第15話:揺らぐ刃
――放課後/龍胆家・道場
季節だけが、彰を置き去りにして巡っていく。
色を失った葉が赤黒く散り、乾いた風が頬を切った。
夕暮れが早く、道場はすぐに薄暗くなる。
湿った落ち葉の匂いと、木刀のささくれた柄の感触が混じる。
その空気に、足がわずかに止まった。
あの朝から、頭のざわめきは消えない。
次の日になっても、結局、陽菜にも凱にも謝れなかった。
顔を合わせるたび、喉の奥が詰まる。
言葉を探しているうちに、いつも先に視線を逸らしてしまった。
だから彰は、訓練へ逃げるみたいに身体を動かし続けていた。
まだ空も暗い時間に起き、家の道場で木刀を振る。
学校が開く頃には訓練場へ向かい、授業前まで剣を振った。
放課後は訓練場と魔法訓練場を往復し、夜はまた家の道場へ戻る。
土日も、学校が開いている時間はほとんど自主練に費やした。
止まると、夢の赤が追いついてくる気がした。
昨夜の光景を振り払うように、首を一度振る。
――泣く陽菜。
怒鳴る凱。
年を重ねた知らない自分の顔。
「ただの悪い残像だ」
わかっている。
現実じゃない。
それでも、あんなふうにはなりたくない――その思いだけが、しつこく胸の奥へ残っていた。
鼻から吸い、口で吐く。
足袋の先で畳の目をひとつ踏みしめ、ゆっくり構えを取る。
彰は、ひたすらユニオン・ブレードの型を繰り返した。
両肩を回し、握りを確かめ、正面へ小さく会釈する。
足幅を調整し、踵を半歩だけ引いた。
(……模擬戦で俺が足を引っ張った)
(魔法も伸びない)
せっかく剣が光っても、当たらなければ意味がない。
守るどころか、結局は凱と陽菜に助けられてばかりだ。
踏み込もうとしても、足だけがわずかに遅れる。
重心が揺れ、その感覚が膝の奥へ残った。
――そして、夢の残像。
紅に沈む桜。
まぶたの裏へ焼きつき、何度振り払っても離れない。
(……ああは、ならない)
歯の裏をそっと噛み、息をひとつ止める。
そのまま木刀を振り抜いた。
シュッ、と空気を裂く音が冷えた道場へ走る。
もう一度。
さらにもう一度。
振るたび、乾いた風が袖を抜け、張りつめた呼吸だけが耳の奥へ残った。
けれど型は、少しずつ崩れていく。
踏み込みは甘い。
斬撃は心体育成流の癖へ引っ張られ、力任せに振り切るたび形がさらに乱れた。
(急ぐな……いや、遅い)
出した足が、半拍遅れて畳を擦る。
「……っ」
柄が滑りそうになり、親指の腹で鍔元を押さえ直した。
構え直して振り下ろす。
それでも、今度は体の返りが半拍遅れる。
脈を押さえ、呼吸を数え直す。
リズムが噛み合わない。
「落ち着け」
息を吸い直した瞬間、まぶたの裏に陽菜の涙が滲んだ。
夢だとわかっている。
それでも、まぶたの裏の赤だけが消えなかった。
(いや、強くなってる。……はずだ)
そう信じていないと、立っていられなかった。
吐いた息が途中で細く折れる。
眉間へ力を入れ、彰は柱の節を見据えた。
柱には、昔つけた木刀傷がまだ残っている。
組手で勝った日も、父に褒められた日も、ここで何度も木刀を振った。
けれど今は違う。
組手は噛み合わず、受けるばかりだった。
心体育成流とユニオン・ブレードを無理やり重ねるたび、踏み込みの向きがずれていく。
角度を空描きで確かめても、畳へ残るのは浅い擦れ跡ばかりだった。
(迷ってる暇はない――)
不意に、廊下から声が漏れ聞こえてきた。
「最近の彰、なんかヤバくない?」
「ユニオン・ブレード、型ぐちゃぐちゃじゃん」
「でも、めっちゃ練習してるよな」
笑い混じりの声が、閉め切った道場の空気を薄く揺らす。
「いや、雑魚すぎだろ」
語尾が軽く跳ね、すぐ後ろで笑い声が重なった。
背中越しに転がる笑い声へ、彰は唇の内側を強く噛む。
立ち止まりかけた足へ無理やり力を入れ、そのまま前だけを見た。
握った拳の親指が白くなる。
気づいて力を抜くと、肩だけが小さく落ちた。
◇
二年になっても、陽菜と凱との距離は変わらなかった。
必要な時に、一言二言。
そんな会話だけが続いている。
放課後の廊下。
傾いた陽射しがガラス窓へオレンジ色を滲ませ、伸びた影が床を細く流れていた。
「アキ、今日いっしょに帰らない?」
陽菜は笑っていた。
けれど、その声は少しだけぎこちない。
彰の顔色を窺うみたいに視線が止まり、続きの言葉が喉で小さく詰まった。
彰は一瞬だけ返事を探す。
(……また、あの夢)
血の中で泣いていた陽菜の顔が浮かぶ。
みぞおちの奥が鈍く軋んだ。
「悪い、訓練あるから」
笑ってみせる。
けれど最後まで顔は向けられなかった。
バッグの肩紐をきつく引き寄せ、歩幅を速める。
陽菜は小走りで隣へ並んだ。
「そっか……わかった」
小さくうなずき、笑おうとする。
けれど口元へ浮かんだ形は、すぐ力なく崩れた。
「……最近、頑張りすぎじゃない?」
視線が揺れる。
心配を隠しきれないまま、声だけが静かに落ちた。
凱が横から口を挟む。
「無茶ばっかしてたら、そのうちマジで倒れるぞ」
眉間へ皺を寄せたまま、言葉だけが真っ直ぐ飛んでくる。
その瞬間、夢の中の鋭い眼差しが現実の凱へ重なった。
「……ほっといてくれよ」
擦れた声が、そのまま漏れた。
陽菜が息を詰める。
凱の視線も、わずかに鋭くなった。
ポケットへ押し込んだ拳の中で、親指の関節を何度も押し込む。
皮膚の内側へ走る痛みだけが、別の感覚を押し流していった。
(夢とは違う……わかってる)
それでも、胸の奥のざわつきだけは消えない。
そのまま会話は途切れた。
◇
――別の日・昼休み/食堂
食堂には、箸の音だけが残っていた。
同じ机を囲みながら、三人の距離は少しずつずれていく。
「これ、半分食べる?」
陽菜が卵焼きを差し出す。
箸がわずかに揺れていた。
何か言おうとして、唇だけが小さく動く。
(……また、遠くなってる)
目の前にいる。
それなのに、前みたいな近さが掴めない。
それでも陽菜は、何もなかったみたいに温かいものを差し出してくる。
「今はいい」
短く返す。
その言葉を受け、陽菜のまつげが静かに伏せられた。
それでも無理やり笑おうとする。
「……そっか」
箸が止まる。
湯気の向こうで、小さなため息だけが揺れた。
それでも席を立とうとはしない。
彰は唐揚げを口へ運ぶ。
味なんてほとんど分からないまま、水で無理やり流し込んだ。
飲み込んだものが、喉の奥へ引っかかったまま落ちていかない。
「……頑固だな」
凱が短く吐き、顔を横へ向ける。
(わかってる。心配してくれてる)
凱の言い方も、陽菜の手つきも、痛いくらい伝わっていた。
それでも、受け取る前に手を引いてしまう。
(甘えたら、また守られて終わる)
木刀袋の紐を引き寄せ、結び目を締め直す。
指先が汗で滑る。
もう一度力を込め、ほどけない固さを確かめてから、ゆっくり視線を前へ戻した。
焔の声が、耳の奥に残っている。
『……君は、立派なヒーローだ』
続けて、御剣の言葉が重なった。
『勇気を忘れるな』
『鍛え続けろ。君はきっと、いいインサイダーになる』
どちらの声も、離れない。
(あの二人みたいに――強くなりたい)
◇
――同日・放課後/中等部・訓練場
彰は模擬剣を握り直した。
追いつきたい。
その思いだけは、もう揺らがなかった。
けれど次の瞬間、父の声が骨の奥で静かに止める。
『だが、無理をすれば怪我をする。心も、体もだ』
握りへ力が入りすぎる。
気づいて、彰は肘の力だけをそっと抜いた。
そのまま模擬剣を振り下ろす。
乾いた音が訓練場へ響き、冷えた空気の中へ溶けていった。
ふと、陽菜の声が頭をよぎる。
『……アキ、大丈夫かな?』
振り下ろしかけた模擬剣が、わずかに止まる。
握りへ入った力だけが、一瞬抜けた。
それでも彰は、もう一度模擬剣を握り直す。
(……まだ、止まれない)
振り下ろすたび、乾いた音が夕方の訓練場へ散っていく。
遠くで鳴いたカラスの声だけが、その響きへ静かに重なっていた。




