第5話:夏祭りの余韻
――朝/龍胆家・道場
夏休みが始まってから、日々は思ったより早く過ぎていった。
道場に残る木刀の風切り音と、外から届く街のざわめきが、同じ夏の中で重なっている。
いつの間にか、夏休みの終わりが近づいていた。
朝も夜も、道場に立つ時間だけが長く伸びていく。
学校の魔法訓練所が解放されている日は、必ず自主練へ通った。
風属性の魔法も一つだけ、まだ完璧じゃないが、前よりは安定して扱えるようになってきている。
けれど、一番時間を使っていたのは剣だった。
授業で学んだユニオン・ブレードの型と、幼い頃から身体へ染みついた心体育成流。
踏み込みと呼吸を重ねるたび、少しずつ形になり始めている感覚はある。
だが、まだ完全には噛み合わない。
木刀の柄へ親指を重ね、間を整える。
(……前よりは、進めてるはずだ)
足裏へ返る畳の感触が、前より少しだけはっきりしている。
重心が、ひと呼吸ぶん深く落ちた。
朝は夜明け前から道場へ入り、夜は月が高く昇るまで木刀を振り続けた。
足裏で畳の目を拾い、一閃ごとに体が軋む。
掌へ残る熱が消えないまま握り直し、同じ軌道を何度もなぞった。
指の皮が裂ければテープを巻き直し、そのまままた振る。
気づけば、障子へ差し込む光の色が少し変わっていた。
汗を拭い、木刀を壁へ立てかけたところで――
机の端へ置いていたスマートフォンが、軽く震えた。
四角い光が畳へ落ちる。
彰の手が止まった。
送り主は、陽菜だった。
画面を持つ動きが、わずかに遅れる。
【陽菜】:アキ、凱君と話してたんだけど、今週末の夏祭り、今年も三人で行かない?
画面の下で、花火とお面のスタンプが弾む。
親指が止まり、そのまま、口元がほどけた。
小さい頃から、毎年三人で行くのが当たり前だった夏祭り。
その景色が、先に浮かぶ。
【彰】:<もちろん、行く!>
画面を見たまま、指先で送信する。
短い振動が掌をくすぐり、二人の笑顔が浮かんだ。
【凱】:じゃ、神社の入り口な!
【陽菜】:了解!
【彰】:おっけー>
彰は小さく息を吐き、もう一度木刀を握り直した。
◇
――夕方/神社・参道
そして夏祭り当日。
神社の大きな鳥居の下。
朱色の柱が夕暮れへ沈み、祭囃子が遠くで鳴っていた。
提灯の赤い光が道へ揺れ、綿菓子の甘さと焼きトウモロコシの香ばしさが混じる。
人混みの熱気が首筋へ触れた。
「よお、アキ! 待たせたな!」
凱が片手を高く上げ、もう片方でうちわをぱたぱたと揺らす。
「ご、ごめん! 待った?」
小走りの影が止まり、肩で息を整えながら髪を軽く払った。
その姿を見た瞬間、祭囃子が少し遠くなる。
耳の奥で、自分の呼吸だけが妙に近かった。
淡いピンクの花柄の浴衣が揺れ、歩くたび布がさらりと擦れる。
結い上げた髪から、白いうなじが覗いていた。
視線がそこで止まる。
「似合ってる、よ」
陽菜が恥ずかしそうに笑った。
帯の結び目へそっと触れ、草履の鼻緒を小さく直す。
(……可愛い)
そう思った瞬間、言葉が止まった。
浴衣の裾が擦れる音だけが、妙に近く聞こえる。
口の中が乾く。
視線が帯の柄へ引かれかけ、そのまま慌てて顔を上げた。
結局、出てきたのは「似合ってる」だけだった。
幼馴染――いや、一人の「女の子」。
彰は耳の後ろをかき、苦笑いでごまかす。
陽菜も、その視線へ気づいていた。
顔が熱を帯び、浴衣の袖をそっと握る。
(……変だな。……今日は、なんだか違う)
浅く息を整え、微笑みを結び直した。
その直後――
「おーい! 二人とも置いてくぞー!」
凱の声が飛ぶ。
振り返ると、凱が屋台通りの奥で大きく手を振っていた。
「早く来いよ! 人やばいぞ!」
彰と陽菜は顔を見合わせ、慌てたみたいに視線を逸らした。
そのまま二人で、凱の方へ小走りで向かう。
参道を歩き、屋台を回る。
紙風船が弾み、氷を砕く音と鈴の音が人混みのざわめきへ混ざっていた。
提灯の光が揺れるたび、人の流れもゆっくり波打つ。
凱は金魚すくいの柄杓をくるっと回し、彰は値札を覗き、陽菜は小銭入れを両手で抱えている。
「射的、いく?」
「当ててこい、アキ」
「う、うん。見てろよ」
――かすりもしない。
「潔い外しっぷり!」
「むしろ才能だろ、それ」
二人の笑いに、彰は肩をすくめた。
もう一度だけ照準を合わせるふりをして、そのまま銃を置く。
陽菜が風でほどけた帯の端を指で直した。
結び目を押さえる手が少し揺れ、そのまま彰と目が合う。
目が合うたび、間が半拍だけ遅れる。
彰はごまかすように掌をこすり、視線を屋台の提灯へ逃がした。
「リンゴ飴、食べたい?」
凱は屋台の方へ一歩それ、包み紙ごと棒を差し出す。
屋台の赤い提灯が、風に揺れて小さく鳴った。
「わ、ありがとう!」
唇へ赤が残り、陽菜は思わず目を細める。
その笑顔が、視界の隅に残った。
呼吸が少し浅くなる。
彰はごまかすように、提灯の揺れる光を目で追った。
そのまま参道を抜けていくと、境内広場の方から大きな歓声が重なってくる。
「なんだ?」
凱が足を止めた。
広場には、大型モニターの前へ人だかりができていた。
映し出されているのは――人気配信者ROPIのWanTube生配信。
「きゃー! 本物のROPI!」
「ワンスタ、トレンド一位来た!」
画面のROPIが光を弾かせ、歌声に合わせて夜空へきらめきが走る。
掲げられたスマホと揺れる肩が、歓声の波へ混ざっていた。
屋台のざわめきへ歓声が重なり、そのまま境内いっぱいへ広がっていく。
「すげぇな……インサイダーでもないのに、あんなに人を盛り上げるんだな」
凱が見上げ、胸元のうちわを止めた。
「うん……夢を見せるって、こういうことなんだね」
陽菜が指先でリズムを取りながら目を細める。
人混みの熱気を抜けるように、三人はそのまま境内の奥へ歩き出した。
提灯の光が少しずつ遠ざかり、ざわめきも背中側へ流れていく。
「こっち、空いてる」
凱が先に高台を見つける。
「座ろう」
「うん」
人の流れを外れた高台へ腰を下ろした。
遠くの屋台の灯りが、木立の隙間でちらちら揺れている。
砂利が小さく転がり、浴衣の裾を整える音が重なった。
ヒュルルル……。
最初の火が上がり、夜空へ大輪が咲く。
「「「わぁ……!」」」
三人の声が同時にこぼれた。
火薬の匂いと微かな煙が、夜へ薄く残る。
「……なあ。来年も、また来ような。三人で!」
凱が横顔のまま言った。
「ああ、もちろん!」
「うん! 絶対だよ!」
小指を伸ばしかけ、照れくさくなって笑い合う。
代わりに拳を軽く合わせた。
「――ちょっと待て」
凱がスマートフォンを取り出し、腕を伸ばす。
「今の、いいだろ。三人で撮っとこうぜ」
肩を引き寄せられ、陽菜が小さく息をのんだ。
カシャ。
花火の光が弾けた瞬間、三人の顔が一枚へ収まる。
肩が離れる。
そのまま、視線だけが少し残った。
――そのとき、彰はふと気づく。
花火の光がほどけ、三人の肩を一瞬だけ照らした。
凱は花火ではなく、光に照らされた陽菜の横顔を見ていた。
さっきの花火の音が、腹の底で遅れて響いた。
呼吸が浅くなる。
足がわずかに止まったまま戻らない。
もう、誤魔化せなかった。
(――陽菜が好きだ)
喉の奥が熱くなる。
(……そっか。お前も、そうなんだな……)
握った拳の中で、爪が掌へ浅く食い込んだ。
深く息を吸い込み、夜風と一緒に吐き出した。
最後の花火が夜空へほどけ、境内に残っていた歓声も少しずつ遠ざかっていく。
「……そろそろ帰るか」
凱が立ち上がり、浴衣の裾へついた砂を払った。
「うん」
陽菜も小さく頷き、三人はそのまま高台を下りていく。
花火が終わった参道には、帰る人の流れがゆっくり伸びていた。
さっきまでの笑い声がまだ少し残ったまま、行きとは違う、どこかぎこちない沈黙が続いている。
「……楽しかったな」
「うん」
「また行こう」
短い言葉を交わしながら、三人は並んで歩く。
提灯の明かりが少しずつ背中側へ遠ざかっていく。
石畳へ響く足音だけが、静かな参道へ残っていた。
(逃げない。全部から)
三人の影が並ぶ。
距離は変わらないのに、足音だけがさっきより少し近く聞こえた。
◇
――深夜/龍胆家・自室
彰は自室で木刀を握っていた。
明かりを少し落とし、窓から入る夜気をゆっくり吸い込む。
すり足で間を詰め、構えを止めた。
畳を踏む音だけが静かな部屋へ残る。
窓の外では、遠くの屋台を片付ける金属音がかすかに響いていた。
陽菜のことが頭へ残る。
そこへ、花火を見ていた凱の横顔が重なった。
さっきまでの笑い声が、夜気の中で妙に遠く聞こえる。
指先へ力が入り、柄の木目を握り直した。
(……負けられない)
祭りの夜が、まだ抜けきらない。
短く息を吐き、もう一度だけ木刀を振り抜く。
机の上のスマートフォンが短く震えた。
暗がりへ、小さな灯が浮かぶ。
<夏季特別課外授業・参加者一覧>
養成学校・中等部の全員が参加する、恒例の特別課外授業。
名簿にはクラスごとに班分けされた名前が並んでいる。
――その瞬間、指が止まった。
彰・凱・陽菜の三人は、同じ班へ名前を連ねていた。
「……一緒か」
息が深く落ち、背筋が自然と伸びる。
拳へ力がこもった。
(……ちゃんと、前に進まないと)
木刀を握る手へ、わずかに力が入る。
窓の外では、祭り帰りのざわめきがまだ遠く残っていた。




