第1話:春の鼓動、始まりの足音
――前日・夕暮れ/龍胆家・裏庭
薄い茜色の空の下、立てかけた木刀の影が、地面を長くなぞっていく。
足元の砂利がかすかに鳴り、夕風が道着の裾を揺らした。
掌のマメが疼いたが、それすら“今日までの証”に思えた。
指先に残るざらりとした感触が、まだ消えていない。
――『鍛え続けろ。君はきっと、いいインサイダーになる』
――『君は立派なヒーローだ』
思い返した瞬間、呼吸が胸で止まった。
遠くで犬の鳴き声がひとつ上がり、あとには夕暮れだけが残る。
(……応えたい。弱くても、未熟でも)
明日から始まる日々を思い、空に滲む光を、目で追い続けた。
雲の端がゆっくりと形を変え、色が濃くなる。
(明日――入学式だ)
息を吐き、家の灯りへ歩き出す。
玄関の灯りが石畳を淡く照らし、影が足元へ戻ってきた。
◇
――入学式当日の朝。
階段を上がってくる誠の足音が、廊下へはっきり響いていた。
寝室の扉が開く。
「彰。起きろ。初日から遅刻するなよ」
いつも通り低い声。
けれど、その奥にはどこか落ち着かない気配が混じっている。
「……うん、起きてる」
彰はすぐ身体を起こした。
布団を払う手が止まらない。
緊張より先に、“ついに始まる”という高揚感の方が強かった。
「ありがとう、父さん」
布団から手を伸ばすと、誠が一瞬だけ視線を伏せた。
それから短くうなずいて、扉の外へと戻っていく。
(……父さんでも、こういう日は緊張するんだな)
ようやく体を起こし、顔をこすりながら階段を下りる。
その途中――温かい匂いがふわりと鼻をくすぐった。
……とんかつ? 朝なのに?
「おはよう、彰」
美咲が振り返る。
エプロンの胸元を押さえたまま、どこか落ち着かない手がひとつ揺れた。
その隣で、誠が腕を組んで立っていた。
耳の端が赤い。
「今日は……父さんが作ったのよ? 朝早く起きてね」
湯気が横切り、目の前が白く切れる。
その奥で、保温プレートの魔導紋が淡く明滅していた。
「…………え?」
台所のテーブルには、湯気をたっぷりまとったとんかつ。
味噌汁の香りと一緒に立ちのぼる湯気が、朝の光の中できらきら揺れている。
「初日だからな」
誠は咳払いして、視線を壁の方へ流した。
「……気合い入れとけ」
その言葉のあと、咳払いの音だけが短く残った。
湯気の匂いが鼻の奥に居座り、喉の通りが少し狭まる。
「父さん……料理できるんだ」
思わずこぼした声に、美咲が小さく笑った。
「こう見えて得意なのよ? 彰が生まれる前は、よく私にも作ってくれたの」
「そ、そういうのは言わんでいい……!」
誠の声が一段低くなり、耳まで真っ赤になる。
美咲はふわっと肩を揺らして笑った。
「たまには作ってほしいな~?」
「……わ、わかったよ……」
そのやりとりがあまりに“いつも通り”で、肩の位置が、箸を置くより先に落ちた。
箸を入れると、衣がさくっと軽く音を立てた。
甘い脂と肉の匂いが、噛むたび口の中へほどけていく。
「……うまい。ありがとう。ほんとに」
声に出した瞬間、誠が小さく頷いた。
見えた表情が、そのまま瞼の裏へ貼りつく。
食後、湯呑みを置いた誠が、ふと真顔になる。
「……焦らずにやれ。最初から飛ばすな。ケガだけは……気をつけろ」
誠は視線を外したまま、最後の言葉を、息で止めた。
美咲もそっと湯呑みのふちを指でなぞりながら、声を重ねる。
「私はね、彰に……学校を楽しんでほしいの。いろんな景色を見てほしい」
彰は思わず深く息を吸い込んだ。
やがて食事を終え、彰は箸を揃えて頭を下げた。
「……ごちそうさま。すごく美味しかった」
誠が少し照れくさそうに視線を逸らす。
「……おう」
その短い返事に、美咲がくすっと笑った。
三人で食器を片付ける。
流れる水の音と、皿の触れ合う小さな音だけが朝の台所へ残っていた。
洗面台で顔を洗い、歯を磨く。
冷たい水が頬を打ち、胸の奥へ残っていた熱を少しだけ落ち着かせた。
自室へ戻り、ハンガーへ掛けてあった制服へ袖を通す。
真新しい生地はまだ少し硬さが残っていたが、不思議と身体には馴染んでいた。
鏡の前でネクタイを整え、彰は小さく息を吐く。
「……よし」
鞄を肩へ掛け、彰は廊下へ出た。
そのまま玄関へ向かいながら、後ろへ声をかける。
「先、外で待ってるね」
靴紐を結び直そうと屈んだ瞬間、指先が少しもつれた。
(……今日なんだ。ほんとに)
玄関へ向かう足取りは、無意識に少し速くなっていた。
慌てて歩幅を戻し、彰は小さく息を吐く。
腹の奥へ残った熱が、なかなか引かない。
背中へ朝の風が触れ、肌が少しだけ引き締まった。
彰は玄関の扉へ手をかけ、そのまま外へ踏み出す。
石畳へ朝の光が落ちている。
ひんやりした空気を深く吸い込み、彰は門の前で一度だけ立ち止まった。
◇
居間には二人だけが残った。
美咲は居間の棚に飾られた、彰の祖父――巌の写真に目をやり、息を吐く。
「……本当は、行ってほしくなかったのよ。インサイダーなんて……危険なお仕事だから」
誠は黙ってうなずき、ポケットに手を入れたまま顎をわずかに引いた。
「……わかってる。危険なのは事実だ。だが――自分で選んだ道だ。信じてやろう」
「……そうね」
美咲は息を吸い、涙をこらえるように目を瞬かせる。
誠も姿勢を正し、心を整えるように深く息を吐いた。
やがて二人は視線を合わせ、
「行こうか」と誠が言う。
「ええ」と美咲が頷く。
玄関を開けると、彰が外で風に当たりながら待っていた。
誠が言う。
「待たせたな」
美咲が微笑む。
「ごめんね。行きましょ」
三人は並んで家を出た。
玄関の戸が閉じる音が、家の中で短く反響する。
朝の空気はまだ少し冷たい。
石畳を踏む足音が重なり、春の風が制服の裾を揺らしていく。
通学路には、新入生と家族の列が長く続いていた。
道端のタンポポが風に揺れ、上ではヒバリが高く鳴いている。
足元では、小さな保守用ルーンが一定の周期で淡く光を刻んでいた。
耳の長いエルフの少年や、小柄でずんぐりしたドワーフの少女も、同じ制服で肩を並べて歩いている。
種族も背丈も違う。
それでも、少し強ばった歩幅だけは、みんなよく似ていた。
――多民族国家同盟の街では、それが当たり前の日常だった。
しばらく歩いたあと、彰がふと思い出したように口を開く。
「そういえばさ、父さんと母さんって、どこで出会ったの?」
美咲が目を瞬かせ、それから楽しそうに笑った。
「あら、聞きたい?」
「いや、なんとなく気になって」
美咲は少し懐かしそうに目を細める。
「私がね、学生の頃に洋服屋さんでアルバイトしてた時――」
「お、おい、それは言わなくていい!」
誠が慌てたように割って入った。
耳がみるみる赤くなる。
「えー? いいじゃない」
「よくない!」
その反応がおかしくて、彰は思わず吹き出した。
「ははっ、父さんめっちゃ焦ってる」
誠が咳払いをして視線を逸らす。
美咲は肩を揺らして笑った。
「じゃあ続きは、また今度ね」
そんな話をしているうちに、通学路の向こうへ見慣れた姿が見えてくる。
凱と、その母の玲奈だった。
凱は胸を張って立ち、前髪を直されている。
「おーい、アキ! 早いな!」
「お前の方が早いだろ」
「ははっ、初日だしな。父さんに“遅れるなよ”って念押しされたんだ」
凱の笑顔に、焔さんの姿が重なる。
任務で今日は不在だが、その言葉はちゃんと受け継がれている気がした。
笑った顔を見た瞬間、肩に入っていた力が、吐く息と一緒に静かに抜けていった。
(……よかった。いつも通りだ)
口元だけが、遅れて緩んだ。
「凱、問題起こしちゃだめよ?」
玲奈が呆れたように言う。
「大丈夫だって! せいぜい備品壊すくらいだし!」
「こらっ!」
玲奈がすぐに頭を叩こうとして、凱が慌てて身を引いた。
肩をすくめながら靴先で砂利を軽く蹴る仕草が、どこか子どもっぽい。
その時、通学路の向こうから声が飛んでくる。
「おはようございます、みなさん!」
拓也だった。
その横では、雪がにこやかに手を振っている。
少し遅れて、陽菜も小走りで追いついてきた。
「アキ、制服似合ってるじゃん! でも緊張してる?」
彰は少し笑って肩をすくめた。
「いや、別に緊張してないよ。……陽菜の方が顔ひきつってるぞ」
「えっ!? そ、そんなことないし!」
陽菜が慌てて頬へ手を当てる。
目を左右へ泳がせるその反応がおかしくて、彰の口元が自然と緩んだ。
「まったく、お前ら相変わらずだな」
凱が口元だけで笑う。
短い笑い声が、三人の間を行き交った。
少し離れたところで、両親たちが静かに見守っている。
八人そろって、道を埋めるように歩いている。
「なあ、どんな授業があるんだろ。模擬戦とか、もうやるのかな」
凱は前を向いたまま鞄の紐を握り直す。
彰が、思わず横から口を挟んだ。
「やめろよ、怖がらせるようなこと言うな」
「でも……ちょっと楽しみだよね」
陽菜が少し歩幅を速めながら声を落とす。
彰は小さくうなずいた。
その拍子に、記憶の底が落ちる。
――あの林。
ゴブリンに立ち向かい、陽菜を守った夜。
『鍛え続けろ。君はきっと、いいインサイダーになる』
御剣さんの声が、制服の内側でまだ引っかかったままだ。
その熱だけが、腹の底で消えずに残っていた。
(……俺は、あの人みたいに、守れる人になる)
制服の胸元の校章へ、指を添える。
その感触が、誓いの印みたいに温かかった。
やがて最寄り駅へ着き、改札を抜ける。
春の風が制服の裾を揺らした。
他愛のない話をしながら歩いていた凱が、ふいに前を指差す。
「お、見えたぞ」
彰も視線を上げた。
遠く――街並みの向こう。
インサイダー養成学校の校舎が、朝の光を反射している。
「……あそこ、か」
胸の奥が、どくんと一度だけ鳴った。
学校へ向かう道には、新入生と家族たちの列が長く続いている。
同じ制服へ袖を通した子どもたちが、どこか浮き足立った声を交わしながら歩いている。
その表情には、隠しきれない緊張が滲んでいた。
その空気へ混ざった瞬間、急に実感が押し寄せた。
(……本当に始まるんだ)
吸い込んだ息が途中で止まる。
校門が近づくにつれ、その存在感が前へせり出してきた。
視界へ収まりきらず、足だけが自然と前へ出る。
止まれと言われても、止まれそうにない。
足裏へ冷たい硬さが遅れて噛み合い、浮いたような感覚を慌てて踏み直した。
その横で、凱が不意に吹き出す。
「おい、アキ。お前もしかして緊張してる?」
陽菜もすぐに反応した。
「あー! 絶対そうじゃん!」
「ち、違うって!」
思わず返した声に、凱と陽菜が吹き出す。
その様子を見ていた玲奈たちも、小さく笑った。
張っていた空気がふっと緩み、彰もつられるように苦笑する。
向かう道の先では、巨大な校門が静かに待ち構えていた。
三人は顔を見合わせ、そのまま校門へ向かって歩き出した。
校門をくぐった瞬間、空気が変わった。
広い敷地の奥には高くそびえる訓練棟があり、遠くからは金属音と魔力駆動音の低い反響が響いている。
そのすべてが、“ここは普通の学校じゃない”と静かに告げていた。
(……ついに来た)
息を吸うたび体の奥が熱を帯び、吐けば首筋だけがひやりと冷える。
石造りの柱へ掲げられた校章が目の前へ強い存在感を押し出し、その縁を走る魔導回路がわずかに脈打っていた。
訓練棟の影は朝の地面へ長く伸び、正門の両脇では上級生たちが新入生へ声をかけている。
袖のロゴが陽を受け、眩しく光った。
「ここが……中等部か」
彰の声が小さく落ちる。
意識だけが、巨大な校門の輪郭を追っていた。
「行くぞ、アキ」
凱が顎を上げ、拳を軽く突き出す。
「うん。……行こう」
拳をコツンと合わせた瞬間、横で陽菜が小さく息を呑んだ。
「すごい……本当に始まるんだね」
目を輝かせたまま、語尾だけが少し揺れる。
「……ちょっと怖いけど、がんばる。二人がいるなら――平気、かな」
凱が笑って首だけをすくめた。
「おう、すぐ慣れるさ」
陽菜はこくりとうなずき、小さく笑う。
春の風が三人の制服を揺らし、その笑顔を朝の光がやわらかく照らしていた。
(ここが……インサイダー養成学校、中等部)
足裏へ重みが落ち、視界の輪郭がわずかに揺れる。
(――必ず強くなる)
視線の先で、訓練棟の窓ガラスが春の光を力強く跳ね返していた。




