第17話:私たちの息子
――夜/龍胆家・縁側
夜の庭には、虫の声と風のざわめきだけが残っていた。
昼の熱を手放した土の匂いが、夜気へ薄く混じっている。
縁側に、ひとり――誠がいた。
手の中の湯呑は、とっくに冷え切っている。
液面には月明かりが細く揺れ、そのたび指先の震えがわずかに滲んだ。
それでも、手は離れない。
風鈴が一度だけ鳴り、音はすぐ夜気へ溶けていく。
やがて障子がそっと開いた。
紙の擦れる音と一緒に夜風が流れ込み、美咲が静かに隣へ腰を下ろす。
衣の裾が板へ触れ、小さな音だけが残った。
「……また怒鳴っちゃったのね」
語尾が息へ溶け、小さく夜気へ落ちた。
誠は返事をしない。
夜空を見たまま、一度持ち上げかけた湯呑を膝の上へ戻す。
冷えた器が指先へ触れているのに、手は離れなかった。
「……あいつ、手の皮がむけて血だらけになりながら……それでも木刀を振り続けてたんだ」
声は遠くへ飛ばず、縁側へ沈んでいく。
「止めなきゃって、頭ではわかってた」
誠の喉が一度だけ詰まる。
「だけど目の前にいたのは、必死で食らいついてるあいつで……誇らしいのと同じくらい、怖かった」
液面がわずかに揺れた。
震えた指先が、その揺らぎを崩していく。
「だから声をかけた瞬間、出てきたのが怒鳴り声だった」
唇が苦く歪む。
「……あとになって、自分が何をしたのか、やっとわかったんだ」
指先の震えは、まだ止まらない。
誠は膝の上で手を固く組み、そのまま俯いた。
「本当は……褒めてやりたかったんだ。ただ、それができなかった……」
喉が低く詰まる。
「誇りに思った。――でも、折れてほしくなかったんだ」
美咲は目を細め、そっと問いかける。
「……あなた、自分と彰を重ねてるのね?」
誠は答えない。
膝の上で握った拳を、じっと見つめていた。
節が白く浮き、力だけが抜けない。
やがて誠は、ぽつりと声を落とす。
「……あいつには、俺と同じ道を歩んでほしくないんだ」
夜の庭へ向けた視線が、ゆっくり落ちる。
「だからこそ、ちゃんと前を向いていてほしい」
膝の上で組んだ指だけが、しばらく解けなかった。
美咲はすぐには答えない。
月明かりの中で、ただ静かに誠を見つめ続けていた。
やがて、そっと誠の手へ自分の手を重ねる。
荒れた指先を包み込み、親指だけがゆっくり動いた。
「……あなたは、彰をちゃんと想ってる。誰よりも。だからこそ、厳しくなってしまうのよ」
美咲は小さく息を整え、重ねた指先へ少しだけ力を込める。
「――あの子は、あなたの背中をずっと見てたの。叱られても、同じ歩幅でついていこうとしてる」
誠はそこで初めて美咲を見た。
視線がわずかに揺れる。
夜空から落ちた視線を追うように、月明かりが一度だけ途切れた。
握った湯呑がかすかにきしみ、誠は深く息を吸う。
「あなたの想いは、彰に伝わってる。……今は届いていなくても。きっと、いつか――」
美咲は言葉を探すようにまぶたを伏せ、重ねた手を少しだけ強く握った。
「だって、あの子はもう、自分の力で陽菜ちゃんを守ったじゃない」
声は静かだった。
けれど、その言葉だけは真っ直ぐ誠へ届く。
「偶然じゃない“本当の力”を手に入れようとしてる。……それは、あなたが教えてきたものの証なんだから」
誠の眉間がぴくりと揺れる。
強く結ばれていた口元が、わずかに緩んだ。
熱を失った湯呑の冷たさが、遅れて指先へ伝わってくる。
庭の奥で、夜露を含んだ葉がひとつ落ちた。
虫の声が間を埋め、竹の葉がかすかに揺れる。
「……そうか……」
誠の息が、ゆっくり抜ける。
「届いてないんじゃなくて、今はまだ……届かないだけなんだな」
「ええ。……あの子は、私たちの息子よ」
夜風が、二人の間を静かに通り抜けていった。
誠の肩から、わずかに力が抜けた。
「……あいつの頑固なところは、俺にそっくりだな」
「ふふ……それも、あなた譲りね」
美咲が小さく笑う。
誠も、ようやく口元を緩めた。
縁側へ、かすかな笑い声だけが残る。
やがて二人は並んだまま夜空を見上げた。
言葉はない。
けれど視線だけが、同じ高さへ残っていた。
雲へ隠れかけた月は、それでも静かに空へ留まり続けていた。




