第17話:沈黙の街に響く報せ
――ニュースから、数日後。
行方不明となった四人の生徒はいまだ見つからない。
町は、表向きだけなら普段通りに回っていた。
それでも、その「普段」にはどこか色がない。
インサイダー養成学校を目指す子どもや、その家族の間には、少しずつ不安が広がっていた。
「次はうちの子が……」
「学校の研修って、本当に安全なのか」
そんな声が、周囲を気にするように小さく交わされる。
いつもならインサイダーの話題で盛り上がっていた連中も、今は言葉を選びながら話していた。
子どもたちの目にも、憧れだけじゃない色が混じり始めている。
――そして彰もまた、
そのざわめきを胸のどこかへ引っかけたまま、日々を過ごしていた。
◇
数日後の土曜日。
彰は美咲に頼まれた買い物袋を提げ、商店街を歩いていた。
夕飯用の野菜と豆腐。袋の中では、氷の入った魚用パックが小さく音を立てている。
それでも、町の空気はどこか重かった。
通りを行き交う人の足取りは鈍く、湿った夏の空気が肌へまとわりつく。
誰もが口を閉ざし、乾いた靴音だけがアスファルトへ淡々と残っていた。
商店街の風鈴が揺れる。
けれど、その音色もどこか沈んで聞こえた。
いつもなら店先から飛んでくる呼び込みの声も、今日は控えめだった。
彰は買い物袋を持ち直す。
ビニールの取っ手が指へ食い込み、汗ばんだ掌へじっとり貼りついた。
息を吸うたび、肺の奥へ熱が溜まっていく。
そのとき。
雑貨屋の店先へ置かれた古いテレビが、低くこもった声を流した。
『……Sランクインサイダー、御剣 宗司氏が殉職しました』
「……え……?」
耳に飛び込んだ言葉を、頭が理解するより先に、周囲の音がすっと遠のいた。
靴音も、人の声も膜の向こうへ押し出され、買い物袋を握る手から急速に温度が抜けていく。
画面には、灰色の雲と立ちのぼる煙に覆われた都市の空が映っている。
その下で、協会職員たちが慌ただしく動き回っていた。
(御剣……さん……?)
その名前を、忘れたことはなかった。
耳の奥で、あの日もらった言葉だけがぼんやり浮かぶ。
けれど次の瞬間、その灯が風に吹かれるみたいに揺れた。
彰は気づけば駆け出していた。
買い物袋が脚へぶつかり、中の野菜が揺れる。
息がうまく整わないまま、商店街を抜ける。
遠くのクラクションも、信号機の電子音も、耳を素通りしていった。
角を曲がって住宅街へ入っても、汗が頬を流れ、喉が焼ける感覚だけが残る。
それでも足だけは止まらない。
(嘘だ……)
頭の中で、その言葉だけが何度も反響していた。
家に戻ると、居間のテレビでも同じニュースが流れていた。
明滅する画面の向こう、曇った空の下で協会の輸送車両が煙の中へ並んでいる。
幹部たちは深く頭を下げたまま、顔を上げない。
彰はリモコンを膝に落とし、視線を画面から外せずにいた。
汗ばんだ掌が、太ももへじっとり貼りつく。
映像が切り替わる。
炎に包まれた廃墟の中、白銀の剣士がただ一人進んでいた。
御剣 宗司。
残光を引く太刀筋が、滑らかにモンスターを切り裂いていく。
刃が振るわれるたび火花と黒い血しぶきが舞い、焦げた匂いまで画面越しに迫ってくるようだった。
「……御剣さん……」
息が乱れる。
膝の上の手が震え、触れている感覚がじわじわ冷えていく。
彼は振り返った。
仲間へ笑みを向け、手で「任せろ」と示す。
炎の轟音が重なる。
『退け! 俺が抑える!』
仲間を逃がすため、群れの前に一人で立ちはだかる。
それは、自分が夢に見た“背中”そのものの御剣さんだった。
「……うそ、だろ……」
自分の声が、遅れて耳へ返ってくる。
膝の上で手を強く握り込み、爪が食い込んだ。
肩が震え、息の流れが乱れる。
(……あの人は、もう……)
目の奥が焼けるように熱い。
あの日もらった表彰状。
御剣さんのサイン。
浮かぶたび、膝の上の拳が静かに固まった。
『御剣氏は仲間を退避させるため最後尾に残り、殿を務めました。その後、消息を絶ち……救援部隊が到着した時には、すでに――』
アナウンサーの声だけが、切れ目なく続いていく。
部屋の時計が、ひとつだけ乾いた音を刻んだ。
最強と呼ばれた人でも、ここで終わる。
その“最期”は、確かに誰かを守るためのものだった。
指の節が白く浮かぶ。
握った拳の中では、冷たい悲しみと一緒に、小さな熱だけが消えずに残っていた。
(……最後まで、あの人らしかった)
一度、喉で息が引っかかる。
アナウンサーが一度だけ資料へ目を落とし、そのまま続けた。
『なお、今回の討伐成功により、滅亡時計の残存時間は百二十日増加。協会は、御剣氏の功績がクエスト達成へ大きく貢献したと発表しています』
「……クエスト?」
彰は思わず眉を寄せる。
滅亡時計が増える。
クエスト達成。
意味の分からない単語だけが、耳の奥へ引っかかった。
その瞬間、画面の下に新しいテロップが点滅した。
『現場では“アウトサイダー”による妨害があった可能性が高いとのことです』
赤い帯の文字が、目の奥へ焼きつく。
誠はテレビを見つめたまま、食卓の縁を指で強くこすった。
木目が低く鳴る。
顎がわずかに上がり、奥歯を噛みしめているのが分かった。
美咲も唇を固く結んだまま、視線だけが落ち着かない。
膝の上で組んだ手が、小さく震えていた。
「……やはり、あいつらの仕業か」
誠は一度目を閉じ、長く息を吐き出す。
それから静かに視線を落とし、食卓へ置いた拳をじっと見つめていた。
怒鳴るわけでもない。
けれど、その沈黙の重さだけが部屋へ残っていく。
美咲は無言で立ち上がり、彰たちの空になった湯呑を手に取った。
「……お茶、淹れ直すわね」
声の調子は崩れていない。
それでも、キッチンへ向かう背中は、いつもより少し小さく見えた。
ニュースは街頭インタビューへ切り替わる。
『あんな連中、全員捕まえろ!』
『人類の敵だ!』
マイクへ向かって叫ぶ人々の顔には、恐怖と怒りが入り混じっていた。
アウトサイダー。
その名前だけが、画面の下で何度も繰り返されていた。
(……本当にあいつらのせいなら、俺は絶対に許さない)
彰は膝の上で握りしめていた手をゆっくりほどき、一度深く息を吐いた。
◇
その翌日日曜日。
町の中心、市役所の前に“献花台”が設置された。
協会の許可を得て、市役所が用意した一般献花台。
白いテントの下、長机には白い布がかけられ、中央には御剣さんの写真が置かれている。
その周りには、白や青、淡い黄色の花束が静かに積み重なっていた。
「ここ、ニュースで言ってた場所だ……」
彰は小さな花束を抱えたまま、誠と美咲の隣で列へ並ぶ。
前に並ぶ人たちも、ほとんど声を出さない。
足音と衣擦れだけが、ゆっくり列の中を流れていた。
市役所のガラスへ映る空は薄い灰色だった。
夏の日差しのはずなのに、どこか冷たく見える。
誠は何も言わず、献花台を見つめていた。
その横で、美咲は花束の包装紙をそっと押さえている。
風が吹くたび、白いテントの布がかすかに揺れた。
(御剣さん……)
手の中の花束だけが重く、呼吸の間がうまく定まらない。
順番が近づくにつれ、花の香りが濃くなる。
やがて彰の番が来る。
机の前へ進み出た瞬間、遺影の下へ小さく記された名前が目に入った。
『御剣 宗司』
(……本当に、いないんだ)
包み紙が、かすかに鳴る。
花束を置こうとした、その瞬間――
記憶が浮かび上がる。
視界の色だけが、少し薄くなっていった。
(……御剣さん)
協会の長い廊下。
革靴の音や大人たちの声が、遠くで反響しているみたいに聞こえる。
――『御剣さん、ちょうどよかった。先日の少年です。“未来の後輩”ですよ』
その声がした瞬間だけ、世界の音が急に近づいた。
振り返った御剣さんが、彰の前で静かに屈む。
近距離で感じた防護スーツの匂い。
金属と革、それに少し焦げたような匂いが混じっていた。
――『君が、龍胆彰。勇敢だったな』
震えながら差し出した色紙へ、ペン先が静かに走る。
『勇気を忘れるな』
肩へ置かれた手は軽い。
それでも、その重みだけが妙に残っていた。
――『鍛え続けろ。君はきっと、いいインサイダーになる』
御剣さんは仲間へ軽く頷き、そのまま廊下の奥へ歩いていく。
交差する足音の中、その背中だけがまっすぐ前を向いていた。
(俺も、いつか――)
献花台の前で、彰はゆっくり目を開ける。
夏の空気は熱いのに、花束を置く指先だけが少し冷たい。
目を閉じ、深く息を吸った。
花の香りと夏の空気が、ゆっくり鼻先を抜けていく。
(……だったら俺も、ここで止まってちゃいけない)
拳を握る。
もう、震えてはいなかった。
(いつか胸を張って、“あの人の後輩だ”って言う)
彰はそっと頭を下げ、献花台を離れた。
◇
翌日月曜日。
教室は、いつもよりざわついていた。
机の間を飛び交う話題は、御剣さん一色だった。
「Sランクでも死ぬんだな……」
「めちゃくちゃ強かったのに」
「アウトサイダー、ほんと最悪!」
ふざけた調子の声が混じり、そのあとへ曖昧な笑いが重なる。
教室の空気だけが、落ち着かないまま漂っていた。
彰は黙って鉛筆を握る。
芯が紙へ食い込み、カリ、と乾いた音が鳴った。
消しゴムを握る指先へ力が入りすぎて、端がぽろりと欠ける。
窓際では陽菜も、今日はほとんど笑わない。
凱だけはいつもの調子を崩さないようにしていたが、会話の間だけが妙にぎこちなかった。
休み時間になっても、三人とも御剣さんの話だけは避けていた。
話しかけようとして、やめる。
そんな空気が、一日中ずっと続いている。
(御剣さんみたいに、強くならなきゃ)
ノートの端へ書いた字が、視界の隅で少し滲んだ。
やがて放課後のチャイムが鳴る。
椅子を引く音や鞄を閉じる音が重なり、それでも教室は、いつもの放課後より静かだった。
三人は並んだまま校門を出る。
誰も、すぐには口を開かなかった。
靴音だけが、夕暮れの住宅街へ小さく続いていく。
凱が何度か口を開きかけ、そのたび飲み込む。
陽菜もランドセルの肩紐を握ったまま、ずっと俯いていた。
やがて、ためらうように小さく口を開いた。
「……ねえ、アキ。御剣さんのこと……知ってる?」
陽菜が小さく口を開く。
「うん……」
返事をしようとすると、顎が強ばり、声だけが少し遅れた。
その横を歩く凱も、今日は珍しく黙ったままだった。
ランドセルの肩紐を握る手へ、いつもより強く力が入っている。
しばらくして、凱が前を向いたまま小さく呟いた。
「……俺さ、あの人みたいなのが“本物のヒーロー”なんだと思ってた」
夕焼けが、横顔を赤く染める。
「強くて、絶対負けなくて……なんか、そういうの」
笑おうとした口元が、途中で少しだけ歪んだ。
陽菜の目は赤く、まぶたの端が少し腫れている。
ランドセルの紐を握る指先が、力を込めるたび小さく震えていた。
自分だって泣きたい。
でも、ここで涙を見せたら、全部が崩れそうで――彰は靴先でアスファルトを軽く蹴り、そのまま俯く。
「……俺、もっと強くなる」
夕日に伸びた自分の影を、じっと見つめた。
凱がその言葉へ、小さく息を吐く。
「……だな。俺も」
三人の歩幅だけが、静かな住宅街へ揃っていく。
電柱の影が、三人の足元へ長く伸びていた。
夏の匂いが火照った空気へ溶け、空は橙から群青へ変わり始めている。
(御剣さんみたいに――誰かを守れるようになる。絶対守る)
その想いだけが、夕暮れの道へ静かに残った。
やがて、獅子堂家が見えてくる。
「じゃ、また明日な」
凱はそう言って軽く手を上げた。
「おう」
「またね」
陽菜も小さく笑う。
凱は背を向け、そのまま玄関へ駆けていった。
門が閉まる音だけが、夕暮れへ小さく残る。
そのあと、二人はまた並んで歩き出した。
やがて、陽菜の家が見えてくる。
門灯の明かりが、二人の足元を薄く照らしていた。
「……じゃあ、また明日ね」
陽菜が立ち止まり、小さく笑う。
「うん。またな」
彰も軽く手を上げ返した。
陽菜は何度か振り返りながら玄関へ向かい、そのまま扉の向こうへ消えていく。
その姿が見えなくなったあと、彰は一人で家への道を歩き出した。
夕暮れの住宅街は静かだった。
そのときだった。
……視線だ。
背中を氷でなぞられるような感覚に、足が止まる。
夕暮れのざわめきが遠のき、鼓動だけが耳の奥でやけに大きく響いた。
息が胸の手前でつかえ、視界の端がかすかに歪む。
「……な、んだ……?」
振り返る。
けれど、そこには行き交う人々の姿しかない。
買い物袋を提げた主婦。
スマホを見ながら歩く高校生。
店先で値札を並べるおじさん。
誰も、彰を見てはいなかった。
それでも、何かだけが皮膚の下へ潜り込んでくる。
(……ほんとに、気のせいか?)
そう思っても、背中へ貼りついたざわつきは消えない。
握った拳の中で、御剣さんの声が響く。
『鍛え続けろ』
その一言が、怯えかけた心を支えていた。
彰は拳を握り直し、そのまま足を前へ出す。
重かった空気が、ほんの少しだけ前に押し分けられた。




