。
――インサイダー協会のマーク。
「今はEランク。やっとスタートラインって感じだ。 でも、胸張って言える。――あの日のことが、今も背中押してくれてる」
袖をまくった腕のバンドに、照明が白く当たった。
金属の縁が光って、意識がそこへ引かれる。
同じテーブルにいる。
息が一度、浅く引っかかる。
「俺も、インサイダー養成学校・高等部だし」
Kainがポテトをつまみながら手を挙げる。
「私も。今は基礎訓練ばっかり」
Shizuが続ける。
「わ、私も……養成学校です。ヒーラーになりたくて……今は選択科目も全部、そのために……がんばってて……」
Melindaが、もじもじしながら言葉をつなぐ。
「ニュースでインサイダーの人たちが映るたびに……AKIRAさんのこと、思い出します……」
「……俺のことです?」
「はい。だって――あのニュース見て、私もやりたいって思えたから」
指先に、思わず力がこもる。
(……そんなふうに、見てくれてたのか)
教室では、笑い声と陰口しか聞こえなかった。
この人たちは、あの日の自分を、「始まり」として覚えてくれている。
「……でも、あれは」
かろうじて搾り出した声は、情けないくらい掠れていた。
「あれは本当に、たまたまで。運が良かっただけで。相手がもっと強かったら、俺なんて――」
「バカ言うな」
Windの一言が、その先を断ち切った。
「運だけで、モンスター相手に素人が踏み込めねぇよ」
真っすぐな目が、逸らさせてくれない。
逃げ場がなくて、でも不思議と怖くはない空気だった。
「怖くて動けないのが普通だ。震えて、泣いて。それでも前に出た。その一歩は、たまたまじゃない」
テーブルの上で、握った手が震える。
「俺もShizuもKainもMelindaも、あのニュース、何度も見てる」
ドリンクバーの氷が、遠くでからりと鳴った。
隣のテーブルの笑い声が一度だけ跳ねて、すぐに遠のく。
グラスの縁をなぞる動きが止まった。
息が長く抜けて、体が椅子に深く沈む。
そのあと、肩の力が落ちたまま、戻らなかった。
「……でも、今の俺は」
言葉を探すみたいに、グラスを指先で押さえ直した。
自分で自分を笑うみたいに、息を吐く。
「学校じゃ落ちこぼれ扱いで、模擬戦もうまくいかなくて……。道場では、同い年のやつに毎回負けて。家でも親父とケンカばっかで……」
言葉を区切るたび、喉が乾いていく。
グラスの底が、かすかにテーブルへ触れて音を立て、途中で止まった。
次の言葉は、口の中で一度引っかかってから外へ出た。
「……昔から一緒にいたやつらとも、最近はうまく話せてなくて」
Windが、静かに訊いた。
「……その昔から一緒にいたやつらって、どんな関係なんだ?」
隣のテーブルで、グラスが軽く触れ合う音がした。
ドリンクバーの機械が短く唸って、すぐに止まる。
少し息をのみ、目を落とす。
「幼馴染でさ。二人いて……陽菜と凱っていう。ずっと一緒にいた、親友みたいなやつらです」
その言葉を口にした瞬間、みぞおちがじくりと痛んだ。
言葉が、うまく出ない。
口を開いて、閉じる。
それでも――こぼれた。
教室でのひそひそ声。
道場で、凱が父に褒められるのを見てしまったこと。
裏庭で木刀を振り続けて、怒鳴り合いになったこと。
夜、母さんにひどいことを言ってしまったこと。
いくつかは、結論まで言えなかった。
口を開いて、閉じる。
それでも続きを促す気配はなく、テーブルの上の指先だけが小さく動いた。
うまくいっていない話ばかりだった。
自分でも、情けなくなる。
それでも、誰も笑わなかった。
誰も、途中で遮らなかった。
一通り吐き出したあと、グラスの水をひと口飲む。
喉がざらつく。
「……ってわけで」
自嘲気味に笑う。
「リアルじゃ、全然ですよ。ゲームみたいには、いかない」
「当たり前だろ」
Windが、あっさり返した。
「ゲームみたいにいったら、それはそれで怖いわ」
「ですよねー」
Kainが笑って、場の空気が少しだけ軽くなる。
「でもさ」
Windがストローを指でくるくるしながら、ゆっくり言葉を選ぶ。
「AKIRAは、ひとりで全部抱え込みすぎだ」
「……わかってます」
「わかってねぇから、そんな顔してんだろ」
図星を刺されて、目を逸らした。
「陽菜って子と、凱ってやつ。……どんな奴らだ?」
「どんなって……」
言おうとして、言葉に詰まる。
でも、すぐに浮かんだ。
「陽菜は……昔からずっと、一緒にいてくれて。つらい時も、嬉しい時も」
「ほうほう」
Kainがニヤニヤしながら聞いている。
「凱は……めちゃくちゃ強くて、負けず嫌いで。……でも、本当は優しくて」
言葉にしているうちに、自分がどれだけ二人に助けられてきたかが、改めて浮かび上がってきた。
「……二人とも、大事なやつらです」
素直にそう言うと、Melindaが顔を真っ赤にしながら、そっと手を挙げた。
「あ、あの……!」
「な、なに?」
「陽菜さんのこと……好きなんですよね……?」
「ぶっ……!」
危うく、水を変なところに入れかけた。
Kainが「出たー」と笑いをこらえている。
「な、なんでそうなるんですか!」
「だって、その……話すときの顔が……」
Melindaは、目を泳がせながらも、がんばって続ける。
「すごく、やさしかったから、です……」
「うんうん」
Kainが頷く。
「声も上がってたしね」
「やめろ!」
机の下で足がバタつく。
「そ、そういうのじゃ――」
「じゃ、ないのか?」
Windが、からかい半分ではなく、真剣な目で聞いてくる。
「気になるんじゃないのか? その子のこと」
喉が、からんと鳴った。
あの日、陽菜の前に立ったときの感触がよぎる。
怖さは確かにあったのに、それより先に体が動いていた。
ただ、守りたかった。
それだけだった。
息がひとつ、ゆっくり抜ける。
――その感覚は、今も残っている。
「……守りたい」
そのまま、言葉にした。
「陽菜だけじゃない。凱も。……他にも、守りたい人がいます」
ニュースで見た、助けられなかった誰かたち。
今もどこかで泣いている人たち。
「だから、インサイダーになりたい。なりたいけど……今の俺じゃ、守れない。だから、逃げて……」
「逃げていいよ」
Windが、そこであっさり言った。
「は?」
思わず顔を上げる。
Windは、少し笑った。
「今はしんどいんだろ。だったら、一回逃げてもいい」
そんなことを真正面から言われたのは、初めてだった。
Windの目が、少しだけ鋭くなる。
「ただし。ずっと逃げっぱなしなのは、ダサい」
短い一言だった。
でも、その一言が、ぐさりと刺さる。
「ゲームでもそうだろ。一回下がるのは戦術だ。だけど、そのまま戻ってこなかったら、パーティ全滅だ」
言われてみれば、何度も見た光景だ。
押し込まれて、ラインを下げて、立て直して――そして、また前に出て勝った戦い。
「お前、何回も戻ってきたじゃん」
Kainが笑う。
「“ごめん、一回下がる”って言ってから、“もう一回行く”って戻ってきてくれたの、何回も見た」
「ヒーラーからしても……すごく、頼もしかったです」
Melindaが、胸の前で手をぎゅっと握る。
Shizuも、静かに頷いた。
「前に出るのが怖くなくなるなんてことはない。……それでも出る奴を、私は信頼する」
「だからさ」
Windが、彰をまっすぐ見て言う。
「リアルでも、一回下がるのはいい。今は、逃げてもいい」
肋骨の内側が、少し緩む。
「でも――いつかまた前に出るって、自分で決めろ」
その言葉で、ずれていた感覚が、ようやく同じ向きを向いた。
「その子たちが、本当に“仲間”ならさ」
Windの声がやわらぐ。
「お前が戻ってきたとき、絶対、また隣で笑ってくれる」
「……簡単じゃないって、わかってるくせに」
「簡単じゃねぇよ。だから怖いんだろ」
Windは、自分の胸を軽く拳で叩く。
「だから――俺らは、お前の“逃げ場”になってやる」
彰はグラスの縁を押さえたまま、しばらく動けなかった。
「しんどくなったら、またゲームでも、チャットでも、オフでもいい。何回でも愚痴言え」
ストローを口から外し、Windは笑った。
「でも、最後には自分で前に出ろ。……“あの日のAKIRA”みたいにな」
息が詰まり、喉の奥が焼ける。
それでも、今度は逃げたくなかった。
「……わかりました」
自分でも驚くくらい、まっすぐ声が出た。
「今は、まだ怖い。陽菜や凱に、どう顔向けすればいいかもわかんない」
それは、嘘偽りのない本音だった。
「でも――」
グラスを置き、膝の上の拳に力を込める。
「中等部を卒業するまでには、ちゃんと謝る。逃げたことも、勝手に距離をとったことも」
陽菜に。
凱に。
親父に。
母さんに。
名前が、順に浮かんだ。
「それで、胸張って言えるようになります。……俺はインサイダーになるって」
その言葉は、まだ震えていた。
けれど、口にした瞬間、どこかで覚悟が決まった気がした。
Windが、にっと笑う。
「それで十分だ」
Kainが、両手を上げる。
「よっしゃー! “卒業までに勇気を出すクエスト”発生だな!」
「応援……します。ずっと……」
Melindaの声は小さいけれど、しっかり届いた。
「また迷ったら、言って」
Shizuの短い言葉が、背中を支える杭みたいに感じられる。
「……ありがとうございます」
自然と、そう言っていた。
そのあとも、五人はしばらく他愛ない話を続けた。
Kainが新作ゲームの話で盛り上がり、Windが「寝不足で訓練行くと死ぬぞ」と呆れた声を返す。
Melindaはその横で小さく笑いながら、ドリンクバーの新しいジュースを勧めてきた。
Shizuは相変わらず口数こそ少ないけれど、ときどき挟む一言だけで空気を全部持っていく。
気づけば彰も、さっきまでより自然に笑っていた。
窓の外は、いつの間にか夕暮れを越えている。
店内の照明が少し落ち、ガラス越しの駅前には夜の色が広がり始めていた。
「……あ、やべ」
スマホを見たKainが声を上げる。
「もうこんな時間じゃん」
「ほんとだな」
Windも苦笑しながら立ち上がった。
「そろそろ帰るか」
五人は席を立ち、レジで会計を分けた。
さっきまで賑やかだったテーブルには、空になったグラスだけが残っていた。
ファミレスを出る頃には、空はすっかり暗くなっていた。
駅前の灯りが川面へ細く揺れ、夜風が頬を静かに抜けていく。
店の中に残っていた笑い声の余韻だけが、まだ胸の奥に温かく残っていた。
「じゃ、俺こっちだから」
Kainが歩きながら、ひらひらと手を振る。
「メルちゃん、夜道気をつけてなー」
「は、はい……! 皆さんも……!」
Melindaは両手でバッグを抱えたまま、ぺこりと頭を下げた。
「また、ゲームの中で会いましょう……!」
「また……」
Shizuが短く返し、そのままMelindaと同じ方向へ歩き出す。
街灯に照らされた大きな背中と小さな背中が、人の流れへゆっくり溶けていった。
その姿を見送りながら、彰は小さく息を吐く。
気づけば、川沿いにはWindと二人だけが残っていた。
川面へ映る灯りが揺れ、流れる水音だけが静かに耳へ残る。
見上げたビルの隙間は黒く沈んでいた。
それでも、この街がまだ動き続けている気配だけは、不思議とはっきり感じられる。
「……なぁ」
隣で、Windがぽつりと口を開いた。
「インサイダーになったらさ、またこうやって集まろうぜ」
横目で見ると、少し照れくさそうに笑っている。
「協会の休み、そんな多くねぇしさ。バタバタするけど」
「忙しいんですね」
「まぁな。でも、楽しいよ」
その一言に、彰の胸へ小さな熱が灯る。
うらやましさと一緒に、“そこへ行きたい”という感情が静かに浮かび上がってくる。
(――俺も、そこに行きたい)
川面へ揺れる灯りを見つめながら、その想いだけが胸の奥へ残った。
いつか必ず。
すると、隣でWindがごく自然な口調のまま言う。
「だから、お前も来いよ」
彰が顔を向ける。
「インサイダーでも、別の道でもいい。どんな形でもいいからさ。“守る側”に」
その言葉を聞いた瞬間、彰は胸の前で小さく拳を握っていた。
「……行くよ」
漏れた声は小さい。
それでも、自分の中でははっきり聞こえた。
夜風が頬を抜けていく。
冷たいはずなのに、その感触が逆に胸の熱を際立たせていた。
彰は一度息を吸い、川面へ映った自分の影へ視線を落とす。
「中等部、卒業するまでに」
言葉を選ぶみたいに、ゆっくり続けた。
「陽菜と凱に、ちゃんと謝る。逃げたことも、弱さも全部話す」
流れる水音の向こうで、電車の走る音が小さく響く。
彰は拳を握ったまま、もう一度前を向いた。
「それでも隣にいてくれるなら、その時は胸張って言う」
声は、さっきよりずっとまっすぐだった。
「俺は“守る側”に立つって」
Windが笑いながら、軽く彰の肩を叩く。
「いいじゃん。それ」
その時、ポケットの中のスマホが短く震えた。
取り出して画面を開くと、グループチャットへ新しいメッセージが流れ込んでいる。
【Kain】:今日のオフ会楽しかったー!
【Melinda】:また会おうー!( `ー´)ノ
【Shizu】:次は、私の奢りで肉を食おう
そこへ、Windが新しいメッセージを打ち込む。
【WIND】:また一緒に戦えるその日まで、それぞれの場所で生き残ろうな
それを見た瞬間、彰の口元から自然に笑みがこぼれた。
(……まぐれじゃなかった)
あの日の光景が、短く脳裏をよぎる。
足は震えていた。
怖くなかったわけじゃない。
それでも――身体は前に出ていた。
彰は小さく息を吐き、川面へ揺れる灯りをぼんやり見つめる。
まだ、胸を張れるわけじゃない。
陽菜や凱の顔を思い浮かべると、視線は自然と少し落ちた。
逃げたこと。
距離を置いたこと。
言えなかった言葉。
まだ整理しきれない感情は残っている。
それでも――。
(卒業するときには、ちゃんと笑って二人の前に立てるように)
その想いだけは、夜風の中でも消えなかった。
ファミレスでもらった小さな熱が、胸の奥で静かに灯り続けている。
「じゃあな、AKIRA」
Windが片手を上げる。
「またゲームで会おう。……それと、いつか現場でな」
「うん。また」
Windは笑ったまま背を向け、人の流れの中へゆっくり紛れていった。
その背中が見えなくなるまで、彰は川沿いに立ったまま動かなかった。
見上げた空には、ビルの隙間から滅亡時計がかすかに顔を覗かせている。
雲の切れ間に滲むその光が、川面の揺れと重なって見えた。
彰はその景色を見つめたまま、一度だけ長く息を吐く。
隣では、通り過ぎた誰かの笑い声が夜風に混ざって弾けた。
「……俺も、行くから」
小さく呟き、そのまま前へ足を踏み出す。
家へ続く夜道は、来た時よりほんの少しだけ明るく見えた。




