第10話:白い残響
――夜/山中遺跡・中央広間
次に目を開けたとき、視界の外で何かが忙しく動いていた。
左腕の奥に、わずかな熱が残っている。
声がぶつかり、重たい靴音が床を叩いていた。
湿った空気に、土と血の匂いが混じる。
肺の奥がひりつき、咳がこみ上げた。
舌先に残る鉄の味を、指で唇の端を拭って確かめる。
「生存者です! 中等部の生徒が一人、意識あり!」
「担架! 急げ!」
「バイタルは?」
「安定ぎりぎり。まず保護を優先!」
「状況も確認だ、何があった!?」
白い防具が次々視界を横切る。
担架が上下するたび、胃の奥がふわりと持ち上がった。
石の天井が視界の端を流れていく。
額へ手を当てる者、脈を測る者、短い指示を飛ばす者。
それでも耳の奥に残るのは、まだ自分の荒い呼吸だけだった。
入口から奥へ進んだ隊員たちは、広間へ踏み込んだ瞬間、一度だけ足を止める。
ブーツが石をきしませ、小さな砂粒が跳ねた。
「……これは」
現場の指揮官らしき男が、床へ残された斬撃痕を見下ろし、眉をひそめる。
「ゴーレムも、他の魔物も……全部片付いている。ほぼ一撃か。なんて斬れ味だ」
「まるで嵐の通過後だな。他に生存者は……いないのか?」
隊員たちは驚きながらも、すぐ周囲を警戒し始めた。
索敵用の魔導具が起動し、淡い光が石床を走っていく。
担架の上から、その光景だけがゆっくり流れていった。
口を開こうとして、喉がひくりと鳴る。
言葉がうまく出ない。
担架が揺れるたび、同じ問いだけが頭の奥へ戻ってきた。
「君、見てたか? 何があった」
「落ち着いていい。ゆっくりでいいから」
乾いた声が、口をついて出る。
「……よく覚えていません。魔物に襲われて……そしたら、黒い服の……三人が――」
そこで言葉が止まった。
息を吸おうとしても、喉の奥で引っかかる。
(アウトサイダーと口にしたら、問題になる……)
その考えが浮かんだ瞬間、口が閉じた。
繋がりを疑われる。
それだけで十分だと、身体が先に理解していた。
担架の縁を掴む手へ、無意識に力が入る。
指を離そうとしても、うまく動かなかった。
そのまま担架が運ばれていく。
崩れた通路を抜け、冷たい外気が頬へ触れた。
ひらけた夜の空気が、一気に視界を押し広げる。
「アキ!」
先生と陽菜、凱がこちらへ駆け寄ってきた。
砂利が跳ね、荒い息が近づく。
「龍胆!」
先生が肩を支えた。
「無事でよかった!」
「アキ……!」
陽菜が担架へ身を寄せ、彰の肩へ腕を強く回す。
「よかった……ほんとに……!」
熱を帯びた体温が伝わる。
小さな手の震えが、背中へ残った。
凱は乱暴に肩を叩く。
「心配させやがって、バカ!」
それでも瞳は赤い。
吸うたび鼻が鳴り、握っていた拳が少しずつほどけていく。
血の通った温もりが、じんわりと身体へ広がった。
「……ごめん」
そう言いかけた瞬間だった。
『クエストを達成しました。――世界滅亡までのカウントが、+10日増加しました』
無機質な声が、頭の奥へ直接響く。
その瞬間、それまで耳へ入っていた音がゆっくり遠のいていった。
救助隊員の無線も、先生の指示も、陽菜の嗚咽も、凱の荒い呼吸も。
全部が、分厚い水の底へ沈むみたいに遠ざかっていく。
残ったのは、あの声と――白い髪の残像だけだった。
アウトサイダー。
そう教えられてきた相手が、自分を助けた。
その事実だけが、どこにも置き場所を見つけられない。
「……生徒を先に!」
指示が飛び、周囲はすぐ動き始める。
彰だけが、取り残されたみたいに担架の上で身動きできずにいた。
喉の奥へ重たいものが引っかかったまま、指先だけが宙を探る。
だが何も掴めず、そのまま力なく膝の上へ落ちていった。
◇
――深夜/出雲市内・宿泊先のホテル
宿泊先の和室へ戻ると、彰は壁際へ腰を下ろした。
袖の裂けた制服には、まだ粉塵と血の跡が残っている。
破れた裾を見下ろし、小さく息を吐いた。
そのまま制服を脱ぎ、旅館の浴衣へ着替えていく。
畳の上には、戻ってきたままの荷物や脱ぎかけの制服が乱雑に広がっていた。
窓の外では、風が木々を揺らしている。
それでも部屋の空気は、まだどこか落ち着かなかった。
「マジで死ぬかと思った……」
「ゴーレム動くとか聞いてねぇって……」
「いや、お前転びかけてたじゃん」
力の抜けた笑いが漏れる。
誰も本気では笑えていなかった。
全員、顔のどこかに疲れが残っている。
「でも、彰マジで無事でよかったわ」
近くの男子が小さく息を吐いた。
「ほんとにな。置いてかれたって聞いた時、終わったと思った」
彰は小さく肩をすくめる。
「……ごめん。心配かけた」
そのとき、誰かが思い出したように顔を上げた。
「そういやさ、助けに来たインサイダーってどんな人だった?」
「Aランク? 焔先生みたいな感じ?」
「三人いたって本当?」
質問が一気に重なる。
彰は一瞬だけ視線を落とした。
脳裏へ、白い髪と氷の瞳が浮かぶ。
畳へ落とした指先が、無意識に小さく握られた。
「……ごめん。気絶してて、よくわからなかった」
声が少し擦れる。
「そっか」
「まあ、生きてただけで十分だろ」
空気が少しだけ緩んだ。
遺跡はその後、完全封鎖となり、生徒たちはホテル待機を命じられる。
それでも時間が経つにつれ、張り詰めていた空気も少しずつほどけていった。
「温泉入り直してくるわ」
「売店まだ開いてるらしいぞ」
誰かが笑い、誰かが飲み物を抱えて戻ってくる。
ホテルの売店には地元の菓子や土産が並び、遅い時間でも生徒たちの声が続いていた。
彰は壁際へ背を預けたまま、その空気をぼんやり眺める。
そのとき、スマートフォンが小さく震えた。
【陽菜】:売店、一緒に見よ!
すぐ下へ、追加の通知が届く。
【凱】:アキも来いよ
彰は画面を見つめたまま、少しだけ間を置いた。
親指が返信欄の上で、しばらく止まる。
それでも。
【彰】:おけー
短く返事を打ち込む。
そのまま重たい足取りでロビーへ向かうと、ソファの前で陽菜と凱が待っていた。
「アキ!」
陽菜が顔を上げる。
「大丈夫か?」
凱も眉をひそめた。
彰は小さく頷く。
「……平気」
短く返した声に、二人とも少しだけ肩の力を抜いた。
「よかったぁ……」
陽菜が胸へ手を当てる。
そのまま三人で売店の方へ歩いていった。
売店には、温泉饅頭や地元の菓子、瓶牛乳まで並んでいる。
「うわ、めっちゃあるじゃん」
「これ絶対うまいやつだろ」
陽菜と凱は楽しそうに棚を覗き込んでいた。
けれど彰だけは、どうしても気分が追いつかない。
二人の笑い声を聞きながらも、頭の奥にはまだ白い髪と氷の軌跡が残り続けていた。
「アキ、どれにする?」
凱が振り返る。
「俺これ。温泉饅頭」
「私もそれにしようかな!」
陽菜が笑った。
二人の視線が彰へ向く。
彰は一瞬だけ遅れて、無理やり口元を持ち上げる。
「お、おれもそれにしようかな」
結局、三人で同じ温泉饅頭を買った。
その夜は、それ以上どこかへ行くこともなく、それぞれの部屋へ戻っていった。
◇
翌日。
彰は破れた制服の代わりに、予備で持ってきていたジャージへ着替えていた。
そのままバスへ乗り込む。
帰り道の空気は、昨日とはまるで違っていた。
「いやマジでやばかったな!」
「でも逆に一生忘れなくね?」
「ゴーレム動いた瞬間、映画かと思ったわ」
誰もが興奮気味に話している。
怖かったはずなのに、いつの間にか“事件”より“体験”として語られ始めていた。
飛行機の中でも同じだった。
笑い声と写真の確認、土産話が途切れず続いている。
その輪の外で、彰だけが窓の外を見続けていた。
雲の白さが、やけに遠い。
(……なんで、あんな人が)
答えは出ない。
飛行機が着陸し、再びバスへ揺られていく。
窓の外では、見慣れた街並みが少しずつ近づいていた。
それでも、彰の中だけはまだ遺跡の空気から抜け出せずにいる。
その日の午後。
学校へ到着し、課外授業は解散となった。
「疲れたなー!」
凱が大きく伸びをした。
「帰ったら絶対寝る」
二人の会話へ頷きながら、彰は気づかれないよう笑顔だけを保ち続けていた。
夕暮れの住宅街を、三人で並んで歩いていく。
風は少しだけ冷たくなっていた。
最初に見えてきたのは、凱の家だった。
「じゃ、また明日な!」
凱が片手を上げ、そのまま玄関へ駆けていく。
「またねー!」
陽菜も手を振った。
凱の姿が見えなくなると、帰り道は少しだけ静かになる。
二人はそのまま並んで歩いた。
やがて陽菜の家へ着く。
「アキ、本当に無理してない?」
少し心配そうな目だった。
彰は笑って頷く。
「平気だって」
「……そっか。ちゃんと休んでね」
陽菜も小さく手を振り、家へ入っていった。
玄関の扉が閉まり、灯りが遮られた。
一人になったところで、ようやく息を吐いた。
◇
――龍胆家
玄関を開けた瞬間、足音が響く。
「彰!?」
「大丈夫だったの!?」
美咲と誠が慌てて駆け寄ってきた。
「先生から電話きて……!」
「本当に無事でよかった……」
安堵した声が重なる。
彰は小さく頷いた。
「……うん」
居間へ入ると、テレビには「出雲遺跡事件」のテロップが流れていた。
笑顔のアナウンサーが、明るい声で続ける。
『インサイダーの迅速な対応により、生徒全員が無事救出されました。死傷者はゼロ――』
避難所で拍手する市民。
スピーカー越しの音が、部屋の空気と噛み合わない。
頬が引きつり、口元へ力が入る。
「インサイダーの人たちに感謝しなきゃね」
美咲がほっとしたように呟く。
誠も静かに頷いた。
「ああ。本当に助かったな」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が小さく揺れた。
彰は視線を落とす。
「……俺、少し休むよ」
短く言い残し、そのまま自室へ向かった。
扉を閉め、ベッドへ倒れ込む。
全身から力が抜けた。
まぶたを閉じると、遺跡で見た白い髪と青のメッシュ、氷みたいな瞳が浮かぶ。
――神楽月 吹雪。
刃が走る一閃。
舞い散った氷の欠片が、まぶたの裏へ焼きついて離れない。
倒れた自分を見下ろしていた視線。
どうしても、目を逸らせなかった。
アウトサイダー。
そう教えられてきた相手が、あの場で自分を助けた。
「……偶然、だったのか?」
続きを考えようとした瞬間、息が途中で止まる。
天井へ落ちた影をぼんやり見つめたまま、その問いだけが部屋の暗がりに残った。
焔先生の声が、遅れて頭の奥をよぎる。
“正義”として教えられてきた言葉だけが、どうしてもうまく噛み合わない。
彰は枕へ顔を半分埋め、長く息を吐いた。
天井の影が、その呼吸へ合わせて静かに揺れていた。




