第18話:春の風、分かたれる道
――冬の終わり/某市
商店街には「新入学準備」の張り紙が揺れ、文房具屋の店先には新品の筆箱やノートが並んでいた。
焼きたてのパンの香りが風に混ざり、通りの向こうでは親子連れが学用品を選びながら言葉を交わしている。
町に混じり始めた春の気配は、小学校にも届いていた。
教室では、卒業と進学の話題が増えている。
窓際の席から、彰は葉を落とした桜の枝を眺めていた。
先端のつぼみだけが、うっすら色づき始めている。
(もうすぐ春だな)
彰の視線は、色づき始めたつぼみからしばらく離れなかった。
◇
――同日・昼休み/小学校・教室
いつものように机を囲む。
凱が鉛筆をくるくる回しながら、何気ない口調で言った。
「俺さ、中等部はインサイダー養成学校に行くから」
「だよな。焔さんの息子だし、当然だろ」
「絶対エリートじゃん」
その声へ、別の男子がすぐ笑った。
「彰もだろ? テレビ出てたし」
「うん、もう決まってるみたいなもんじゃね?」
「だよな!」
彰は少し肩をすくめる。
「俺も行くよ。インサイダー養成学校」
その言葉へ、凱がすぐ口角を上げた。
「だよな」
周りも一斉にうなずく。
誰も驚かない。
それが当たり前みたいに、話題はそのまま流れかけた。
凱は肩をすくめ、窓の外へ視線を投げる。
その直後だった。
「……私も、行くことになった」
静かな声が重なる。
陽菜だった。
「えっ!? 陽菜ちゃんも!?」
「すげえ……まさか」
教室のざわめきが、ぴたりと止まる。
彰を含め、みんなが目を丸くして陽菜を見た。
少し後ろでは、石崎まで驚いたように目を見開いている。
「……すごいじゃん、虹咲さん」
声は明るい。
けれど最後だけ、ほんの少し力が抜けていた。
「……そっか」
陽菜は両手を膝の上で重ね、そのまま目を伏せる。
「えっ……ほんとに?」
彰の体が、少しだけ机のほうへ傾いた。
陽菜は小さく頷く。
「うん……自分でもびっくり。でも――私もインサイダーになりたいの」
声は少し揺れていた。
それでも、途中で目を逸らさない。
「……あの日のこと、ずっとこわかったの。思い出すと、お腹のあたりがぎゅってなるくらい。でも、このままずっと逃げてたら……弱いままなんだって思ったの」
一度だけ言葉が止まる。
陽菜は浅く息を吐いた。
「あのとき守ってもらったから……今度は、私も誰か守れるようになりたいなって」
教室が静かなまま、その声を聞いている。
「……養成学校って、別にみんな戦う人になるわけじゃないんだって。魔法とか、色々勉強できるみたいだし」
陽菜は少しだけ肩をすくめた。
「もしインサイダーになれなかったとしても、誰かの役には立てると思うから」
「へぇ、そうなんだ」
彰が少し目を丸くする。
「じゃあ、回復とかもやるのか?」
「……できたら、いいな」
陽菜は少し照れくさそうに笑った。
「おいおい!」
凱が苦笑しながら肘で彰の肩を軽くつつく。
「体力ないのに、ついていけるのか?」
「やばいかも……」
陽菜は頬をかき、困ったように笑う。
「じゃあさ、三人で春休み、ちょっと運動しようぜ」
凱が口角を上げた。
「お、いいな。河原走り込みとかどうだ」
「あ、じゃあ! 最近お菓子作りの練習してるから、作って持ってくね!」
その笑顔に、教室の空気が少しだけ明るくなる。
「……陽菜のお菓子、ほんとに大丈夫か?」
彰が半分冗談めかして言うと、凱がすぐ吹き出した。
「それな!」
「むっ、馬鹿にして! みてなさいよ!」
陽菜は頬をふくらませる。
けれど、その目は楽しそうに笑っていた。
まだ寒さの残る昼下がり。
窓際の机へ、陽が少しだけ伸びていた。
◇
――学校帰り・夕方/商店街通り
三人は並んだまま、商店街を歩いていた。
洋品店のショーウィンドウには真新しい鞄が並び、ガラス越しの春の光が淡く反射している。
紙袋の擦れる音が、人の流れへゆっくり混ざっていた。
「御剣さんが亡くなってから、まだ何か月も経ってないんだよな」
通りすがりの年配の男が、声を落として言う。
隣の主婦は一度だけ小さくうなずいた。
「……うちの子も養成学校に行くの。……でも、やっぱり怖いわ」
その声へ、また別の言葉が重なる。
「また行方不明、出たんだってさ……」
「学校の研修だったんでしょ? うちのは行かせられないよ……」
「……これ、本当に“事故”なの?」
言葉だけが、通りの陰へ残っていく。
春風が、三人の背中を冷たく撫でた。
凱が少しだけ視線を落とす。
陽菜もランドセルの肩紐を握り直し、そのまま俯いた。
(……最強の御剣さんでさえ死んだ。……じゃあ、俺たちは)
彰はポケットの中で拳を握り、親指の爪を人差し指へ深く食い込ませた。
三人の足音だけが、アスファルトへ一定のリズムを刻んでいた。
まだ浅い春の気配に混じって、街のざわめきが背中を押してくる。
気づけば、夕陽が町全体を赤く染めていた。
彰は無意識に、ランドセルの肩紐へ手をかける。
掌ににじんだ汗が布地へ染み込み、鼻の奥へ林の匂いが戻った。
「……少しでも強くなる」
小さく漏れた声だった。
その隣で、凱も前を向いたまま口を開く。
「……俺も」
陽菜だけは何も言わない。
けれど、二人の言葉を聞いたあと、小さくランドセルの肩紐を握り直した。
あの日の光景が、夕陽の中へ薄く重なった。
足の裏には、まだ土の感触が残っていた。
その先の景色だけが、まだうまく見えなかった。
◇
――そして三月・昼過ぎ/小学校・校門前
卒業式は、もう終わっていた。
やわらかな光が校門の上をすべっていく。
校門の向こうでは、保護者たちが言葉を交わしながら子どもたちを迎えていた。
履き慣れた靴が、いつもより少しだけ重く感じられる。
「終わったな」
凱がぽつりとつぶやく。
いつもより、少しだけ声が低かった。
「うん……終わっちゃったね」
陽菜が小さく笑う。
けれど、その声には少しだけ寂しさが混じっていた。
「帰って、ちょっと体動かそうぜ」
凱が肩を回し、そのまま歩き出す。
「いいな、それ」
彰もすぐ後ろへ続いた。
「あ、じゃあ私も!」
陽菜がぱっと顔を上げ、慌てて追いかける。
そのときだった。
「おーい!」
後ろから声が飛ぶ。
振り返ると、石崎たちが校門のほうから駆けてきていた。
「お前ら、もう帰んの?」
石崎が少し息を切らしながら笑う。
その後ろでは、いつもの男子たちもランドセルを揺らしていた。
「いやー、卒業かー」
「なんかマジで終わった感じするな」
男子の一人が頭をかく。
石崎はその横で、少しだけ視線を逸らした。
「……でもさ、ほんとに行くんだな。インサイダー養成学校」
彰と凱が小さく頷く。
陽菜も少し遅れて「うん」と返した。
「すげーよなぁ」
「オレ絶対無理だわ。親に止められるし」
「うちも」
後ろの男子たちが苦笑する。
石崎はそんな声を聞きながら、小さく鼻を鳴らした。
「……でも、応援してる」
少し照れくさそうに頭をかく。
「活躍したら、ちゃんとニュース出ろよな」
凱がすぐ笑った。
「当たり前だろ!」
「調子に乗りすぎ」
彰が思わず吹き出す。
その空気に、陽菜も小さく笑った。
「じゃ、またな!」
「また遊ぼうぜ!」
石崎たちは軽く手を上げ、そのまま別の帰り道へ駆けていく。
ランドセルが夕陽へ揺れ、笑い声だけが少し遅れて残った。
そのあと、三人はまた並んで歩き出す。
校門を少し離れたところで、凱がふと足を止めた。
「なあ」
彰と陽菜も振り返る。
凱は少し照れくさそうに鼻の頭をかき、それから右手を差し出した。
「中等部でもさ。なんかあったら、三人でちゃんと話そうぜ」
「……うん」
陽菜が小さく頷く。
彰も言葉にできない空白を押さえるみたいに、拳を作った。
「約束だな」
三人の拳が、軽く触れ合う。
一度。
そして、もう一度。
乾いた小さな音が、春の空気に落ちた。
昔からの遊びみたいな合図。
けれど今日は、それが少しだけ違って聞こえた。
痛いほどじゃない。
それでも、忘れないための印みたいに、拳へ小さく残る。
「よし。帰ろうぜ」
凱が笑って歩き出す。
彰と陽菜も、その横へ並んだ。
三人の影が、ゆっくり校門から離れていく。
(次は、中等部か)
歩き出した足元に、不安とも期待ともつかない重さが残っていた。
校門を離れる足音へ重なるみたいに、御剣の名が頭の奥をよぎる。
――あの背中も、倒れた。
春の光の中でも、その記憶だけはまだ薄れない。
桜の枝先では、硬いつぼみが風へ小さく揺れていた。
まだ咲かない。
けれど、確かに春は近づいている。
(……これから、どうなるんだろう)
ざわめきは、ゆっくり風へ溶けていく。
『世界滅亡まで、あと21年57日05時間51分23秒』
ここから先の一歩一歩が、自分の未来を決める――そんな予感が、足の裏に重みを残す。
それは、これから訪れる日々の、ただの“予兆”にすぎなかった。




