第9話:左腕に残る感覚
――昼/山中遺跡・外縁部(避難地点)
「龍胆くんが……アキが、まだ中に!」
陽菜の声が、避難地点へ鋭く響いた。
遺跡の奥から返事はない。
その瞬間、先生と凱の動きが止まる。
陽菜は祈るみたいに指を強く組み、落ち着かないまま踵を揺らした。
「……っ!?」
凱の上体が小さく跳ねる。
「先生、俺が――」
「待て、獅子堂!」
上原先生が手を上げて制した。
「虹咲、状況確認を優先だ!」
凱は歯を噛み、どうすることもできず半歩下がる。
靴底が砂利をきしませた。
「くそっ、なんてことだ……!」
上原先生は腰の端末を引き抜き、緊急チャンネルを開く。
「こちら上原! 緊急だ、遺跡内にモンスター出現! 生徒が一名、内部に取り残された! 救援を!」
『……待て、遺跡内にモンスターだと? その情報、確かか!』
『詳細は後だ、緊急扱いで回す! 位置を送れ!』
上原先生は短く頷き、端末を強く握った。
陽菜は唇を強く結び、遺跡の奥から目を離せなかった。
◇
――同刻/山中遺跡・出口側通路
出口側の通路で、彰は立ち尽くしていた。
まだ頭の奥で眩暈が揺れている。
耳鳴りが消えず、足裏の感覚もうまく戻らない。
視界は時折白く点滅し、現実との境界が曖昧になる。
彰は壁へ手をつき、石の角を探るように支えを求めた。
「動け……頼む、動け……!」
脚へ力を入れたはずなのに、うまく踏み込めない。
吐き出した空気が途中で止まり、喉の奥で引っかかった。
(……逃げたい。死にたくない……)
その考えだけが頭から離れない。
口の中が乾き、呼吸が浅くなる。
祭壇前ではゴーレムが暴れ狂っていた。
巨大な斧が振り下ろされるたび、床石が砕け、粉じんが熱を帯びて肌へ張りつく。
轟音が胸を揺らす。
通れる気がしなかった。
彰は一歩引き、踵で小石をカチ、と鳴らす。
(どうすれば……! みんなは……!?)
「……息が……!」
胸へ手を当て、数を数えるみたいに浅く呼吸した。
その時だった。
背後の闇から、ぬるりと何かが這い出してくる。
湿った足音が石床を叩き、生臭さが鼻腔を焼いた。
振り返った瞬間、心臓が跳ね上がる。
上体がびくりと震え、足先から力が抜けた。
粘液に覆われた巨体が、闇からゆっくりにじみ出る。
触手が壁を打ち、ぬめった音が通路へ反響した。
――考える前に、背中が壁へ当たっていた。
放たれる殺気が、針みたいに肌へ突き刺さる。
彰は背を壁へ押しつけ、短く息を整えた。
「嘘だろ……来るな……!」
反射的に踵を返し、狭い通路を駆け出す。
背後で触手が壁を叩き割る。
砕けた石片が風圧と一緒に後頭部をかすめた。
砂煙が鼻腔を刺し、喉がひくりと跳ねる。
袖で口元を覆い、視界の端で曲がり角を探した。
――行き止まりだった。
冷たい石壁が目前へ立ちはだかり、踏み込もうとした足が止まる。
反射的についた手が、そのまま壁を滑った。
「……っ」
次の瞬間、触手が振り下ろされる。
「ぐっ……!」
鈍い衝撃が走り、背中が石壁へ叩きつけられた。
肺の空気が一気に押し出される。
左腕へ焼けるような痛みが走り、遅れて骨が軋む感覚が追いついてきた。
指が何かを求めるみたいに、背後の石壁を掻きむしる。
けれど掴めるものはない。
爪の先が砕ける乾いた音だけが、やけに近くで響いていた。
(……ここまで、か)
陽菜の笑顔が浮かび、そのあとへ凱の真剣な目が重なる。
父さんと母さんの姿も、その奥へ滲んでいった。
視界の色が少しずつ遠のいていく。
手から力が抜け、体がずるりと沈みかけた。
その瞬間だった。
触手の影が視界を塞ぎ、鋭い風切り音が空気を裂く。
氷の矢が魔物の腕を貫いた。
霜が一瞬で広がり、肉を凍らせる音が遅れて届く。
化け物が甲高い悲鳴を上げてのけぞった。
彰は反射的に顔を庇い、そのまま矢の飛んできた方へ顔を上げる。
「……っあ……」
声が漏れた。
呼吸だけが荒く波打っている。
白く濁った粉塵の奥で、天井の影がゆっくり揺れた。
次の瞬間、そこから三つの人影が浮かび上がる。
黒いロングコートが音もなく舞い降りた。
裾がひるがえり、着地と同時に巻き起こった風圧が、それまで遺跡を満たしていた熱と埃を一気に薙ぎ払う。
さっきまで耳を塞いでいた轟音が、不意に薄れた。
冷たい石の匂いだけが、やけに近く残った。
彰の足先が、無意識にそちらへ向く。
(インサイダー……?)
その姿を見た瞬間、頭の中の音が一気に遠のいた。
白髪の女性が片手を上げた。
氷の矢が十、二十と空中へ展開し、魔物の急所を瞬く間に撃ち抜いていく。
その横を銀線が走った。
細身のレイピアが閃いたと思った瞬間、魔物の群れが一拍遅れて崩れ落ちる。
さらに轟音。
屈強な大男の戦斧がゴーレムの装甲ごと床石を砕き、衝撃が広間全体を揺らした。
もう一人の女性が手を振る。
風刃、水槍、闇の弾丸が同時に空間を埋め尽くし、別方向の魔物を一斉に撃ち抜いていく。
三人は自然に三角形を保ち、互いの死角を潰していた。
刃が振るわれるたび、血と粉塵が舞う。
足音と金属音が何度も重なり、
次の瞬間が来る前に、もう別の魔物が倒れていた。
息を吸ったまま、吐くことを忘れていた。
石床の目地へ踵を掛け、彰は瞬きを減らしたまま戦いを見続ける。
「す……すげぇ……」
声が喉で震えた。
視線が外れない。
掌の湿りをズボンで拭い、左腕をかばうように胸へ引き寄せる。
やがて――あれほどの脅威だったゴーレムも魔物も、原形を留めない瓦礫と死骸へ変わっていた。
砕けた石片が床を転がり、最後の音だけが遺跡の奥へ吸い込まれていく。
石床へ膝をつき、彰は荒い呼吸を繰り返した。
胸が上下するたび、乾いた息が喉から漏れる。
遅れて、全身へ残っていた震えが広がっていった。
そのとき、白髪の女性がゆっくり近づいてくる。
跪き、傷だらけの左腕へ白い指がそっと触れた。
視線が合った瞬間、息が詰まる。
温度のない光を宿した瞳から、どうしても目を逸らせない。
白い指がわずかに動いた。
次の瞬間、ひやりとした感触が皮膚を包む。
水面みたいに揺れる淡い青白い光が傷口へ流れ込み、裂けていた皮膚が一瞬で閉じていった。
焼けるような痛みも、最初から存在しなかったみたいに消えていく。
彰は指を握り、開いて確かめた。
「……もう、大丈夫だ」
声が届いた瞬間、左腕を抱えていた指がゆっくり開いた。
触れられていた左腕へ、まだ感覚だけが残っていた。
霞む視界を押し上げると、透き通る白髪と淡い青のメッシュ、その奥に凛とした美しい面差しが浮かぶ。
焔さんの授業で見た記録映像が脳裏をよぎった。
かつて“英雄”と呼ばれ、今は“裏切り者”として語られる存在。
――神楽月 吹雪。
(……アウトサイダー……? なんで……)
「あなたが……」
喉の奥で音が途切れる。
吹雪は返事の代わりに、ただ一度だけ静かにまぶたを伏せた。
そのまま仲間と共に闇へ溶け、ブーツの踵が石を軽く鳴らす。
風だけが、その後を追っていった。
足音が徐々に遠ざかっていく。
広間へ残るのは、石の冷たさと血の匂い、滴る水音だけだった。
彰は左腕へそっと触れる。
冷たい空気の中で、そこだけに微かな感覚が残っていた。
焔さんの授業で聞いた言葉が、遅れて意識の奥をよぎる。
(――“危険な存在”)
その言葉だけが、目の前の光景と重ならない。
膝が崩れ、石の床へ体重が預けられた。
落ちていく視界の中で、音だけがゆっくり遠ざかっていく。
最後まで残っていたのは――左腕へ残った、消えきらない感覚だった。
意識が、ゆっくり底へ沈んでいった。




